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2009年12月3日木曜日

山田ラーメン  うまっ!!




午前中、弊社スタッフのT氏が担当している決済を無事終え、時計を見ると11時26分。まだ間に合います。山田ラーメンに早足で向いました。

恵比寿南に事務所があったときはチョクチョク理由していたのですが、事務所が中目黒に移ってからは12時過ぎると行列になってしまうので中々行けずじまいでした。今日はセーフです。
日産のゴーンさんもお贔屓のようです。
T氏は味噌ラーメン、私は隠れメニューのカツカレーです。昔どおりの味でした。そしてこのボリュームで850円とは安いです。揚げたてのカツはサクサクしていて脂身も少なくこれだけでも食せます。
添えてあるキャベツも箸休めに丁度です。あー美味しかった!!

厨房の人は昔のままです。家族で切り盛りしています。
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美味しくて、安くて、ボリュームがあってあったかくて何も文句はないのですが、一つだけお願いしたいことがあります。テレビをブラウン管に戻して下さい。液晶だとグレーになって下からは見えません(笑)



行きたいお店 寿司 金多楼

弊社が管理させてもらっている駐車場の目と鼻の先、三宿の緑道近くの住宅街に「金多楼」というお寿司屋さんがあります。

店構えからしてごく普通のおすし屋さんなので見過ごしていましたが、ある方のブログからの情報ですがとても良い握りを出すようです。お値段もそこそこで家族経営でつましくやっているように見受けられます。

もちろん情報ですのでリテラシーは必要です。しかし、写真を見る限りとても丁寧な仕事と見受けられます。穴子のふんわり感、青物の皮のひきかたどう観ても旨そうです。


今度、少人数で伺いましょう。

ブログにリンク貼らせて戴きました。

日本辺境論 内田 樹著

内田 樹氏の日本辺境論を呼んでなるほどと思ったり、えっどうしてと強く思った箇所です。


●私たちはたえず外を向いてきょろきょろして新しいもの外なる世界に求めながら、そういうきょろきょろしている自分は一向にかわらない

●「執拗低音」basso ostinatoだとどんな旋律が乗ってきても同じ音で絡み付いてゆく歴史的な回帰性をうまく伝えることが出来る

●現実というものは常に作り出されつつあるもの或いは作り出されていくものと考えないで、作り出されてしまったと、いな、さらにはっきり言えばどこからか起こって来たものと考えられていることである

「虎」は自分を「虎」として「何がしたいのか?」という問を受け止めることが出来るが、「狐」(虎に化けた)は自分が「虎」として「何がしたいのか」という問を受け止めることはできない


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ほとんどが丸山眞男の言葉です。こんなことを予めインプットして坂の上の雲を見るとまた別の感覚ににとらわれると思います。

片方もって沙汰するな

私の所作の基本は「片方もって沙汰するな」です。人間は多かれ少なかれ現状維持バイアス偏向バイアスに振れるものです。

マルクス・エンゲルスを読んだ後は、ケインズを読み返すとか、村上春樹を読んだ後は司馬遼太郎を読み返すとかということです。必ずものごとには表と裏つまり陰陽道でいう陰と陽があります。

昨日も池田信男氏の著作「希望を捨てる勇気 停滞と成長のの経済学」を購入しました。別に森永卓郎氏の著作を読んだからではありませんよ、彼の本を読んだ物はありますが・・・・・別に・・・・・・・


氏は経済学者ではないのですが、その出から分かるように攻撃的な記述が多く、その点がかえって読者としては読みやすいと思います。

昨今のマスコミの報道を見ていると円高→経済の打撃→日本の凋落という図式で中小工場の社長の悲鳴を取り上げています。アホくさくていやになります。

既に日本は輸出主導の経済からダイナミズムに構造変革できなければ奈落の底まで国力が落ちるのは自明であります。

過去の歴史を見ても、明治時代は軽工業中心でした。それが鉄鋼を中心とした重工業にシフトし、さらにエネルギーは石炭から石油にこれもシフトしました。産業自体も一次製品から二次、三次製品に変化してきています。つまりダイナミックな変化に企業は対応しているのです。

いつまでも売れない(欲しいと思われていないから売れない)ものの輸出に頼るようではこの国の将来はありません。結局、韓国のHという自動車メーカーも日本から撤退します。

本田宗一郎氏や松下幸之助氏がよく物づくりの神様と礼賛されます。しかし、これは物づくりという行為や手先の器用さではなく、欲しいと思うものをつくる進出気鋭の精神=エンタープライジングに注目すべきです。

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東京大学新聞にテレビにもなった「ハゲタカ」の著者真山 仁氏のインタビューが載っていました。そうあれは外資が悪いのではなく、責任は己にあるということを言いたかったとのことです。日本人の性格からどれほどの人がそう著者の思惑が分かったのか心配しております。