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2010年12月27日月曜日

来年に思う 卯年 

来年はウサギ年です。卯の字は本来草木がぼうぼうと茂るという意味があります。

解字はもともと門という字を開けて伸びた草木とい意味があるようです。

兎は「宇佐木」「明眎」「娩子」「舎々迦」という言い方もあり、釈迦の前世は兎だったと言われているようです。

実はこの兎、月と兎を結ぶ話は、洋の東西を問わず存在し、ルイスキャロルの不思議な国のアリスでも、異界に誘導するのは兎の役目です。日本でも兎の餅つきがありますね・・・

そんな卯年はまさに「門」を叩く年、「株守りて兎を待つ」にならないように、「兎の耳」のようにアンテナを張り、時代の潮流に飲みこまれぬようにしなければなりません。

鳥兎怱々」「兎の角論」にとらわれるとチャンスは「脱兎のごとく」逃げてしまうかもしれません。

兎の跳躍力よろしく飛躍の年にしましょう・・・・・

コモディティ化と付加価値

財物は一般に自由競争にさらされ続けるとコモディティ化します。どんなに売れ筋でも市場に蔓延し、どの会社でも容易に生産されるようになれば価格の一番低い商品価格がその財の価格となるのです。(一物一価の法則)

先般、今年になって19回も海外渡航している犬友のK井氏が新しい仕事を任され、本当はコアの1を売りたいのに、それ以外の99も売らなければならない」と言っていたことを思い出します。

彼の専門分野である重電気の原子力発電も、発電所本体以外にもそれに伴うコンデンサや昇圧装置、中継システムなどもろもろの付属する設備もパッケージで売るというのです。

なるほどパッケージになれば情報の非対称性は残ります。つまり情報の対称性が成り立てば、コモディティ化し、差別性、優位性は失われるのです。

ネットワークの怖さとは実はそのところなのです。価格のオープンは消費者にとって悪いことではありません。むしろ歓迎されるべきことです。しかし、それが進めば企業は意欲を減退し、はたまた保護主義に向かう恐れさえあります。

情報の非対称性とコモディティ化難しいテーマです。

腸内細菌 クリストリジウム属

23日付けの米国科学誌サイエンス電子版に東京大学とヤクルト研究所が共同で研究していた、ある腸内細菌の減少が免疫異常を発症するその原因物質を突き止めたとありました。

この物質はクリストジウム属の細菌でボツリヌス菌のような人間に有害なものもありますが、研究ではクローン病のような病気の患者はこの細菌が減少しているとの報告もあります。

いずれにせよ、解明が進められいち早く実際の治療に応用できるようになってほしいものです。

息子にこの研究の主任の本田賢也准教授の名前を聞いたら「もちろん存じています」との返答でした。同じ免疫系でもその取り組み方により複数の研究室があるのも同大ならではです。

息子には「パンの糧とならず、人々のためになる実績を残してほしい」と強く思う訳です。

しかし息子曰く「これからが難しいんだよ、まさに神の領域に近く、その物質の基序を解くことは並大抵の苦労じゃないんだ、発見してすぐ実利になるのは皆無なんだよ」

なるほど分子治療薬のアバスチンの治験をやっていたものの重篤な合併症が出て今休止しているようにおいそれとはいかないもののようですが、期待してしまいます・・・・・・

痛ましい事故

数年前、同様の時期、私は下り線を走っていると、上り線、東名川崎インターをそのまま3号線へ接続する手前で、大型トラックが普通乗用車を大破していね光景を観た記憶があります。、その後ニュースで親子3名が亡くなったと聞いたとき本当に痛ましい思いでした。

昨日も、中原街道の歩道を歩いていた歩行者に乗用車が突っ込み大破し、小さな子供を含む沢山の死傷者が出たとのニュースです。

あの交差点は、私が独身時代沼部に住んでいた頃、生活用品を買うためによく横断していました。通りの向こうには六軒商店街が田園調布まで連なり、とても生活に便利なところでした。

私も妻も良く使っていました。亡くなった方も夢にもそんなことは思わなかったでしょう。亡くなられた人はもちろん遺族もその悲しみははかりしれません。さらに加害者もこれからの人生を大きく変えられることになります。双方にとっての不幸です。年末年始、飲んだら乗るな、心のブレーキを注意掛けて下さい。

ちなみに私は燃費を気にして走るようにしています。そうすると無理な加速や減速もしなくなり、車間距離も開けるようになります。

是非お試しあれ・・・

影響を与えたひとこと

とあるきっかけで大学で教鞭をとる(その当時は在籍していたが今は退官された)方と同郷のヨシミも加わってお話させていただく機会がありました。

そのとき上州名物の話になり、私が赤城山の裾野のなだらかなことを上毛カルタという地域の名産や景勝をうたう句を引用して

「裾野は長し赤城山ですね」と申したところ、

その先生は「いや私のところからは裾野は長しじゃなく、裾野は見えないんだよ

「その句は赤城山の東西から読んだ歌で、とても限定的なんだよ」

そうつまり我々は自らのいる位置を中心として捉える傾向があり、事物の判断はほとんどがこの傾向に当たると・・・・

確かに、相対的な感覚というのは我々に乏しいと言わざるえません。

人の好き嫌いがはっきりしている人がいます。以前、申し上げた某有名デザイナーの奥様がエールフランスのビジネスラウンジで隣席で待合の時、その当時、連勝していたプロゴルファーのI氏に対して、

「あの人、花がないわね」「花がなけゃだめよ」と言ったことが印象的です・・・

だって、花があるかないか、ダメかどうかどうして決められるんですか?

己の極小の経験と倫理観に置いてそう発するのは独裁者のそれと同様ですね。

皆さんこんな批評ばかりしていませんか?恥ずかしいですよ・・・・

私なんかその好き嫌いさえコロコロ変わるのですから、「花がない」なんて断定はできません。

Conseveとはそもそもその物が減耗、変質、損傷しないように維持務めるとい意味があります。したがって社会、制度、規律などが伝統的で急変しない関係に用いられます。つまり保守的であると。

もともと物事は細胞のアポトースシ同様、最終的には「死」に向かって変異していくものだと考えている私はこの正反対の思考法です。

朝ある事は夜あるとは限りません・・・・・・・

天才中学生VS

年末になると見るテレビがなくチャンネルを次々と替えていたら掲題のような番組をやっていました。

息子の出身高です。いや、出場していた人には申し訳ありませんが、天才でも秀才でもありません。ただの凡人です。

息子の頃にはまず優秀な生徒はこういった番組に出ないものとなっていました。もちろん、最優秀でなくても学校の名前を背負って行くのですからそれ以外でも遠慮していた雰囲気があったそうです。

マスコミとは恐ろしいものです。観ている人はあの番組で勝手にイメージを作っていくのです。

私は息子に言いました。「国立大学法人化はいつかかならず平均化する。そのときはK高校やE学園の方が歴史と伝統も残るかもしれないよ」

息子曰く、「僕がいる間は大丈夫でしょう。確かに10年くらいすると変わるかもね・・そのときはここにいないから大丈夫」

昨日のテレビを見ると私の危惧が現実のものになりつつある気がします。

後援会は卒業生の組織化を図るようです。しかしそれには現役世代の飛びぬけた努力が必要なのは言うまでもありません・・・・

年末恒例 書籍まとめ買い

大晦日の午後と元旦は炬燵から出ないと決めています。何故なら、年末にまとめ買いした書籍をロングランで読み続けたいからです。私の密かな楽しみです。もちろん年賀状がきても取りに行きません。ただ、ただ読み耽りたのです・・・・・・

今年購入したのは以下の書籍です。










後段の2冊は私のような零細企業では必要ないでしょうが、会計学をかじった(嘗めた?)身としてはIFRSの導入によってのれん代が償却できなくなったりすることは今までの会計の基準に強く影響を与えると思われるので勉強用です・・・・ハイデガーは55歳という若さで急逝した門脇俊介氏への鎮魂の意味もあります・・・・・

組織と個人 オルテガ スティグレール

経営学を学んだことのある人なら組織論について世の中にその専門書は星の数ほどあることは既知であろう。あえてそのような大上段からとやかく述べるつもりは無い。

ただ、私の周りには大企業の社長、VBの執行役員、大手メーカーのエンジニア、証券会社役員、エアラインの部長等、所謂企業の要にいる人、さらに個人経営者、芸術家、左官屋さん、大工さん、お豆腐屋さん等企業に属さないで働いている人と様々な人たちと会話する機会が多い。

ここでどちらがどうのと言うつもりはない。ただ、オルテガが言う「人間不在の人間でないもの、精神不在の人間でないもの、魂のない人間的なもの、非人間化された人間的なもの」を集団=組織には想起させるものがある。



したがって、それらに属する人たちには思うと思わざるにかかわらす゛集団についての親和性が高い。

オルテガが言うように警察官に一時停止を命じられて止まるのは、己の意志ではない。警察や国家、己に社会的役割を命じているのだ。そして己はこの装置となりえるのである。




ベルナール・スティグレールはデリダとの会話の中で「テレビやインターネットは常時外部世界を家庭内に導き入れる、私達の生活はいっそう孤立し、いっそう個人化してしまう。そして私達は公的交空間と私的空間の区別を失い、家庭内に寛ぐことが出来なくなる。」

そしてこのような結果、領土が形作る国家や市民といった伝統的脱地域化への導かれ、プチ国家とも呼ぶべき、自己や家庭への回帰をもたらす一因となっている。」と警鐘を鳴らしているのである。

「坂の上の雲」を見ていて、ロシアと戦争をする時、相手にやられる前に相手を討つという切羽詰まった国民の心(軍部や政治家)が、まさに「慣れ」「社会的な見えざる手」によって戦争を社会装置化し、国民を太平洋戦争に運んだことを思うと、我が国の制度としての官僚主義は明治より綿綿と受け継がれ存続している事を再確認するのである。

当然、組織との親和性を持たない私ですから、己の社会装置化されることへの嫌悪と反発はかなりのものだが・・・・・