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2010年7月27日火曜日

黒沢明「生きる」 verendenとsterben

ドイツ語にverenden=フェアエンデンsterben=シュテルベンという二つの単語があります。

2つとも共に「死ぬ」という意味です。前者が動植物の死に対して使い、後者は人間に対して使います。

人間と動物の死の違いは何でしょうか?それは生物学的死に行きつく結果は同様でも、人間にとってそのプロセスの中で精神的成長が可能だということです。

看護学を履修した人は学ばれたと思いますが、死を受け入れる、つまり悲観のプロセスというものがあります。このプロセスを経て人は死を受け入れていくものなのです。そう京都大学霊長類研究所のレオ君との違いなのです。

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黒沢明監督の映画に「生きる」という名作があります。三船敏郎が珍しく出演していない映画です。
映画のストーリーは市役所に勤める主人公が突然、がんを宣告され、しばらくは自暴自棄になり遊び呆けるものの虚しさを覚え、それまで無視していた再三の住民からの公園を造ってほしいという要望を必死に役所の上司を説き伏せ、その公園を完成させ最後はその公園のブランコで絶命するといストーリーです。ここで重要なのは役所の仕事に不満で退職し、おもちゃ工場で生き生きと働く当時の部下の女性なのです。彼女の一言がこの主人公に「生きる」目標を持たせた訳です。

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閑話休題

私達が大切な家族を失ったり、また自分が死と直面した時に、こうして生きる目標を持たせてくれる人が必要となります。心の癒しです。できれば同じような境遇を体験した人であったりするのがベターです。まだまだ日本人にはこうした死の教育(生きる教育)がなされていません。高齢化する社会での社会の手そのものです。

ドナルド・ジェイ・フェイゲン ”Morph the Cat ” 高田みち子

音楽の師であるM先輩は今でも滅法音楽に詳しいです。もっとも弟さんも角松敏生さんと一緒にセッションやっていたこともあるのですから相当なものです。

そのM先輩に良いよと教えてもらったのに全く違う名前の人を探していました。人の名前と電話番号覚えないのは昔からですが・・・

そんな中、ドナルドフェイゲンの2006年リリースのアルバム持っていないことに気がつきました。



ナイトフライで一世を風靡した彼の音楽は好きです。この「モーフ・ザ・キャト」も彼の音楽的センスが感じられます。もちろんこの2006年にリリースの「トゥ・アゲンスト・ネーチャー」他のステーリー・ダンのアルバムも持っています。





そうそう、先輩が教えてくれたのは高田みち子さんでした。アルバム視聴しましたけど、良いですね。80年代のポップスとジャズが融合されて、まさに日本版ノラ・ジョーンズ(言い得て妙)です。



早速、2枚注文しました。新しい「トウキョウガールズトーク」と「ナイト バズ」です。
アルバムにある大桟橋と観覧車というタイトルの歌気にいりました。

ウィーン 寅さん公園


ウィーンにいる友達が最近「寅さん公園」が出来たと言っていました。

嘘だろうと調べてみると本当に出来たみたいです。寅さんのウィーンロケは知っていましたが、葛飾区とウィーンのフロリズドルフ区姉妹区とは知りませんでした。

寅さん好きかって?もちろんアタボウヨです。

寅さんはアウトサイダーでありながらも、人間関係を大切にし、自分より他人の幸せを優先するそんな「良心」がテーマです。

一方では「はいはい、結構毛だらけ猫灰だらけ・・・」なんていう名セリフは外国人に分かるのかなとも思いますが、我々が観るウッディアレンの映画と同じようなものかも知れません。

昨年は帝釈天に行き、草団子は食べませんでしたが、河千屋でうなぎを食しました。今年も涼しくなったら今度は川にでも行って鯉こくでも食しましょうか・・・・・・・・

夏目 漱石 「彼岸過迄」からの一節です「 敬太郎は久し振りに晴々としたよい気分になって水だの岡だの帆かけ舟だのを見廻した。……二人は柴又の帝釈天の傍まで来て 「川甚」という家に這入って飯を食った。」

京都大学霊長類研究所 「レオ」

京都大学霊長類研究所で飼育されているチンパンジーの中に肢体が麻痺して2年半も闘病を続けている「レオ」君というチンパンジーがいるそうです。

その飼育をしている人がチンパンジーには「絶望」はないという話をしていました。

絶望」や「希望」は人間だけが持つもので、チンパンジーは今=現在を生きているのみだからだそうです。いうなればコインの裏と表。

人間は過去や現在を照らして未来を予想します。

「坂の上の雲」ではありませんが、明治の頃には欧米の文明に追いつこうと言う「希望」がありました。

昭和30年頃には「ALL WAYS 三丁目の夕焼け」にあるような高度経済成長による消費の拡大で「アメリカのような暮らし」という「夢」がありました。

今はとうでしょう?どこを見ても「希望」も「夢」もありません。考えれば考えるほど「絶望」が顔をのぞかせます。国民が現実を逃避して、今しか見ないのだとしたら「チンパンジー」と同じです。

この国はどういう国になるのでしょう。私の代はまだ良いです。娘や息子の時代が気にかかります。

市長を辞職し、国政に舞い戻りながらも、愛人問題で裁判をしているどこぞの人やセクハラで話題になったZ市長、文房具の購入で裏金を作った官吏のように、この国の政治家官僚には矜持というものがないのでしようか、嘆かわしいことです。それでいて神奈川フィルの活動予算は事業仕訳でカットされるんですからSパパでなくても怒ります。

これ以上考えると「絶望」の前に「怒り」で体温が上昇しそうですからやめておきます・・・・・

STYLE

代官山のお店「STYLE」とは関係ありません。(笑)

6.7年前からよくこの「STYLE」という言葉を耳にします。使っている方は「自分のファッションやインテリアの好み」というようなつもりで使っているのでしょうが、中には「生き方」みたいな意味で使っている人もいます。少し前の流行語みたいですね・・・・

それぞれでしょうが、前者の意味に限定しても私にはこの「STYLE」がないんです(笑)

例えば、ある時にはイタリアのモダンデザインが好きだったり、またある時はレトロモダンなアメリカンなインテリアが好きだったり、統一性がないんです。

ファッションもしかりです。あるときはイタリアブランド、あるときはイギリスのテーラード、また気分によってはウェストコースト風と・・・・どうでもよい訳です。

自分を肯定する訳ではありませんが、物の見方というのは時代時代によって違って当然なのではないでしょうか。ずっと同じと言う人は物凄く若い頃より先見的鑑識眼を持った人か、そうでなければただの頑固者です。

ファショナブルとは別に高い品物を身につけている訳でも、流行に鋭敏な訳でもなく、その人となりが自然に出ているそんな風情が感じられる人ではないでしょうか・・・・・・・

今日はオフィスに短パンです。人と会う予定もなく、午前中から高速を飛ばして逗子です。そう私の今日の気分は中目でなく湘南なのです・・・・・・・・・

床下の小人たち メアリー・ノートン


巷ではスタジオジブリの新作「借りぐらしのアリエッティ」が上映され話題をさらっています。

この原作「床下の小人たち」メアリー・ノートン著は私の子供時代の大好きな本でした。

本の虫だった私はもう寝なさいという母の忠告を「ハイ」といいながら、布団の中で読んでいたことを思い出しました。(懐中電灯で照らして読むのがワクワクを増幅させました)

熱心に本を読むとその世界に入り込んでいきます。目の前にありありと本の世界が広がり、小人たちの洋服が色鮮やかに再現され、言葉まで聞こえてきます。

しかしながらそれらは頭の中で組みたてられるもので、頭の中にないものは組み立てられません。

この本に出てくるジョージアン様式の館など見た事もないのですから。

私の組みたてたジョージアン様式は、近くにあった古い洋館のそれだった訳です。

きっと大きく異なっていたのでしょう・・・・・・・

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もうひとつこれも何回も読んだ「スウィフトのガリバー旅行記」です。

こちらは前書が人間のものを拝借して、自分たちのものとして作り変えてしまう小人を通して人間の知恵、賢慮と言ったものを感じるのに対して、こちらは人間の持っている下劣で暴力的な側面が表れています。

人間の手がいかに汚いのかそのときに感じました。(潔癖症ではありませんが、よく手を洗うのはそのせい?)

宴が終わり、話題にもされなくなったころに映画館に足を運ぶことにします。