このブログを検索

2011年8月31日水曜日

小麦文化県 スナックの焼うどん

隣の長野県と違って群馬県は小麦の作付や収穫が多いのです。裏を返せば長野ほど山がちでもなく、埼玉や茨城のようにお米が取れないということになります。

収穫量は全国4位です。

どうりでひもかわうどんというぺらぺらのうどん、焼きまんじゅう、ぎゅうてんの類は全て小麦が原料です。特に東毛地区にはこの手のローカルフードが蔓延っています。

あのあたりでは場末のスナックに行くと必ずと言っていいほどおつまみに焼うどんがありました。おつまみにですよ。味付けは醤油とソースの両方があったと記憶していますが、とにかく青海苔、紅生姜たっぷりの飾り付けはおかしな位に他のローカルフードと似ています。

群馬で麺類と言えばうどんです。東京に出てきてこんなに美味しいお蕎麦があることに驚きました。

しかし時折り無性にこのB級まっしぐらのローカルフードが食べたくなるのです。えっ??昨日もソースかつ丼で十分にローカル???そうでした息子は普通に食べていますが、普通の家ではソースかつ丼出ないかもしれません・・・・・悪しからずでした・・・・

クレジットカードのお話



お金の話は無粋ですが、私のお金の使い方についてそっとお教えいたします。

私は22歳の頃、丸井で買い物をクレジットカードで分割購入しました。当時引越しやら、職場異動やらで月々の支払いを忘れた事があります。13000円の支払いを2カ月滞納してその後7年間カードを作れなかった苦い経験があるのです(もっとも作れなかったのは某国内信販系のみ流通系カードは強制的に加入させられた)

その経験からか、その後一度も遅延もありませんしリボ払いは一切したことがありません。

今はどんなお店でも自店のクレジットカードを薦めますが、あまりに多くなりすぎると管理が出来ません。私の場合には海外での利用も多く、限度額が小さいのも困りものです。会社の備品の購入にもカードを使う機会も多いのが実情です。

ダイナースは富士銀行の頃より利用し、現在はブラックです。ご存じのようにブラックは年会費が高く、それなりの利用をすることが所有する前提です。しかし、ダイナースと私は相性が良いようで、シティバンクになりサービスがどうなるか心配していたのてすが、今回は1年分の会費がサービスになりました。ラッキーです。

さらにこのブラックにはクラスワンというHISのサービスも附帯しました(通常は1年間80万以上のHISの利用が前提となる)これを利用すると空港から手ぶらで帰ってこられます。

またハーツレンタカーのNO1ゴールドも無料です。長い列で順番待ちをせずにさっと手続きが終わります(このカウンターのないハーツもある。カフルイはあります)

さらにコナミスポーツの法人会員です。年会費を払わなくても月単位でも一回ごとでも利用できます。

私は十数年セントラルスポーツに加入していたのですが、使わない時は使わないので、1年に4.5回という年もあったほどでした。その後市が尾のメガロスに変更したのですが、ここは駐車場が少なく、待ち時間をして駐車場に入れる始末です。

高いので当たり前と言えば当たり前ですが、それなりの理由もあるようです。

我が家ではガソリンは月に4.5万使うのでリッターあたり4~5円ガソリンが安くなる、エネオスカードは便利です。年会費も千円ちょっとでVISAも付いています。同じくVISAのついているユナイテッドのマイレージカードは来年退会する予定です(こちらは年会費五千円とちょっとで自動的にマイルがたまり失効しませんが、肝心のUA自体マイルが使えません)

三越カードは年会費無料なので入っていますが、ほとんど使わず海外でのMASTER使用時の補償のようなものです。

一番大切なのはこれらのカードの使用額と日別明細書を現金出納とともに記載し、管理していることです。

ケチは一日にしてならずのお話でした(笑)

小説神髄 小説を書くということ

村上春樹氏の小説は世界中の国で翻訳出版され読まれているのに対して、日本人の愛してやまない司馬遼太郎氏のものは翻訳さえほとんどなされていないと以前書きました。

司馬遼太郎氏の小説はいわば歴史を言葉で表現したものです。私たちは体験していない(過去は体験できない)ものを「こうだったのか」と頭の中にしまいこむ作業をする訳です。

私たちは授業で歴史を学びます。だからそこには事前知識と司馬氏の文章が重ねられそれぞれの捉え方が出来る訳です。

しかし外国人の場合は違います。よほど日本の歴史に精通した人ならば別ですが、普通の外国人には難しいのです。

逆の場合もあります。例えば「ツリー・オブ・ライフ」というパルムドールを受賞したショー・ペンとブラッド・ピットの名優二人による映画が公開されていますが、この映画も映像の美しさと演技力は普通の日本人は理解できるのですが、こと受け継がれる何かとしてのキリスト教的世界観に話が及ぶと今一つ実感できないのです。

では村上氏の小説はどうなのでしょう。それは誰もが現実の自分を等身大で「置き換える」ことが出来るのです。誰もが青豆になり、圭吾になれるのです。それは他ならぬ村上春樹氏の抽斗の多さの為せる技なのです。

例えば3号線のすぐ横に建っている西日のあたるマンションのベランダにある鉢植えの木は「ゴムの木」でなければならないのです。ベンシャミンやサボテンでは駄目なのです。こうしたトラップが私たちを村上ワールドに引き込んでいくのでしょう。

つまり抽斗が多ければ多いほどその筆致多くの人の共感を呼びます。

ヘミングウェイが今なお読み継がれているのは、彼の文章は自らが体験してきたその事実だからです。海の描写も釣り上げる記述も彼が全て体験したものをバラバラにして再構築したものなのです。小説と言うミンチにはなっていても本当の肉の集まりです。

春樹氏はきっとものすごく観察力があるのだと思います。それをせっせと自らの抽斗にしまって必要な時に取り出して構築するのです。

小説はあくまで、私小説です。全くのフィクションなど存在しません。自らの体験したことを切り刻んで、再構築するその一言です。

小説の真似ごとをしてみて、小説家とは如何に大変かわかりました。食に関するエッセイ程度ならなんとか出来そうですが、長編となると最初に何を書いたのか忘れてしまいます(笑)

書くと言うことは自らの抽斗をひとつづつ無くしていくことなのです・・・・・・

Capella Hotel&Resorts

北海道出身の友人が(彼もスキーをやる)ニセコアンヌプリに超高級なリゾートを作っている聞きました。建築は安藤忠雄氏とのこと。彼ならば自然と調和した建物を建てるはずです。どこかのマスコミ好き(今日もラジオで出演予定といっていた)のK氏なんかよりずっと良いです(建築家が設計した建物を批評することは、建物を作品としか見ていなくて施主を愚弄しています)

ところでこのリゾートを調べてみるとカペラホテル&リゾートという施設で、既にドイツ、メキシコ、NY、セントーサ(シンガポール)などに建てられています。当初はリノベーションによりものが多かったようですが、新しく作るものはレジデンシャルを備え、タイムシェアと共存させます。

タイムシェアなら建築コストの早期回収が出来る訳ですね。

そしてこのカペラホテル&リゾーツの創業者はリッツカールトンの創立メンバーで、ラテン語で志し、信条、約束を意味する「クレド」の生みの親ことホルスト・シュルツなのです。

これは知りませんでした。

アマンリゾート、ワン&オンリーなどホスピタリティを誇るホテルは多くありますが、どれも小規模です。大規模にチェーン化できるほどホスピタリティに特化しているのはリッツ以外にはないと思います。

NYにもあると聞きます。一度のぞいてみたいものです。

写真はHPよりお借りしました。








呉越同舟 組閣

今回のようにシ首相指名が逆転で決まったのは石橋湛山以来と初めて知りました。ということは今まで出来レースがあまりに多かった???

今回の組閣を見て、みなさんどう思われました。

私は少し驚きました。輿石氏、平野氏を起用するのは党内融和の点で理解します。しかし、もとは同じ派閥で政経塾の後輩、さらに事の顛末に至っては後出しジャンケンの前原さんを登用するとは驚きです。菅さんなら絶対しませんね。辞める前日にそれまで凍結していた某学校の無償化という外交的戦略も加味される政策を全く己の個人的主義主張で進めたのは、イタチの最後っ屁っていうんですよ。

こういった考え方を見ると、己の損得よりどうしたら問題解決を行えるかという実務家という印象を受けます。今までの鳩山さん、菅さんはあまりに理想主義を掲げすぎましたから。

特に沖縄の問題は数十年掛けてほんの少し前進したものを全く白紙にし、事態は膠着してしまいました。理想主義の結末です。

菅さんに至っては己が信用されていないことから、誰も信用できなくなり、目もうつろです。アメリカからの善意の申し入れさえ断ったというのですから、何をかいわんやです。

しかしその民主党以上に断末魔の聞こえるのは自民党です。民主党の支持率が低下しても、支持率は上がらないではないですか。妻を亡くされて可愛そうですが、谷垣さんがテレビに映ればうつるほど敗戦の将が負け惜しみを言っているようにしか聞こえないのは私だけでしょうか。

自民党でテレビに映るのは後は石原さんくらい。彼で選挙は勝てるのでしょうか?

自民党の若手のリベラルな人達は除名されようが、この国の為になるならば与野党関係なく、法案を議論し、政策実行するべきです。そのような人達を除名するようなら自民党は解党です。もっともそういう人達を受け入れる寛容さと慈愛が与党に求められるのは言うまでもありません。

マスコミは「急げ、急げ」と言います。そうでしょうか。急げという言葉の裏側に「そんなに慎重に議論する必要は無い」というメタファーが含まれているものです。それでは困ります。時間をかけるものは例え緊急時でもしっかり議論し、すぐに進められるものと峻別していく必要があります。

呉越同舟をやってのけたのですから、大きな国の将来を示して下さい。

それにしても「どじょう」と野田さんが言ったからといって、下町のどじょうやを取材するNHKのアンチョコさはどうにかなりませんかね(笑)

2011年8月30日火曜日

ボストン 姫沙羅と西洋ヤナギ

レンはアメリカにきてすでに18年が経過しようとしていた。

若い頃、レンの研究の世話をしていてくれた中ボスは、突然、アメリカの大学に引き抜かれ移って行った。中ボスの年齢を考えると最後のチャンスだっろうから仕方が無かった。しかし当時のレンは自分を引っ張って来てくれたその人がいなくなる漠然とした恐怖と研究者としてこのまま道を閉ざされてしまうのではないかという不安に取りつかれ、その災禍を払うがごとく、新しいボスに気にいられようとやっきになっていた。ジュネーブの学会に出席したのもその頃だった。

その後、レンは細胞の老化に関するプロモーター配列の解析に成功し、論文も認められ大学で順調に進んで行った。研究室も潤沢な予算をもらうことが出来るようになり、自分の進めたかった研究に拍車がかかった。

そんな順調な大学教授ではあったが、金銭的には普通のサラリーマンとは変わらなかった。それでも自由に研究が出来るそのことでレンは満足していた。

そんな折、アメリカに引き抜かれて行ったかつての中ボスがレンに手紙をよこした。

手紙の内容は最近のレンの研究を高く評価するもので、最後に、もしレンにその気があるならアメリカに来ないかというものであった。アメリカの大学でその専門の研究者を探しており、終身教授の待遇で迎えたいというものであった。

アメリカの教授は終身教授とそうでない教授がいる。そうでない教授はいつレイオフされるかわからない。だからこの申し出は破格のものであった。さらにその研究にはアメリカの政府と某製薬会社も共同で関わっており、大学のラボ以外にも世界で有数の施設を持つこの製薬会社のラボも使え、毎年、国から莫大な助成金が下りるといおまけもついていた。もちろん、渡航に掛る費用の他に住宅、車も全て出してくれる。

レンの母が腰椎管狭窄で手術後も回復せず寝たきりの状態であったことが気がかりたったが、父親はレンの渡米を後押しした。同じ医者として、一人の患者を治すのも医者、数億人という人の病を治すのも医者と口癖のように言っていた父だったらなおさらだった。

レンの母はその年の暮に亡くなった。脳梗塞だった。突然だった。父も母を追うように次の年の夏に亡くなった。死因は熱中症、猛暑の中での農作業だった。

レンは母と父の葬儀の度に日本に戻ってきたが、父が菜園として借りていたその畑を地主に返すと日本に戻ることはなかった。

製薬会社のラボも大学の研究室もボストンにあった。レンはボストンから南に4マイル程離れたクインシーという街の海を見下ろす小高い丘に住んでいる。

レンの住む家は真っ白で窓には同色で塗られた鎧戸が付いている。屋根にはささやかながら暖炉の煙突がその口をのぞかせていた。

このあたりの住宅は日本のように無粋なブロック塀や金網のフェンスはない。丈の短い生垣があるだけで、通りが見渡せる。その生垣も春には白い花を楽しませてくれる。

芝生はまるてビロードの絨毯のように端正に刈り込まれつやつやしている。

その緑の絨毯のところどころにほっそりした姫沙羅と西洋ヤナギが交互に植えられている。レイは西洋ヤナギがウィローということは知っていたが、姫沙羅をCrepe Nyrtleということをこの家に引っ越して初めて知った。その木立の中を2匹のリスが楽しそうに登ったり降りたりしている。

レンはラボからの帰り道、かなり遠回りになるのだが、クインシーショアドライブという海沿いのルートを通ることが好きだった。

レンはBMWのオープンカーに乗っている。色は白だ。内装は薄いベージュで落ち着いた色だ。
帆布の色をどうしようか悩んだが、オーシャンブルーという濃い青にした。

片側二車線のその道路はよく整備されている。大西洋の風を左ほほに受けながら、のんびりと走ることがつかの間の自由な時間だった。

レンはカーナビのハードディスに録音しあった、ラフマニノフ交響曲第2番を第二楽章まで聞くと、スイッチをラジオに切り替えた。

初夏の夕暮れのしんみりとした風が心地よかった。

ラジオからビートルズのザ・ロング・アンド・ワインディングロードが流れてきた。レンはビートルズの世代ではなかったが、この曲でビートルズの解散が決定的なものになったと父親から聞かされていた。

当時レンはこの曲が解散のきっかけではなく、もっと前から既にその崩壊は始まっていのだと子供心に思っていた。

車が住宅街に差し掛かると、老夫婦が歩道で立ち止まっている。レンはゆっくりスピードを落とした。

止まりながら、左手でフロントガラスの上に付いたクローズスッィッチを押して屋根を閉めた。その老夫婦が道路を渡り終えることを確認して、ゆっくりアクセルを戻し、滑るように車をカレージに止めた。

玄関を開けると白いタートルネックのセーターを着た女の子と男の子が駆け寄ってきた。レンが代わる代わる抱き上げて、ただいまのキスをする。

女の子は髪を後ろで束ねてポニーテールにしている。タータンチェックのスカートを履いていて男の子より背が10センチ近く高い。男の子はカーキのチノパンツをサスペンダーで留めている。セーターは誰かの手作りのようだ。

着替えをしようと階段を上ろうと一段目に足を掛けたときに、キッチンから妻の声がした。

「今日は日本食よ。早く着替えてきて。レンの大好物のおでん。ちゃんと大根も入っているのよ。レンの好きな餅入りの巾着も鰯のつみれも全部自家製。朝から作ったんだから」

妻は嬉しそうに声を弾ませていた。今日は15回目の結婚記念日。

着替えを済ませ手を洗ってうがいを済ませてから、レンは見られないようにそっと持ち帰ったケーキの蓋をあけ、妻の好物のシャンパンを空けた。
シャンパンは今日は奮発してルイ・ロデレールのクリスタルを買った。15周年は水晶婚ともいうから。そしてケーキにはR&Rと二人のイニシャルがチョコレートで描かれていた。



レイがレンに渡そうと思っていた本はD・H・サリンジャーだった。ただ他の本と違うのは、本のタイトル「The Catcher in the Rye」のスペルのeとyを入れ替える矢印がいたずらっぽくえんぴつで記してあった。

今でも黄ばんだ背表紙のその本が暖炉の上の書架の一番隅に置かれていた。

(終)










味憶 ぎゅうてん コロリンシュウマイ 子供洋食

名前さえ忘れていたのにここ何本か郷里の特集をする番組が続いた。

アドマチック何とかという番組で名物のベスト20なんてそんな数あるのだろうかと心配していたら思い出せなかった懐かしい食べ物が次々と出てきた。

ちなみにゲストコメテーターで登場していたプロゴルファーのN氏の家は藪塚でK氏ではない。高校のころに一度だけ球ひろいのアルバイトに行ったことがあったが、私より年下の妹の躾の悪い事、口の悪い事に驚かされた。もちろんバイト料はもらえず、一日で辞めた。

食の話に戻します。

子供洋食と言うのは今でも時々作る、ジャガイモの料理で、青海苔と生姜のアクセントで中々乙なものです。


コロリンシュウマイというものは肉らしい肉はなく、まるでこんにゃくのような食感で、私はあまり好きではなかったが、リヤカーでよく売りに来ていた。


ぎゅうてんというのはよく母親がよく作ってくれた。ぎゅうてんというのに牛肉は入らず、くず野菜で作ったものだ。名前は完全に忘れていた。東京にきて初めてお好み焼きを食べた時にその美味しさに驚いた。似て非なるもの・・・



この3つの料理に共通するものは?それはソースです。しかもウスターソース。

東京に来るまで、濃厚なブルドッグソースなんて食べた事が無かった。

私のウスターソース好きはそうやって親から私に、私から息子たちに繋がって・・・・ツリー・オブ・ライフのように・・・・なんてたいそうなものではないのだが、舌の記憶として残っていくのだろうか??

そうそう、ソースかつ丼はもちろん、ウスターソースです。は志多美屋派ですが、N氏のようにNスペシャルなんて頼みません。普通の皆が食べているヒレかつで十分です!!

あのどんぶりにかつ四個が基本ですから!どんぶりの宇宙を侮っちゃいれません!


「銀座 奥田」  「しち十二侯」

銀座 奥田」はミシュランで3年連続三ツ星を獲得している「銀座 小十」の奥田透氏が今年の8月に自らの名を冠して新規オープンしたお店です。

三ツ星にはさして興味はないものの、この人の料理は食べてみたいと思います。

そんな話題の新店がダイナースで特別の枠を作ってくれたのです。今日から予約開始ということで早速電話をしましたがすでに20名の枠は一杯で電話は今も鳴りっぱなしとのこと諦めました。

いつかチャレンジしてみます。奥田さんが今は徳島から鳴門に移った名亭「青柳」で修行を積んだことも興味があります。

もう一店行きたいお店があります。

こちらは六本木にオープンした斎藤章雄氏のお店で「しち十二候」です。

以前、Sパパが社長をされていた頃、同ホテルの風花の料理長としてその美味しさに驚きましたが、ホテルを辞められた後、出店したとのことです。

もっとも彼はだいこんやの料理長をしていたというので(私は代官山も、自由が丘も食したことがある)その当時食べていた事があるのかもしれません。

代官山はロックストーンと同じビルだったと記憶しています。自由が丘はなくなりましたが、代官山はどうなんでしょうね・・・・

そんな話題の2店です。今のところ個人的には京都「丸山」の日本料理が勢いがあり、美味しいと思っていますがこればかりは食べて見ないと何とも言えません。

食い辛抱の性であります・・・・

明暗 転機

先般、新首相の野田氏のことについて触れましたが、皆さんもすでに野田氏の経歴生い立ちについて調べられていると思いますが、彼が国会議員になったのは日本新党を細川氏と立ち上げ、当時のジバン、カンバン、カバンを持たないのスローガンで当選した人でもあります。

街頭演説を彼の基本とするのはこのころからです。

実は当時、私より一つ下の後輩もこの細川氏に可愛がられ日本新党から衆議院議員に当選したのです。彼も同じく軽トラックに乗り手弁当で農村をくまなく回り、その姿が認められ当選したのです。

つまりはそこまでは野田氏と同じ位置に立っていたのです。

しかし、その後後輩は何を間違えたか、この恩ある大人を裏切ってしまったのです。私は当時の公設秘書の方と懇意にしていたのでよくそのことが分かります。

ミスや間違いなら誰にでもあることなので仕方ありません。しかし、ルサンチマンを抱かせるのはいただけません。

そう考えると人間の人生とは常に選択と変化の連続なのだとしみじみ思うのです。

シャルルドゴール 第2ターミナル

階段の左手にあるレストランの看板を眺めていたら、下からレンが上がってきた。ここは階段だけなのでそのスーツケースを重そうに両手で一段ずつ引き上げながら、途中で一息しながらレイの方を見上げた。レイは手にベーアッシャベー(BHV)と書かれた袋か持っている。

「なんでそんなに荷物あるの?」

「資料やら、PCやら色々中に入っているんだよ。それにホテルのランドリーは高いから、着替えとかもあるしね」

「いつからそんなに綺麗好きになったの」

レンは少しむっとしたが、すぐ笑顔で「大人になるといろいろ大変なの」

レイにはその言葉が引っかかった。

「私だっていろいろ大変なの。学費や生活費も稼がなきゃならないし、付き合いもあるし」



二人は黙ってしまった。そのまま何もしゃべらずに、アトリエ洗濯船という名前の由来が書かれているそのホテルに向かった。

建物は瀟洒な感じで、ブルーのストライプのシェードが窓に掛けられていた。

しかし、建物は小さくホテルというよりアパートを少し綺麗にしたようなものだった。

フロントは狭く3人もいれば満員になってしまうようなところだった。

チェックインの際、お一人ですねと上目づかいに睥睨された。レイは部屋には行かなかった。

レイはホテル前のベンチに腰をおろし、レンが戻ってくるのを所在なく待った。外は冷たい風がざわざわと落ち葉を拾っていく。

レンの部屋は狭くスーツケースの置き場もない。仕方なくベッドでトランクを開けシャツを着替え、上着を羽織って部屋を出た。

表に出ると、空は薄暗くなりはじめていた。

パリの緯度は高く、よるでも薄明るい白夜のような空になる。

薄暗いモンマルトルの坂道をくねくねと蛇行して歩く。途中にラパン・アジルというレストランの横を通りかかると中から、フランス語の歌が聞こえてきた。シャンソニエが歌うその歌は物悲しく切ない。

歌声が遠くなるころテルトル広場についた。

いつも賑やかな広場も、画家たちは荷物をまとめすでに広場は閑散としていた。

レンは「ビール飲みたい。のど乾いた」と子供のようにレイにいう。

レイは「この時間だとカフェはもう閉まっているし、下まで行かないと飲めない、下まで待てないの」と少し困った顔で窘めるように言った。

「待てない、待てない、早く飲みたい!!!」

レイはうんざりした表情で一人で歩き出していた。

アペス駅近くまで坂を降りて、小さなカフェレストランに入った。レイは白ワインとキッシュ、レンはビールとムール貝をオーダーした。レイはムール貝にビールはないだろうと思ったが、レンはどうしてもビールが飲みたいというので仕方なかった。それにレイはこの時期にはどのレストランも得意料理といって皿いっぱいのムール貝を出すので、その料理には辟易していた。
レイのキッシュは冷めていて美味しくなかった。ワインも酸味が強く、チクチクとし美味しいとは感じられなかったが、レンは美味しい美味しいとニコニコしながらまたたくまに皿を平らげ、ビールのお代わりもした。

レイは一番好きな場所をレンに見せようと思ってこの坂を登ったのだが、途中から疲れたを連発するレンとビール騒ぎで結局何も言わなかった。それだけはない、手紙にあれだけ書いていたのに全く気づかないレンの無神経さに少し頭に来ていたのだ。

二人はお互いの近況を話したが、お互いそれぞれの言い分を言っているだけで会話ではなかった。そう、それは説明に近しいものだった。

あるときにレンはレイがペンダントをしていないことに気がついた。

レイはペンダントを数日前にクリニャンクールの蚤の市に行った時に無くしてしまったのた。あれだけ大切にしていたものを無くしたのでレイはショックだった。しかし、レンには知られたくなかった。

蚤の市のまわりにはジプシーが集まる。彼らは子供も含めて集団でやって来て。スリを行う。取られた時には大声を上げるのが鉄則なのだか、レイはその時取られたことに気づかなかった。

確かに、プツッという僅かな音は聞こえたような気もするが、首には全くの衝撃もなかった。

レイは取られたことよりも、学校の講師の一人の男性と食事をするためにこのペンダントをして来ていたことが後ろめたかった。もちろんこの男性とは時々食事をする程度の間柄であったが、後ろめたい気持ちと何であんな場所にしていったのかという後悔が増幅した。

「なくしたの、数日前、たぶんすられたと思う。友人の男性と食事に行くときにスラれたみたい」

「一人でその男性と食事?」

「一人だけど、何もないよ」

「何かあるとかが問題じゃない。そもそも、もう帰ってくるといっていたのに1年延ばし、さらに1年、学校の講師をしているといってもそれじゃ食べられないからアルバイトまでしている。結局、日本で言うフリーターと同じじゃない。それでこれ、ひどくない」

さらにレンの言葉続いた。

レイは異国で懸命に生きている自分をこんな風にいうレンに悲しくなった。レイは涙を拭うこともなくそのまま席を立ち、走ってレンの前からいなくなった。

レンはフォークを強く持ちそのまままだ食べ続けた。立ち上がったレイには目もくれず、反対の手で残ったパンにムール貝のソースをつけ食べ続けていた。

翌日の夕刻、シャルルドゴール空港は夕闇に包まれていた。

レイは一晩中、自分が何をしているのか、何故ここにいるのか、そしてレンのその厳しい言葉を反芻した。人はなぜ好きな人をそこまで人を傷つけることが出来るのかレイには理解できなかった。離れていることはお互いのストレスではあるが、心の中で通じていると言う思いが、レイを勇気づけたし、心強くもあったのに、それが昨日の一言で脆くも消え去った。

シャルルドゴールにはターミナル1とターミナル2がある。レイはターミナル1が好きだった。レイは新しくてピカピカしたものより、少し人の使った温もりのあるようなものが好きだった。ターミナル1はロサンゼルス航空の建物のようにその姿は前時代的なものだ。エスカレーターも決してスムースではない、ガクガクッと時折り音がしたり振動もある。でも機械が動いているという実感がある。

今日のエアラインはエールフランスなのでターミナル2だ。天井はガラス張りで鳥の形をしている。
モダンで明るいその建物はターミナル1とは対照的だ。

レンはターミナル2の方が好きだと言った。あれほどハイブリッドカーや電気自動車は嫌いだと言っていたレンなのに今はハイブリッドカーに乗っている。

二人はターミナルの長椅子に腰をかけた。一人分の席をあえて空けて座り、ほとんど無言だった。

出発の最終案内が聞こえた。レンは機内用のバッグを持ち直すと、レイに儀礼的に体を気遣う言葉を掛けながら、足早にゲートに消えて行った。

レイも飛行機が離陸するのを待たずに空港を後にしてパリにもどって行った。手には渡しそびれたBHVの袋の中に一冊の本が残ったままだった。

オムライス 自作



オムライスのことを考えていたら、オムライスの夢をみました。これはいけないとばかり自作のオムライスです。

添え物は千切りのキャベツのみ。

中々、旨くできました。鶏肉やマッシュームもきちんと食感を残しています。缶詰のグリーンピースが多すぎたのと玉子がやや厚くなったので評価は85点というところです。ポイントは熱々のご飯を使うことと、ケチャップの水分を飛ばしておくこと、バターを入れるタイミングです。

近々、近くにこの手のオムライスを食べさせるお店を発見したので感想をご報告します。

************
************


我が社のA女史が作るお酒のおつまみ、作ってみました。

超簡単でも美味しいですよ。ビールのおつまみにはばっちりです。

キムチにカイワレをまぜ胡麻油をたらして、玉子をのせるたげです。玉子がキムチの辛さを調和して美味しいのです。

段々 久々

暑いのと鎌倉ベースにいたので段々は久しぶりです。

アンジュは嬉しそうにボールをもってお尻をくっ付けてきます。

ビヒリンりカエデちゃんは飼い主さんがフランスにいっているのでメイちゃん家がお預かりのようです。

みんな元気そうです。


政治談議 月曜討論

心臓血管外科の試験勉強のため珍しく家にこもって勉強している息子と政治談議です。

我が家の婦女子は参加しません。

野田佳彦氏が次の日本の首相と決まりました。あるマスコミに言わせるとどちらにしても民主党は次の選挙で敗れるのだから、誰でも良いし、それまでは何もしないでほしいとの意見がありました。

そうでしょうか、2年間この国はもちますか?2年間も何もしないでこの国は大丈夫なのでしょうか?

今の政局の問題は、民主党も自民党も右と左に膨張していることです。その中で民主党の右派、自民党の左派は実は集合で言うところの交わりにあたるのです。

例えば野田氏の靖国論は自民党の左派の一部の人より右寄りかもしれません。さらに外交姿勢にしても隣国の大国に対しても強硬論なのです。

総理に必要な政策を私が論ずると息子は「どこの知識の受け売りなの」と失礼なことをいいやがります。まあ、いくつかの論説の集合体であることは事実ですが、根っこはきちんとしていなければなりません。政治に無頓着な経営者はまず失敗します。

話は変わりますが、日本国債の格付けについて先般さらに下がったと聞きます。その筋の専門家に言わせると今の日本国債の格付けはおかしいとか、逆に独立性を保っていて好ましいという意見もあります。私は専門家ではないので分かりませんが、日本国債はバブルの後にもっとずっと低く評価されていたのです。私にはその後、財政出動のみで経済成長もないのにここまで格付けが上がったことが不思議でなりません。だって、何一つ成長していないのではないでしょうか。

話は次期総理について戻します。野田氏に期待するところは、親類縁者に政治家がいないと言う点と松下政経塾が堕落する前の一期生という点、さらに街頭演説を毎日のように繰り返したという体力です。自民党の二世議員は首相になって顔面蒼白、早々と辞任したではありませんか。

首相、お願いします。復興はチャンスです。世界に向かってこの国のアピールするまたとない機会なのです。世界が未曽有の災害を忘れ去る前に!!!

2011年8月29日月曜日

オムライス再び しんみち洋食エリーゼ

私の舌には「ことぶきや」のオムライスが原体験として刷り込まれているので、オムライスの定義は以下のようになってしまう。

①玉子焼きはあくまで薄くパリッとするくらいのもの
②玉子の均一になっていてはいけない。白と黄色が綺麗に織り込んであるのが良い
③ライスはリゾット風はだめ、でもパサパサはもっとだめ
④具はチキンまたはハム、マッシュールーム、グリーンピース(エリンギなんて駄目)
⑤ソースはケチャップ、サラダはキャベツの千切りでドレッシングは要らない
⑥価格は千円以下

よく通っていたしんみち通りにあるエリーゼがこれに似たオムライスを出していたことを思い出した。ポテトサラダは御愛嬌で良しとしよう。でも学生時代は高かったので食べられなかった。30歳を過ぎて近くの設計事務所に打ち合わせに行くときに時折り食べたのが初めてだった、今はお値段はいくらなんだろう、今度再来してみることにする。

写真はイメージです。

4敗1引き分け 麺の話

銀座ア**の鎌倉駅西口のかた焼そばに始まって、若宮大路のあ***のラーメン、小町通りの二**の排骨麺と3連敗のあと、盛華園のラーメンはまあ普通として1引き分け、そして本日、東急本店の揚州飯店です。ここの上海焼そばは美味しいのですが、今回は翡翠麺にしました。

これがその翡翠麺です。



はっきりいって惨敗です。具にイカと海老とホタテがのっているのですが、麺とつゆとがアンパラスです。

麺はぼそっとしています。金糸玉子もこれには合いません。参りました。駒沢のオムライスも聞くところによるととろっと系なのでやめます。うーむ、このところ敗戦続きです。起死回生のホームランは中々出ないようです。

実行力のある人

民主党の代表選、つまり日本の首相、リーダーを決める訳です。それなのに立候補者の誰を見ても実行力があると思える人はいません。

日本のリーダーが今求められているのはおそらく以下の点ではないでしょうか

①原発の収束の方法と道筋
②復興における国のビジョンと具体的方法
③財政健全化のための基本方針
④エネルギー政策の策定 例えばスマート戦略なども含めて
⑤短期、中期、長期に分けた経済戦略(成長とは言い切れません)
⑥政治、官僚機構の見直しとそれに伴う制度変更

国民も増税は嫌だとか、子供手当が無くなるのは嫌だと言う場当たり的損得を遠慮しましょう。それより、将来この国をどうするのか、企業も円高、円高と嘆くのではなくどう対処するのか、そうした大局的な見地を考えられる人を首相にするべきだと思いませんか。もちろん国民に負担だけさせて既得権益を守るなんていうのは言語道断です。公務員改革は断行すべきです。

***********
***********

お笑いはあまり見ないのですが、それにしてもイモトアヤコは凄いと思いません。キリマンジェロの登頂にしても、一人で登るだけでも大変なのに、ずっとしゃべり続けて、フォローしていくあの実行力大したもんです。つまりは独りよがりでは何も実行できないのです。周囲を巻き込んで共感させ、実行していく。それこそが求められる実行力なのです。イモトさんの100分の1でも良いから実行力を磨いて下さい。世の政治家の皆さま!!!!

アトリエ洗濯船 テルトル広場

レイのパリでの生活は2年目を終わろうとしていた。

1年の交換留学のばずだったが、お世話になったホストファミリーの父親からパリの美術学校で講師をしてほしいと依頼されたからだ。

レイはホストファミリーの家を出てモンマルトルで一人暮らしをしている。

モンマルトルは下町で昔から芸術家のたまり場だった。レイの住んでいるアパルトマンのすぐ前は今では小さなホテルになっているが、以前は多くの芸術家が出入りしていた「アトリエ洗濯船」という下宿だった。ホテル片隅に今でもそんな説明が書かれている。

モンマルトルは小さな丘になっている。丘のてっぺんは平らで、テルトル広場と言う場所があり、多くの画家が絵筆を運び、似顔絵やパリの風景を描いて観光客に売って生活している。

レイはこうした画家を否定したり、軽蔑するつもりもない。しかし、自分はやらなかった。それはパリの学校に来て一年もたたない頃のことだった。

「ああして簡単な似顔絵を描いて観光客に売るのは自らの腕を切り売りしているようなものだ。もっと言えば、才能を切り売りすることになる。芸術とは切り売りせず、完熟するまで苦悩し、大輪の花を咲かせなければならないのだ。例えそれが生きているうちには咲かないかもしれなくてもだ、優れた芸術家は皆そうなのだ」とベルギー人の講師が生徒皆に力説していた言葉が頭から離れなかったからだ。

レイは優れた芸術家とも、大輪の花を咲かせようとも思わなかったが、病気で生死の境を彷徨ったことが、生きる上で人に諂い意思を曲げて生きることを嫌わせたのかもしれない。

レイはテルトル広場から見るパリの街が好きだった。あれほど青い明るい空に憧れていたのに、パリに住むようになってここの景色が好きになった。

ここからの景色は混沌とい言葉がぴったりだ。特に夕暮れのパリの空はうすいミルキーグレイに青と赤の刺し色をところどころに入れた墨絵のようで、レイの作風とも一致していた。それが時間と共に全体の影がぼんやりしてきて最後には見えなくなってしまう。レイはその儚さを好んだ。

講師の仕事は週に3日だった。それ以外の2日はサントノーレ通りにあるNという鰻屋でアルバイトをしていた。この通りは高級ブランドのお店が連なり、お洒落な人達が多く集まるところだ。レイには関係ない所だと今でも思ってる。

ヨーロッパでも鰻はポピュラーな食べ物で知られている。レイは一度だけその店の鰻を食べたことがあったが、皮はひきちぎれない程硬く、味付けは甘く大味だった。

それでもバカンスを楽しみ日焼けした肌に大きなダイヤを付けた裕福そうなマダムが器用に箸を使いながら美味しそうに食べていた。

レイは面接の時にそのことは一言もしゃべらなかった。

鰻は英語ではEELという。穴子も全てEELなのだ。ヨーロッパの鰻は何でも日本の鰻と種類が違うらしい。鰻の学名はアンギラスという。レイはこんな名前の怪獣がいたなとふと思ったことがあったが、ようはこの何々アンギラスの何々の部分が違うということらしい。

今日はそのアルバイトから帰り途、アベス駅の改札のところで携帯が動いた、サイレントモードだ。

パリの地下鉄は難しいというが、慣れてしまえば使いやすい。必ず行き先が電車に書かれている、それをしっかりと確認すれば良いのだ。モンマルトルという駅は無い。ここアペス駅が最も近い、階段を登ればレイの下宿はすぐそこだった。

携帯の相手はレンだった。

レンとは3カ月以上電話もしていなかった。レイは学校の講師とアルバイトの掛け持ち、さらに講師仲間とも会う時間も作らなければならず空いた時間はヘトヘトだった。

レンは自分の研究が認められ助成金が出るようにまでなっていた。研究室に土日はなく、盆や正月もなかった。

そんなレンよりの電話だった。

「レイ、来週、ジュネーブで学会があって、帰りにパリに行くんだ。教授のサポートだけど、ジュネーブからパリに戻ったら自由な時間が出来るから会わないか」

「土曜日ならOK。どこのホテル泊まる予定なの?」

「教授はチェルリー公園のすぐ近くの高級ホテルたけど、俺はまだ決めていない。レイのところに止めてもらってもいいかな?迷惑?」

「迷惑じゃないけど、狭いし、ちょうど暖房も壊れていて寒いのよ。私の方が避難したいくらいなんだから。レン、下宿のすぐ前のあの洗濯船・・・のホテル泊まれば」

「えっ何洗濯船って?」

「いいのよ、洗濯船、来れば分かるから、私が予約しておくね。きっと安いと思うよ。一泊なんだよね」

「日曜の夜にはパリを出発する予定だから、正式には1.5日かな」

「分かった」

レイは部屋に戻り暖房のスイッチを入れた。




お気に入り CD



この布川俊樹&福田重男さんの「Childhood’s Dream」というCDは布川さんの高校のご学友であるドクターF氏より戴いたものです。

これが中々良いんです。一緒にやっている福田さんは私と同郷ですが、この二人の力の抜けた絶妙なコンビネーションがちょうどシンコペーションしながら次々と感情の襞を開かせていくようなリラックスできるアルバムです。

夜聞いても、朝聞いても良い音楽です。

事務所のBGMは私が作っています。季節に応じて編曲しています。

音楽を自作するようになったのはお店をやっているときからで、折角来ていただいた人にすこしでもリラックスしてもらえるような会話の邪魔にならない音楽を選んでいます。

今はプレイリストがあるのでとても楽ちんになりましたが、当時はLPからテープに編集していましたから大変でした(最初にこの大変な作業をやってくれたのはT氏でした・・)

今は「Late Summer」です。スターターはこのChildhood’s Dreamです・・・

近くのお店 盛華園

いつも近くにきても入らなかったお店があった。小坪は魚が安いし美味しい。だから肉や中華を食べようとはあまり思わず、20年ずっと来た事のないお店もある。

小坪のY食堂という有名店、私には何故並んでまで食べたいのか分からない。チャーハンはただ量が多いだけだ。ラーメンも魚臭い。

材木座に「薊」という中華があったが、取り壊されて住宅に変わっていた。見る限り理想とする普通のチャーハンだったのに残念。

ということで商店街の道を挟んで反対側にある「盛華園」さんである。

ビールとチャーハン、ラーメンを妻とシェアした。

いやこれが中々旨い。お世辞にも綺麗なお店ではないがラーメン500円はまっとうな味だ。

チャーハンもグリーンピースが無いのがたまにきずだが味付けはしっかりしている。

レバニラも今度試したいお店である。

鎌倉での生活が長くなると、そこに住んでしか分からないことが分かるようになってくる。

鎌倉のお店はそのお店のメニュー全てが美味しいということはなく、ここのお店のこれが美味しいと言う風に限定的である。さらに日によって味が違う(先日のN楽荘の排骨麺)

妻が鎌倉在住何十年というミセスに伺うと、土日は観光客がどっと混みあうのでどこのお店も人員を増やし、アルバイトなどで対応させるため味が落ちるのだそうだ。(もっとも違う店もあるけどね)

概ね、大きな席数のある店はそのようだ。

そう、確かに美味しいものはあるし、歴史もあるけど、東京と比べると「浅い」のである。これは歴史ではありません。店の経営の話です。

しかし、そこは鎌倉の人、全て怒っていたのではつまらなくなります。

そのミセスがいうには「平日の暇な時間に行けばいいのよ、そして土日は家から出ないでのんびりしているの」

なるほどそれが鎌倉の極意のようです。

郷に入らば郷に従えの教えのとおりです・・・・・



言いまつがい 

朝からバカなお話で申し訳ありません。

クイズ好きの我が家では昨日も高校生クイズ見ていました。

私がその場面を見ていない妻に向かって

「子規の弟子で河東碧梧桐は知らないかもしれないけど、有名な人知っているよね」

「知っている」

「高浜キョヒ?????」拒否してどうするんじゃい???

違う質問で「ホイヘンスの原理」知ってるよね?

えっ???何「ホリエモンの原理」?????

違うでしょ!!もう収監されてますから???

さらにダメだしは

妻、「そうね彼もうオリの中だしね」?????

猛獣じゃありませんから、塀の中です!!!

とってもトンチンカンで早とちりの我が家の奥方であります・・・・



2011年8月28日日曜日

Perfect Day!!

快晴、風は弱いオフショア、台風12号のうねりが入ってサイズアップしたいい波が入っています。

ただ残念なのはサーフできるエリアが限られていることです。夏の間はビーチにサーフボードが持ち込めないのです。

これだけ海水浴客が少ないのですからビーチでもサーフエリアを作ってみたらどうなんでしょう。

もっともビーチはクローズ気味で大崎や、プール前がいい並です。突端はサイズはあるのですがぎりぎりまで割れません。丁度ワイキキのマリオット前のピアで割れるボディーボード用の波です。

プール前は距離といい、形といいワイキキのシェラトンの沖で割れるTREESに似ています。

駐車場はサーファーの車で一杯です。自転車で行ける私は幸せです。

Perfect Day!! Keep Surfin'!!!



エアポート DELATE

レンは日暮里駅前の喫茶店に12時より少し前についていた。店には入らず入り口でレイを待っていた。

初冬というのにこの頃の東京は暖かい、街を行く若い女の子は相変わらず「生足」にミニスカート、中には半そでのTシャツスタイルのものもいる。

遠くから小さなトランクを引きながらレイがまるで焦点を合わせ間違えたファインダーののようにぼんやりした姿でこちらに向かって歩いてくる。レンはもともと悪かった視力がこのところさらに悪くなり、本当なら眼鏡を作り変えなければならないのに忙しさにかまけてさぼっていた。

レイが見上げるように「何でお店にいないの」というと、「今日、午後休みが取れたんだ。それで友人から車を拝借することが出来たから送っていくよ。時間あるのだろう」

「フライトは夜なの、少し早く行って空港であちらの家族に日本らしいお土産でもと思っていたくらいだから大丈夫」

二人はTで始まる黄色い看板は東京ではどこでも目にするコインパーキングに止めてあった車に乗り込んだ。

レイは大学院に進んでいた。レイの画風は大学四年生の頃から変り始めた、今まで全ての絵の具を総動員するような作風から、黒の濃淡に僅かに数色のみ使だけを使う、まるで墨絵を思わせるものに変っていた。元来水に仕事をさせることの旨かった彼女の絵は、周りから高い評価を得ていた。ある大きな展覧会の主催者が文部科学省とフランス大使館であったことから最優秀賞をとったレイにパリ留学の話が持ち上がったのだ。期間は1年間、ホストファミリーの家で暮らし、パリの美術学校に通うのだ。レイは当初少し迷っていた。レンと離れ離れになることもそうだったが、果たしてパリに行くことが自分に良いのか迷っていたからだ。それにパリには海が無い。

車は酒々井を通り過ぎ空港は近い。レンは確認するように独り言をいう「成田市外方面にはまがらず、空港を目指す」レンは一度間違えたことがあるからだ。

クリスマスにはまだ日数のあるこの時期の空港は日本からの出発する人はあまり多くなく、また空港というところは電車にラッシュアワーがあるように発着便の集中する時間帯があって、それを過ぎるとすうーと人がいなくなる。丁度いまそんな時間帯だった。

レンは空港が好きだった。海外に行ったことはほんの数回だったが、空港の行き先の掲示板に示された発着地や時間の表示が刻々と変る様子を見るのが好きだった。今は液晶表示版に多くが変ってしまったが、パタパタと日めくりカレンダーのように音を立てる昔のものは機械がきちんと仕事をしてくれているという妙な安堵感も加わり、レンはその音も楽しんだ。

レイはあらかた荷物はホストファミリーに送りつけてあったので、今日は小さなトランクひとつだ。レイのトランクはレンが選んだ。レイが最初に選んだのはフランス製の軽量のスーツケースだったが、レイは紙に特殊加工して強化したこのスーツケースが好きだった。スーツケースは全体はオフホワイトで真ん中に2本のベージュの皮ベルトを施してあるクラシックなものだった。何よりレイに似合っていた。

カウンターで手続きを済ませると荷物の引き換えタグを受け取りチケットを確認した。いつも思うのだがこの搭乗券という紙切れには普通の人にはわからないような記号が何箇所も書かれている。
その意味が何をさしているのか。いつかは全て解明してみたいとレンは考えたことがあった。

上階のおみやげ物店に入り、数本の扇子とゆたか地で作られたハンカチ、日本人形を買った。ホストファミリーには12才になる女の子がいると聞いていたからだ。父親は大学で日本文化を研究教授をしているらしい。

昼食を食べていなかったので、二人で和食のレストランに入った。レンはうどんとカヤクご飯のセット定食、レイは暖かいお蕎麦を注文した。

レイが「行くことにはやっと吹っ切れたけど、やっぱり海がないのが嫌だなー、パリの空って特に冬はどんよりしていて、低いっていうじゃない。それは嫌かも、これがカリフォルニアだったらどんなに幸せか、あーあ、暫く海見られないんだろうな」

「そうだね、俺も忙しくてずいぶんと海見てないから分かるよ、別になんでもないんだけど、海の音や風は物凄くパワーをくれるからね。あれって、人間が生まれる前、子宮の中で聞いていた音なのかもしれないという人もいるくらいだからね。科学的には分からないけど妙に納得する話じゃない」

レンはレイに同意していた。二人の何気ない会話がとぎれるころ、レンは渡したいものがあるとデイパックのポケットから小さな箱を取り出した。箱は水色の包装紙に銀色のリボンで包まれていた。

「これプレゼント、君の誕生日が日延べ日延べで今日になってしまったゴメンね」

レイの誕生日は8月だった。レイの誕生日の頃にレンは徹夜で研究発表の論文を仕上げにかかっていた時期で二人でもっとお祝いは後にしようと決めていて、そのままずるずると今日まで来てしまったのだ。

「開けてもいい?」

レンはにっこり頷いた。

箱の中には銀色のペンダントが入っていた、十字架に小さなダイヤモンドが散りばめられている。レイがショーウィンドウを見ながら冗談にこれが欲しいと言っていたものだった。レイは「こんなに高いものどうしたの?」とレンに言いながらもうれしさは隠せない。レイは早速付けてみた。

白い綿のシャツの胸元にそのペンダントはとても似合っていた。

「俺はいつ一人前になれるか分からないけど、いつか海のそばで暮らしたいな。出来ればレイと一緒に。犬は絶対ゴールデンリトリバーを買うんだ」レンは笑いながらも真剣にレイの目を見ていた。

レイは小さく頷いた。レイはそのまま下を向いていたが、足元にポトリと一滴が落ちた。

空港の掲示板はレイの乗る飛行機の遅れを示す「DELATE」を示していた。直行便なのに何故と考えたが、機体トラブルのようだった。レイもレンもずっとこの「DELATE」が続けばいいと思っていた。

2011年8月27日土曜日

Good Wave セプとさくらの海水浴

台風の影響で波が大きくなってきました。

セプとさくらをサーファーの邪魔にならないところで泳がせます。

さくらは私たちが海に入ると喜んで泳ぐので。ボード持参です。

今日はここでも良い波がたっています。うまく捕まえれば結構遊べます。

ただ犬の足がリューシュに絡まるのでリューシュは外しています。

ただここは波の谷間なのでなかなか割れませんのでサーファーはほとんどいませんから安全です。

さくらはちゃんと1時間泳ぎました。最後にはピィピィ言ってそれでも私のボードの周りから離れません。

よく洗って2匹を乾かして、ご飯を食べたらもうぐったりです。

楽しめるうちには何回でも遊んであげましょう。そのために・・・・ですからね??





3連敗 鶴岡八幡 二楽荘 ホノルアストア 三留商店 もんざ丸



鶴岡八幡にお参りに行きました。曇り空で涼しくて自転車で15分です。

階段を駆け足で上ってお参りを済ませて、混んでいる小町通りを縫うように二楽荘で排骨麺です。

銀座ア**とあさ**の2連敗だったので間違いない二楽荘の排骨麺です。



ところがどうしたのでしょう、麺はゆですぎ、それをごまかすためにスープは多めでたぷたぷです。

おまけに排骨は細切れで、冷えています。だから油っぽくてスープが濁っています。

今年4食目ではじめてこんなにひどいものに当たりました。

二楽荘さん、名前が泣きますよ・・・引っ込み思案の妻が会計のときに「麺がゆですぎでしたよと言ったそうとか」

次回同じだったらもう行きません。

帰りがけにホノルアストアで依然見つけた看板と息子のサイズのTシャツを購入しました。

鎌倉ベースにつけてみました。こんな感じ。



TシャツはアメリカサイズのXLです。日本では3Lか4Lです。

妻は寿司酢を三留商店に買いに行きました。

帰りがけにもんざ丸に生シラス有りと妻が見つけたというので、もどって生シラスを購入です。

今日の夕餉は生シラス三昧です。

夕方より耳がひどいさくらを入れようか悩んでいましたが、やはり夏も終わります。くらげもまだ出ていません。入れることにしました。

銀杏と牡蠣フライ

季節は街路樹のモミジバフウの葉を落とし、初冬に差し掛かっていた。

菊坂の下宿の隣の自動車修理工場の親方はこのモミジバフウが大嫌いでいつもこんなことを口癖にしていた。

「この木は葉っぱ大きすぎるのがイケネエ、排水溝は塞ぐし、屋根の樋も詰まっちまう。なんでこんな木を植えるのかお上の考えがわからねえ」

レンは大学での生活は5年目、免疫の研究室にいた。結果はどうあろうと免疫の研究をしようと、それがマイナーでも、陽のあたらない分野になってもいいと思った。あの日の父親の言葉がレンを後押ししたのだ。

医者なのに来る日も来る日もねずみの尻尾に注射をしている。レンはそのことを後悔していなかった。いや後悔しないと決めたのだ。

レンはこの日、実験動物の慰霊祭に初めて参加した。慰霊祭は医学の発展のために死んでいった全ての動物と人間(こちらを先に書かねばならない)のために慰霊碑が作られている。

上野公園からほど近いこの場所にこんな慰霊碑があることはレンは知らなかった。

慰霊祭の当日は学生でも一応きちんとした恰好で望む必要があった。

レンはスラックスにボタンダウンのシャツにネクタイだ。ベルトがコットンのカジュアルなのは少し気後れしたが、ネクタイをしているのでまあ許されるだろうと参列した。

レンの学校のキャンパスはこの頃には銀杏が多くなる。それが落ちてあの独特の匂いを放つ。れんは苦手だった。

レンは忙しい合間を縫って週に一日だけ家庭教師のアルバイトをしている。友達の紹介だったが、レンが研究や授業が忙しく出来なくなるかもしれないとその両親にいっても、なんとか出来る時間でいいからお願いしたいというお互いの決め事やっている。

教えているのは高校1年生の女の子だ。

今日はそのバイトの日。

レンは西片にあるその家に向かう。このあたりは高級住宅街で、江戸時代、権力を手中にしていた柳沢吉保が作ったといわれる庭園がすぐ近くにあった。

教える教科は数学だ。女の子は数学が苦手で、特にインスピレーションで解かなければいけないような因数分解が苦手という。

レンは心の中でそれは違うと思っていた。何故なら、因数分解も数多くコナシテイルとこんなときにはこういった解が必要だと必然的に見えてくるからだ。勉強にインスピレーションという言葉を使う少女にレンは心の中ではこのままでは「無理だろうと」と思った。

家庭教師が終わると、夕食の時間だ。レンはこの家の夕食に惹かれた。夕食があるから家庭教師をやっているというほうが真実に近い。

この家の奥様が作る料理は垂涎ものだ。今日のような肌寒い季節には熱々のカキフライにポテトサラダ、そこになめこの赤だしとくれば、アルバイト料より魅力的にみえてしまう。

カキフライはほどよい大きさの牡蠣を生のパン粉がつつみ、檸檬をしぼるとジュッと音のするようなもので、シャキシャキのキャベツの千切りの甘さは格別だった。

ポテトサラダは市販のように妙にマヨネーズを抑えたパサパサでもなく、かといってゆですぎたジャガイモがべしゃべしゃした駄作のような代物と違い、じゃがいも、にんじん、きゅうり、玉ねぎが見事にそれぞれの味を主張しているのである。

ここの奥様はなんでも下町の洋食屋の娘さんで小さな頃より実家の手伝いをしていたというから納得である。

レンは夕食を食べ終わり、デザートに出されたチーズケーキとコーヒーも平らげ、一礼しその家を後にした。

レンの携帯に着信が光る。レイからだった。

「明日、夕方のエアーフランスなの(エールフランとは今はいわない)、会える?」

「成田にはいけないけど上野なら会える。少し抜けていくから上野で会わないか」

「上野じゃなく日暮里にして、スカイライナーに載るから日暮里にして、日暮里の駅前の喫茶店に12時」

「OK・・・パスポートなくすなよ、レイ」

「うん」

電話をきったレンはしばらくその液晶の画面を見ていた。



マルクスとダーウィン

マルクス本がこのところ売れているようだ。

そんなときはマルクスがダーウィンについて関心を寄せていることを知った。もちろん専門的にとりあげたわけではない。

マルクスにしてみれば「まあいいんじゃない」という具合である。

しかし、一方エンゲルスははるかにダーウィンのことをきちんと扱っている。彼の「自然の弁証法」がその表れである。

つまりマルクスは自然科学においてエンゲルスよりも興味が薄く、「まあいいや」程度の理解だったのだ。

ならば何故マルクスは世の歴史においてダーウィンの理解者となりえたのか。

その問いの答えはマルクスの妻にある。

妻は乳がんで苦しんでいたのだ。

マルクスはランケスター医師(マルクスの信奉者でもない)にどうしたらよいのか助言を求めた。

そして治療についての有用な知識と紹介を得たのだ。

マルクスとて人間、CPスノウがいう「文系と理系の乖離」はこうして融和を果たすわけです。

つまりは経験こそ相互認識の始まりなのです。

共産党宣言の後ろにはこうしたマルクスの苦悩と現実があったのです。

民主党のみなさん、分かるかなこのたとえ・・・・経験こそ相互認識のはじまりなのです・・・・

味憶というもの

人間に与えられた情報で嗅覚味覚ほど原始的なものはない。(と私は思う)

山本一力氏の使う「味憶」とは本当によい言葉だ。

海の無い山国に育った私は高校を出るまで美味しい魚を食べたことがない。

当時の輸送事情を考えれば無理の無いことであろうが、母もそして祖母も概して魚を食べることも扱うことも下手くそである。

母や祖母の名誉のために断っておくが、他の料理は得意なのだ。料理をしないというわけではなかった。祖母は上京して一人暮らしをしている私が祖母のところを訪ねると(祖母は叔父夫婦たちと同居していた)嫁には内緒だとオムレツを作ってくれた。バターで炒めた玉ねぎの入ったシンプルなオムレツ、これがとても旨いのだ。私の卵好きはまさに遺伝かもしれない。

この頃の祖母は料理を作ることを自制していたかもしれない。高齢者の調理事故も多かったし、留守のときに火を使うことは確かに危険だ。むべからん事かもしれない。

一方、妻の祖母は死ぬ間際まで料理をしていた。妻の母代わり(妻は幼い頃母を失っている)の祖母は驚く人だった。人をひきつけるなんともいえない不思議な力を持った人で、理屈で彼女を言いくるめるなんてことは世の聖人とて無理至難と言わざるえない。

祖母の作る料理はいつでも10人前だった。しかしこれがまことに旨い。からす鰈という大きな卵をもった魚の煮付けは絶品だった。適当に入れる彼女の調理は辛くも甘くもなく丁度良い加減で、どんな高級料亭のそれよりも美味しかった。

祖母は人を分け隔てなく接していた。それが人に伝わり、人が人を呼ぶ。妻の祖母の墓は恵比寿にあるが墓参は絶えない。

祖母は妻が母を失ったことを生涯十字架のように背負って、懸命にしかし背筋をピンとして生きていたのかもしれない。そんな祖母に乾杯である。

味憶で言えば私には車の師匠がいた。Hさんである。Hさんは足が悪く、ホンダのスーパーカブをその足の代わりのように見事に乗りこなし、毎朝私のところにやってきてくれた。おそらく死んだ父と同年齢ぐらいだったのではないか(父は明治生まれ)


日本に車が走る前から塗装の勉強をして親方から免許皆伝をもらったような人であった。日本人でプロの塗装工として認められた先駆者であった。こんな師匠から車のあれこれを教えてもらった。

私がプジョーを買おうとすると、「いやいやあれはいけねえ、あの鉄板はぺらぺらで、エンジンは安普請さ。もし外車買うならランチャにしな。あのエンジンはいい。もっとも金あるならベントレーにしな。あれゃいい、機関車のようにドッドッと長いストロークで力強いから最高さ」こんなことを平然と言っていた。

結果、初めて手にした外車はランチャだった。確かにすごく良い車だったが、一年の半年は修理工場に居たようなものだから、壊れるのは当たり前。直ればめっけもん、そんな車だった。今でもランチャのシートが最高だと思う(レンジローバーと金銀の争奪戦ということだろう)


誂えで作ったバーバリーのコートには同じく誂えた帽子もあった。当時の職人は宵越の銭は持たないといい、給金のほとんどは使っていたようだった。足袋のこはぜは金だっというからどのくらいお洒落だったのか分かるでしょ。

毎朝、事務所に来ると私と色々な話をした。同業の人と会うことは苦痛以外のなにものでもなかったが私はこの翁との時間は一日の貴重な時間でもあった。

H氏は美味しいものを教えてくれた。今の情報誌のような「食べてもいない情報」ではなく、自らが経験して美味しいと決め込んだものを私に教えてくれた。

色々なところへ行った。小田原に美味しい干物があると聞けばそこに、柴又の参道に美味しい鰻屋があると知ればそこに、品川に江戸前の天麩羅屋があればそこに、そういう具合には30代の私はHさんに美味しいお店を身をもって教えてもらった。感謝である。

Hさんは甘いものが好物だ。当時の事務所は布製の椅子だったので、Hさんが帰ったあとは菓子の食べこぼしで、Hさんがいたことを誰もが知る由となった。事務のYさんは困ると言っていたが、私にはHさんの残像のように愛おしく感じたものだ。

私にこんな親父が生きていたら、ぜってえ塗装職人になっていたと思う。

Hさんは死ぬ数年前に私に「おれゃいい人生だったけど、息子たちが心配だ。一人息子で細君が馬鹿っ可愛いがりしていたから、駄目になっちまって、心配さ。だけど俺の財産が全部なくなっても仕方ねえ。俺は腹くくっているよ」と私に言った。

私は翁の死後、本来なら十分に支払い可能な債務だったが、さらに収益性を高めるように努力し金融機関とも折り合いをつけた。そして個人的にも出来る限りの応援をしたものの、使う本人たちのその後の自制は利かず、結果、翁の心配していた状況になってしまった。

当人たちのために私は最善の努力をしたが翁にはどう写ったのか分からない。

翁が言うには虎ノ門でビリヤードをしながら手早い昼食で済ませるためにはうな重が一番だったようだ。

そんなことが走馬灯のように蘇る。味憶とは家族そして経験によって培われるものだとつくづく思うこのごろてある。












2011年8月26日金曜日

茜雲 初秋 

レンの家族が住む家は三島といっても山の高台にある。
天気がよければ富士山も見える。三島からは相当登らなければならない。町は見晴台。
こういう坂道には電気自動車はあまり強くない。レンはモーターは一定の出力のため重力が大きくなると慣性の法則が成り立たないと何かの本で読んだことを思い出した。

レンの父親は口癖のように「医者といっても開業医でなく、俺みたいにあっちの病院、こっちの病院と転勤しなければならないような人間には定住する家はいらない。家を買うときは医者を辞めるときだ」と言っていたのに、葉山からここに移る本当の理由は自転車に乗るためだったから少し頭にきた。

レンの父親は10年前からロードバイクにはまり、車など全く興味の無い人間なのに、自転車の話をするときには目を輝かせていた。父のバイク(ロードバイクを乗る人は自転車をこういう)はフランス製のカーボンバイクだ。なんでもそのメーカーはカーボンバイクのパイオニアとの父の説明だった。

ここ三島は「峠好き」にはたまらないロケーションだ。何分、箱根の峠という峠がその対象なのだから。

レンにはなんであんなにただ辛いだけの上り坂が好きなのか全く理解できなかった。

トヨタのハイブリットカーは音も静かで、家の前にすーと到着した。

レンがチャイムを鳴らすと、母が迎えに出てきた。母は真っ赤なエプロンをして、うっすらと化粧をしているようだった。

この母はレンの実の母ではない。義母なのだ。実の母レンが10才のとき行方不明になってしまった。父は当時、あちこちを探し回ったが、色々な話からどうやら他の男と家出をしたらしいということを聞くに及んで、探すことを止めてしまった。レンは母にはもう会わないと子供心に決心した。

それから家では母の話をしなくなった。

一度だけ母が住んでいると聞いた埼玉のK市に、レンは電車を乗り継いでこっそり会いに行ったことがある。そのときの母は娘と思しき小さな女の子と家の前の公園で遊んでいた。レンを見るやいなや駆け寄り、千円札数枚をレンに渡して「旦那がすぐ来るから帰って、お願い」といわれた。

レンは千円札を投げつけると、後ろも振り返らずに駅に向かった。信号も看板も滲んで見えなかった。

それ以来母はレンの心からも記憶からも消去された。

父が今の母をレンに紹介したのは15才のときだった。彼女はレンのために子供の好きそうなハンバーグやから揚げを作ってはレンの機嫌をとろうとした。

レンは義母のことが嫌いではなかったが、父と二人だった頃の納豆、めざし、やきそば、冷奴の食事に慣れていたので、レンのことを気に留めたそんなメニューは気が引けた。

そんなこともあって、レンは残ることにしたのだ。

義母はレンに向かって「そのお嬢さんがレイさんなのね。綺麗な方ね」笑顔とは裏腹につま先から頭まですべての情報をインプットするかのような視線で見ていた。

レンが「親父は何時頃帰るの」と目線を遮るかのように聞くと、義母は「今日は早く帰るって言っていたからもうじきだと思うわよ。それより、お嬢さんにお先にお風呂にでも入ってもらったら 疲れたでしょ」となかば決め事のように強引に催促した。

レイは「私はまだ結構です。お父様にお会いする前にお風呂なんていただけません。レンさん入ったら」とレンの目を見ながらレイは顕かなNOのサインを送ってきた。

「うん、俺運転で疲れたから入ろうかな」と風呂場に向かって立ち上がった。

この家は中古の住宅を買ったので、ところどころに当時のインテリアが残っていた。竣工したのは今から30年前。購入してから壁紙と床、台所とトイレは改装したのだが、風呂はそのまま使っている。だからいまどき使わないようなピンクの壁タイルやシチリアの海に炭を混ぜ込んだような濃い色の浴槽もご愛嬌だ。

風呂場の窓を開けると西の空に茜雲が見えた。季節は夏から秋に移ろうとしていた。

湯上りに義母の出してくれた枝豆とビールをレイと一緒に食べた。なんでも家の近くの農家の人が父の患者さんで、自宅でとれるダダチャ豆を毎日のように持ってきてくれるのだという。

レンが東京で食べる水っぽい枝豆とは全然違う。確かに旨い。ただビールの冷えが足りないことがレンには不満だったが、父が冷たい飲み物が苦手で、ビールの適温は12度という訳の分からないこだわりをもっていたことを思い出した。

店で頼むビールは12度以下なのて゛少し待ってから父は飲んでいたが、レンはこれじゃ炭酸が抜けちゃうとそのこだわりには不満だった。

しばらくするとキィーキィーという自転車のブレーキの音がして父が帰ってきた。ヘルメットを脱ぐと、父がレンを見て「おっ」というまもなくレイを見て「よくいらっしゃました」と頭を下げた。

あれたげ髪の毛の量が多く、剛毛だった父の頭も少し禿げあがったようだ。

父は「シャワー浴びてくるから食事の用意をしておいてくれ」と義母に言うと風呂場に向かった。

風呂場から父の十八番のアリスの歌が聞こえてきた。義母は「いつもこの歌なの。毎日嫌になっちゃう」とまんざら嫌でもないわという高揚した声でレイに向かっておどけてみせた。

レイは「楽しそうですね」とにっこり笑って答えた。

父が風呂から上がり、母の得意料理、鳥のから揚げを筆頭に近くで取れた、とうもろこし、水ナスの漬物、もずく酢が並んだ。

父はうまそうに焼酎のロックとビールを交互に口に運びながら、平らげた。

レンはレイのことを紹介し終わると、自分の今の状況や専門課程を選ぶ時期で自分が迷っていることなども父たちに話した。

父は一言レンに向かって「医業も一般の会社でも同じだよ。理想ばかり追っていてもその理想も変ってしまう。それは自分も変るからなんだよ」

そして父は続けて「今俺はほとんど心臓外科の手術はしていない。目が悪くなったんだ。でもそんなことはじめたときは考えもしなかったよ。心臓外科医といえばエースだとちやほやされて何か勘違いしていたのかもしれない。でも今こうやって新たに心療内科の勉強しているんだ。このあたりの患者には老人が多く、外科医が内科の勉強をするんだから可笑しな話だけど、あの人たちを見ていると必要だと感じたんだよ。だからここでは1年生さ。」と笑いながら焼酎を飲んだ。

レンは葉山にいたころ父が悩んでいたことをはじめて知った。あれほどN先生の片腕とまで言われていた父が、その人生をかけた手術をあきらめてここに来ていたとは知らなかった。レンは心の滓が降りるのを感じた。義母に対する気持ちもすーっーと平らになっていく自分を感じた。





さくら??? 本当はママ好き!!

さくらの右耳が爛れて薬をつけても一向によくなりません。頭をふるし、頭を撫ぜるだけでキャインと鳴きます。

あんなにほえるさくらなのにお客様にも無反応です。

早く病院に連れて行かなければと心配していたら。妻が帰ってきたら様子が違います。

ボールで遊んでとずっとおねだりをします。

元気、元気、つまりは妻が居なくて寂しかった????

セプは知らん顔ですが、犬とは分からないものです!!



マリブビーチ 材木座

夏の平日は逗子の駅前が渋滞するので、国道134号線を通って森戸方面に行くほうが早い場合があります。

本日は東京から大切なお客様がこの鎌倉ベースを見学にこられるのでランチをどこにしようか迷っていました。年齢的には気取ったフレンチやイタリアンより和食が良いのですが。

うなぎの「つるや」さんは駐車場がなく、本日は脊椎管狭窄で足に出ているお客様に加わり、わが社のアホタンT氏は階段で腱断裂をして身体障害者2名なのでここは駄目です。

二楽荘の排骨麺は美味しいのですが、ラーメンはないでしょう。

妻いわく、ピスカリアなら後から奥さんや娘さんにも教えてあげられるからいいんじゃない。とういう言葉を受けて。ピスカリアです。

予約入れなかったらアウトでした。鰯とウイキョウのパスタと万願寺唐辛子と赤いかのパスタです。前菜は6種類です。オクラのフリット美味しいです。アンチョビソースがグッド。

そんなお客様を乗せて134号線から材木座に出ると、その景色はあれ??あれ??

どこかの景色と似ています・・・・・・そう、そうマリブビーチです。

皆さん、そう思ってこのトンネル抜けてなだらかな大きく左に曲がる道を見ながら輝く海面はとても素晴らしい景色です。


この写真は小林昭さんが60年代に撮ったマリブの写真です。

そうか私はマリブの近くに住んでいるんだ・・・・新しい発見です。

2011年8月25日木曜日

三島 櫻屋

9月に国民休日法とか言う訳の分からない取り決めで出来た連休を巷ではシルバーウィークというらしい。

今年はうまく休めば7日になるという。

もっともレンが休めるのは2日間のみ。研究報告が大詰めをむかえようとしていた。

かねてよりレイが連れて行って欲しいと言っていた一泊二日で三島に行くことにした。

レンは友人の車を借りることにした。この友人は実家は同じ医者でも開業医で今年の連休は友人も一緒にイタリアに旅行に行くので、車は使わない。

ぶつけない、満タン返し、洗車有りを条件に借りることが出来た。

友人の車はトヨタのハイブリッドカーだった。何でも友人の父は「エコ」という言葉に弱く、買ったばかりのエアコンも「エコじゃないから」という理由だけで買い換えるようなに人らしい。

友人はうまくそのあたりをついて買ってもらったようた゛。

でもレンは実はそういう車が好きではない。ぬるっとした動き出しが爬虫類を思わせるし、車の音というのは心臓のリズムのようにある時には車の調子を伺うこともできるし、会話の間にこの音が入ることで親密な空間を幾分緩和してくれる気がするからだ。

車は小田原厚木道路に入り、伊勢原を通り越した。この通称「オダアツ」はネズミ捕りで有名な道路だ。

友人は買ったばかりのこの車を走らせた初日にこの道路で30キロオーバーで捕まった。

切符をきる警察官が「ありがとうございます」と言ったそうだ。

最短なら箱根ターンパイクで行くべきだが、タイヤメーカーの名を関して無料になったものの、寝不足なのに妙にハイテンションのレイのことが気になり、熱海ビーチラインを選んだ。それに早川で分岐する高架の道路が大きく右に曲がるときレイは飛行機に待っている気分になれることを知っていた。

熱海の市街地は閑古鳥が鳴いている。東洋のマイアミという錆びきった看板が過去の栄華をさらに物悲しくする。

車は小嵐町をぬけ、熱函道路を進む。

この道路は下りにはカーブが続くものの車の台数は少ない。

東京から一時間あまりでこの田舎の景色にかわる。

レイが目を覚ました頃には、車は狩野川近くを走っていた。

三島の駅前の楽寿園は今は市の管理する公園となっているが、ここは明治の造船王こと緒明菊五郎が私財を投じて確保した場所なのだ。

緒民氏はのちに台場に榎本武揚の助力を得も造船所を建設することになるのだ。

そんな公園を右手に見ながら、車は鰻屋の前を通りすぎた。

ふみきりを渡ったところの立体駐車場に車を止めて、少し戻るように鰻屋に入った。

よくみるとその鰻屋の脇に小さな川が流れている。

店に入ると昼食時を過ぎていたのにほとんど満席だった。二人は二階の大広間のような座敷に通された。

レンは窓の下の小川を眺めながら、三島が何故鰻屋が多いのか、レイに説明した。

でもレイは納得しない。

「だって湧き水が多いからというなら、安曇野や北海道もそうなの?なんかその理屈納得できないな。もっと他にあったんじゃないの。例えば肉魚禁止令かなんかあって、鰻は除外するとか」

レイは梅でいいと思っていたのに、レンが竹を頼んだ。折角なんだからというレンの強い勧めにレイは従った。でもうな重にはしない。うな丼である。うな重のあの重箱の隅をつつくという行為がレイは嫌いだった。嫌いというよりも、真っ白な丼ぶりの淵に鰻のたれのみが筋のようにのこり、残雪に春の進んだ景色を思わせるキップのよさが好きだった。

ほどなくして運ばれてきたうな丼は鰻は醤油の香ばしさが全体を包み込み、うなぎには旨味と滋味が交互に織り交ざった光り輝く衣のようにタレがまとまりつき、つやつやしたご飯にすっと味を沁みこませている。

二人は無言で食べ続けた。

食べ終わるとレイはレンに向かってペコリと頭を下げて「ありがとう、ごちそうさまでした。美味しかった」と言った。

レンはその姿があまりに可愛かったので、手を下に差し出して大きなヂェスチャーで「どういたしまして」と笑って答えた。

店の外では大きな籠に入れられた鰻が体をくねらせながら秋の日に金色に輝いていた。

車は高台のレンの実家に向かった。




蝉の声 つばめ

通り雨に打たれたレイは頭も肩もびしょ濡れだった。レンはハンカチをレイに渡したが、レイは「すぐ乾くよ」と受け取らずメニューに目をやる。

レイは「今日は絶対キーマカレーにしようと決め込んできたのだけど、やっぱりこのカダイブラウンにする。こんな雨に打たれて蒸し暑い日には、思いっきり辛いカレーがいい。それに海老は大好物」

独り言をいうように、レイはメニューから目を離さないで話し続けた。

「私、今迷っているの、来年には就活だけど今年も来年もひどいみたい。こういうの就職難民って言うらしいの。私難民は嫌だもん、だから大学院に進もうか迷っているの、もちろん水彩画で食べられるとは思ってないの、でも何かもっと学ばないと、駄目な気がしてるの」

レンはやっとメニューに目をやりながら、あらかじめ決めていたように

「俺、ホウレンソウのカレー、モグモグ・・・なんたっけモグレイカレー」

と言い終えると、レイに向かって話し始めた。

「いいんじゃない。世の中モラトリアムなんて馬鹿げているといわれるけど、この歳で何をするかなんて決められないよ俺だっておんなじさ、俺はまだ2年、専門科目も始まったけど医師になるなんて全然自覚無いよ、教授から専門は何にするかなんて聞かれても分かりっこない。レイの病気を研究しているのは免疫系の研究室でまるで実験室のようなところ。あれ医者じゃないでしょって思うよね。それにそこの教授がなんていうか、医者じゃないんだ。禿頭で子供のような恰好で研究室のビーカーでコーヒー沸かして飲んでいる。俺ああいうところ駄目だな」とレンはレイのビニールの袋に目を落としながら言葉をゆっくりとつなげた。

レイはレンの言葉をさえぎり続けた。

「私は絵を描くことは好きだけど、なんていうのか限界感じちゃうの、天性のものかと思うほどはっとする絵を描く人に会うと、私なんかたいしたもんじゃないと卑下しちゃうの。だからもう少し何かを身につけなければと硬くなってしまうの。先生は私の絵は私じゃなく、水が仕事をしているから良い絵だと褒めてくれるけど私はちっとも釈然としないの」

二人のテーブルに大きな焼きたてナンと海老のカレ、ホウレンソウのカレーが運ばれてきた。給仕は流暢な日本語で「この海老のカレーとても辛いです。ホウレンソウは少し」と笑いながら伝えた。

ホウレンソウのカレーはホウレンソウとジャガイモの甘さが出ていてこくがあって美味しい。一方、海老のカレーことカダイブラウンは海老の旨味を十分に引き出し、それでいてスパイシーな香りが胃を刺激する、辛さが尋常ではない。一口含めば鼻から汗が噴出す辛さだ。二人はお互いの料理を食べ比べながらカレーの一滴も残さずナンを指のようにして全て平らげた。

店を出る頃には雨は止んでいた。どこからかヒグラシの声が聞こえる。

数羽のつばめが雨上がりの街路樹の間を縫うように飛んでいる。

レンもレイもこの時期につばめをみたことがあっただろうかと自分の記憶のもやいを引き寄せたが、はっきりとしたことは思い出せなかった。

オムライス ことぶきや

今巷で洋食屋と名のつく店に入りオムライスを注文すると、ふわふわの卵でとろとろの中身が出てくるような高級なものが多い。

中にはケチャップの代わりにデミグラソースがかかっていたりする。

それに価格が高い、Sパパが言っていたように1500円を下限に2500円するものもある。

だから私は滅多ことではオーダーしない。

時折、時代遅れのガラスのショーケースにグリーンピースの見え隠れするサンプルが見えたりすると俄然嬉しくなる。でも出てくるものはチキンライスがジャーに入っていたようなパサパサのもので失意。

ずっと忘れていた名前を今朝思い出した。

子供の頃育ったK市の我が家の隣は中華も洋食も作る食堂だった。息子は東京の大学に行っていたが帰って父を手伝うようになった。

T大の空手部といえば泣く子も黙る猛者の集まりと聞くが、立派な体躯に比してその声は小さくはずかしがり屋だったと空ろに覚えている。

店の名前は「ことぶきや」だった。ずっと思い出せずにいた名前が、ふと目の前の霧が晴れるように今朝頭に浮かんだ。

私はここのオムライスが好きだった。卵は薄く、バリッとチキンライスを包む。チキンライスはケチャップとご飯の按配が丁度良く、鶏肉も申し訳程度に入っている。もちろんグリーピースも欠かせない。

紙ナプキンに包まれたスプーンを居てもたってもいられなくなりちぎり、卵をスプーンで割って食べる幸せは味憶に秘められたものだ。

あのオムライスどこかにないでしょうか?

写真は駒沢公園西口にある洋食屋ROMAMさんのランチチキンライスです。

これが一番近そうです。今度絶対に食してみます。




通り雨 ニコライ堂

レンは浪人していたころに叔母の家に居候していた。叔母は父によく似た顔つきで、話し方も父そっくりだった。

父は長野県のK市の出身である。あんずの里として有名な街だ。父はその街の農家の次男坊である。父の家は曽祖父、祖父、祖母、長男、次男、長女、次女、三女の七人の大家族だった。

長男は勉強が嫌いで、夕方遅くまで近くの山野を走り回っていた。一方、父は本が好きで幼いころから勉強が良く出来て、高校でも学年で上位にいて地元の国立大学の医学部にストレートで合格した。

そこそこ勉強の出来た叔母もほどなくして上京し、短大に進んだ。叔父と出会ったのはその頃である。

叔父は大学同士の合コンで意気投合し付き合うようになっようだ。叔母は短大を卒業すると大手のゼネコンに就職した。連れ合いは工学部の4年生大学だったので叔母より2年遅れて社会人となり、同じ建築会社に入社した。

もちろん人事部には二人が付き合っていた事を少しも漏らさぬように細心の注意をして面接に臨んだ。

会社の情報は叔母を通して筒抜けで、叔母は今でもそのことを持ち出し、あの人を合格させたのは私なのと嬉しそうに自慢している。

叔父は出会いの経緯は別として物静かな人で、建築会社といっても設計部の仕事なので内勤だった。趣味は読書と釣り。


長野県と言うのは教育県らしい、父の高校の進学率も高く、出来る子の家はそれを自慢にしていた。田畑を売ってでも子供を大学に入れるというのは、あながち嘘でもなさそうである。

叔父は残念ながら7年前に脳梗塞で急に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。前日まで市ヶ谷の釣堀でのんびり鮒つりをしていたというから叔母の落胆が伺われる。

叔母には二人の子供がいる。小さいときには良く遊んだが、年を重ねるごとに疎遠になってしまった。レンと年の近い一人は高校を卒業して大阪の建築会社に勤めている。大阪では社員寮に居るようで、わずかながら叔母に仕送りをしているという。

もう一人の子供は高校の頃、ISSという留学制度で渡米し、その縁でアメリカ人女性と知り合い、大学卒業後は彼女の紹介もあり、外資系の食品会社に就職し、アメリカで暮らしている。彼女との間に女の子が一人いる。アメリカからの仕送りは何分制度的にも面倒らしく息子は帰るたびにお金を叔母に置いていくようだ。叔母は叔父が掛けていた生命保険と年金で今でも十分な生活をしている。

友達とも良く旅行に行くようだが、飛行機が苦手で、電車やバスの旅行がほとんどで、息子に子供が生まれるときに手伝いにきて欲しいと頼まれたときはほんとうに困り果てたようだ。最後には外国人の奥さんもらうから悪いのよと悪態をつきつつ、しぶしぶ飛行機に乗った。

そんな訳で叔母の家は空き部屋も多く、叔母の寂しさも和らぐだろうと、父が提案したのだ。

叔母は喜んでその提案を受け入れた。お金は要らないと叔母は言ったが、父はそれはそれ、これはこれ朝食も食べるし、風呂にも入るんだからと半ば強引に取り決め、朝食付き1月5万円の東京での下宿生活が始まった。

朝食は叔母と一緒に食べたが、昼と夜は外食がほとんどだった。

予備校は御茶ノ水のS台だった。阿佐ヶ谷と言っても南阿佐ヶ谷は中央線の阿佐ヶ谷駅には遠く、バスで中野駅に出て乗り継ぐのが日課だった。

御茶ノ水という街は面白い街だ。となりの神田とはまるで違う。勤め人が居るにはいるのだけど、目立たない。では学生が多いのかと言えば、そうでもない。いくつかの私立大学はキャンパスを郊外に移したこともその原因かもしれないが、多くの学生がまちまちの時間にやってきて去っていく、そんな時間の集約の無さも一端を担うのかもしれない。

レンは予備校生のとき、バツの悪い経験がある。すずらん通りという小さな商店が並んだ小路が、大通りに平行している。レンは高校を卒業したんだからパチンコは問題は無いだろうと気晴らしに入ったその店で興味半分でタバコをすっていた。そのとき警察官に職務質問をされたのだ。レンはなんでと怪訝な顔で学生証を見せるとその警官は卒業しているかもしれないけど君まだ未成年だよ。今回は大目にみるけど駄目だよと言われたのだ。そのとき以来レンはタバコを吸っていない。

予備校のときよく食べにいっていた洋食屋がある。いつも学生で賑わっていたキッチンKだ。

レンが好きだったのはハンバーグ定食、ハンバーグもさることながら、玉ねぎとベーコンがケチャップで味付けされたナポリタンスパゲティが付け合せについているのが好みだった。

レンは改札を抜けるとニコライ堂を右手に見ながら坂を下った。右手に笹巻けぬきすしの看板が見える。この店は江戸時代から続いているお店のようで。父が御茶ノ水に行くと必ずお土産に買ってきていたのでレンはその味を良く知っていた。しっかりと酢で味付けされていて、お土産用にはこの塩梅なのだろう。

少し早くついたのでひとりで2階の店に入り、窓際の席に座った。スパイスの香りが鼻孔をくすぐる。

少しお腹がすいてきた。

店の窓から坂を見下ろすと人々が足早に建物に入っていく。通り雨のようだ、人々は背広や荷物を頭を覆いながら足早に建物に入っていった。その様子は蟻の巣に水をかけて逃げ回る様子に似ている。

坂の上から白いビニールの袋を濡らさないように大切にお腹に抱えて走ってくるレイを見つけた。

袋には「檸檬 画翠」と描かれていた。

レンはレイに手を振って合図した。レイは雨が目にしみるのか、上目遣いに やや目を細めてレンを見上げた。



鎌倉探訪 ランチ

持ってきた大方の本を読んでしまったので、鎌倉駅近くの島森書店。
S.J.グールドの最後の著作「ぼくは上陸している」の上下巻と山本一力氏の食についてのエッセイ「味憶めぐり」を購入。後の本は題名買い。

セプとさくらに入れるものがなくなったので、夏バテ解消のため牛肉の赤身を鎌倉東急で購入。

安売りしていたので3パック購入残りは人間様用。

昼食時なのでお休みだった「あしなや」さんを覗くも本日も休業。もしや???閉店??

お隣の同じく「あ」のつく食堂です。前回食べたタンメンは普通に美味しかったので、今日はラーメン小(300円)とギョーザにビールです。

ラーメンは昔ながらの支那そばですが、いかんせん、麺が茹ですぎで太いです。スープとのバランスもいまひとつ、ギョーザは普通です。五個500円はちと高いです。

後のお客がタンメンをオーダーすると無いとの事。危ない危ない・・・・

鎌倉のお店と言うのは全てが美味しいと言うわけじゃないようです。この店は排骨麺、この店は天丼と言う風にさらに目的志向で行かないと連勝は出来ない仕掛けのようです。

さっきまで降っていた雨があがりものすごい蒸し暑さです。




読み続ける本 老人と海



この朔風社という小さな出版社は主に釣りにまつわる本の出版をしています。

今は文京区から国分寺に移ってしまいましたが、ちゃんと存在します。

私がこの本を購入したのは第二版の1993年ですから、やく20年前です。

訳者は秋山 嘉さんと谷 阿休さんです。

ということは逗子に置いてあったので、20回は読み続けています。

布の紫の装丁は日焼けして白くなってしまい、ページは黄ばんでいます。

そんな本ですが、毎年何かしらの発見があります。

老人と海の最後のシーンを思い出してください。

==本文よりの引用です==

「あれは何なの?」その婦人は魚の巨大な背骨を指差しながら、給仕の男に尋ねた。今、その骨はくず゜となって潮に乗り沖へ出ようとしていた。

「ディプロン」給仕の男は答えた。「鮫ですよ」彼は事の次第を話そうとしていた。

「鮫があんなに綺麗な恰好のいい尻尾を持っていたなんてしらなかったわ」

「ああ ほんとうだな」彼女の男友達が相槌を打った。
 
道をずっと上がったところにある小屋の中では、老人がまた眠り込んでいた。臥せのままの姿勢で眠っていた。その傍らに少年が坐って老人を見守っている。老人はライオンの夢を見ていた。



ここで疑問に思うのは、給仕は何故「ディプロン」といったのでしょう。ヘミングウェイは「海流に乗って」の中で、青鮫のことを他の鮫と区別している。さらにこの青鮫のことを頭がよく、度胸もよく、不思議な魚で、その内側に鋭く反った歯以外は、皮膚や目はメカジキに似ているともいっている。
そしてそのキューバ名は「デンツーソ」である。

さらに大きな体躯のガラーノという鮫はおそらくイタチザメの事と思われるがこれも違う。

つまり作者はここに最後に来て読み手に深く考え込ませているのだ。

そしてそのことはこの物語の結末が、鮫かカジキかということはどうでもよく、ただ死闘を繰り広げ己のすべてを出し切った老人から少年への経験という唯一の魔法を通して海という偉大な自然との関わり教えてくれているのかもしれない。

やはり名作は何度読んでも良いものです。

南風 夏

日に焼けたしなやかな腕をたわませて、その女性はディンキーのロープをつかみ、艇を風の吹く方向にまっすぐに走らせた。

この地方の漁師は西風を嫌う、春の間吹き荒れていた風が南風(はえ)に変り季節は夏を告げていた。

レイがレンとはじめたあったのは3年前の夏の日だった。

レイの病気はとても珍しい自己免疫疾患で、簡単に言えば自分が自分の体を攻撃し痛めつけるやっかいな病気だった。その治療前の数週間をここ葉山で過ごしていた。

医療技術の進歩で、当時開発されたばかりの新薬の治験が功を奏して、レイの体は徐々にもとの体に戻っていった。

そんなレイはその後美術大学に進学し、水彩画を専攻している。ディンキーをはじめたのは今まで病気におびえて何も運動らしい運動をしてこなかった自分に勇気を与えるためだった。

艇は白い灯台を迂回し、岩の上の鳥居を右手に見ながら正面から風を受けて疾走している。

レイのしなやかな長い髪の毛は少しだけ日に焼け金髪になっている。

もともと端正な顔立とすらりと伸びた手足で、周りから「ハーフ」と聞かれることも多かったが、レイはそういわれることがあまり好きではなかった。

レイの通う学校は高円寺にあり、下宿もその近くに借りた。週末の2日間だけここにやってくる。

ここ森戸海岸は多くの大学のヨット部が集まる。レイの艇もそんな学校艇庫にあるものだった。

レイは海から見る陸の景色が好きだ。小さなころ家族でハワイ旅行をしたときに、父親に連れて行ったもらった遊覧船でワイキキの街を見ているとき、あれほど旅行中、嫌だった、ワイキキの街独特の喧騒と猥雑さが海に消されて、美しい景色に変わったのが子供こごろに魔法をかけられたような気がしたからだ。

濃い緑の岸壁の上に雲が流れていった。無数の鳶が行く夏を惜しむかのように自由に舞っていた。

レイの携帯が着信を知らせた。いまは防水携帯という便利なものがあり、あまけにGPSまで着いているので、ギィンキー乗りには必携だった。

声はレンからだった。「今日はいけない。コメン、実験が長引いちゃって土日も学校なんだ。レイ、週明けの水曜日あたり会わない」

「いいよ、私も授業があるから、抜け出せるのは二限と三限の間だけ、場所は御茶ノ水あたりでどう?」

「OK・・・大学の生協では取り寄せられない本があって、三省堂に行くつもりだったからちょうどいいよ」

レンの父親は心臓外科医でその当時は葉山にある病院に勤務していて、一家は森戸海岸近くの一軒家を借りていた。今は三島の病院に転勤し、一家はレンを残し富士山の良く見える三島の小高い丘に居をかまえた。レンはひとり残り、一浪して父親と同じ道を選んだ。レンはもともと医学には何の興味も無かったが、レイの病気のことで気が変わった。

だからレンはレイよりひとつしたの大学三年生、大学の近くの木造下宿は菊坂にあった。多くの文豪が住んだ街としてよく雑誌に紹介されるが、実際の街はぼやけた感じで、今はその面影は感じられない。

「それじゃ、いつものあそこで」

「わかった、あそこね」

「時間は1時でどう」

「いいよ、1時ならお客さんもすいてくるしね」

その店はニコライ堂の近く、坂の途中にあるインド料理店だった。インド人の作る料理は総じてどれも日本人向きにアレンジしていない。そんなところがレンもレイも好きだった。

ディンキーは後ろから風を受けながら、海岸向かってすうっと走りだした。

一匹のカモメがその後を追うように波すれすれのところをふわりと飛んでいる。



お酒の話 

お酒にまつわるお話は数々あります。

ヘミングウェイがキューバの「アフロディータ」で飲んでいたダイキリは砂糖をほとんど入れないシャープなものだったとか、チャーチルが好んだマティーニは執事にベルモットを持たせていただけのスーパードライだったとか数知れません。

ロンググッドバイを読んだ人なら、ギムレットも外せません。

さらにイーグルスの世代の人には「テキーラサンライズ」はグループの代名詞のようなものです。

ところでBARとは何故BARなのか知っていますか?

そうです、カウンターに止まり木があるからです。

では何故止まり木がついたのか知っていますか?

諸説はあれど、馬にまたがって酒場にやって来たころ酒場には馬をつなぐBARがあったようです。

もちろん表にです。

それがいつからか馬が車に変り、外のBARを馬ならぬ人の止まり木にして捕まえたというのはなんとも乙な話ではありませんか。

酒にまつわる話は乙のものが多いのも楽しいものです。

モスコミュールというカクテルがあります。直訳するとモスコーのロバ??これじゃなんだか分かりませんよね。ロバとはスラングで密造所の意味。これも禁酒法の名残です。

コカコーラこれ本当にあったカクテルです。もともとはコカインを蒸留した飲み物でしばらくすると薬になり、販売も禁止され、名前だけコカコーラが残ったそうな・・・お酒にまつわる話は興味深いものです。

今飲んでいるのは、エバンウィリアムスのソーダ割です。理由はありません・・・・

でもコースターはシンガポールのタングリングクラブのあのギネスを飲んだときのものです。

あと家にあるのはパリの「ハリーズ」とハレクラニの「ラメール」のコースターです。

2011年8月24日水曜日

潔癖主義 佐野洋子

昨日の大物芸能人の引退会見どう思いました。

暴力団との関わり自体はもちろん良いことではありませんが、引退するようなことでしょうか。

それも数年前のことです。

前原氏の立候補どう思いました?

あれじゃ後だしジャンケンです。勝てない試合は戦わないということなのでしょうが釈然としません。

こうした風潮は今回に限ったことでは無いような気がします。

美白がよいといわわれば人の迷惑も顧みず冬でも日傘をする人や、コラーゲンが美容に良いと言われれば何一つ考えもせずそれに飛びつく浅ましさ。すべてそれらをコントロールしているのは「情報」です。

以前から申し上げているようにマスコミもそれを助長します。

このような日本国民に蔓延る潔癖主義は言い換えれば、将来像を持たないこの国の鏡でもあります。

1億総中流は過去のこと、いまや一億総下流への道を歩み続けています。

人々は希望と引き換えに潔癖主義に走るのだとすれば、ナチスドイツの全体主義への道そのものです。

もっとも日本人のように「まあいいや」という国民性は革命には向かず、全体主義のほうが慣れ親しんでいるようで末恐ろしくなります。

100万回死んだ猫で有名な佐野洋子さんがこんなことを言っていました。

「人間には善意だけでなく、悪意もあるのよ。この悪意をきちんと自分の中に見つけないと大変なことになってしまうの。善意だけなんて嘘っぱちをいっていると、悪意さえ分からなくなってしまうのだから悪いこともきちんと伝えるの、世の中には存在するんだから」

その通りです。

2011年8月23日火曜日

チャレンジ失敗 鎌倉中華

昨昨日の晩より胃の調子が悪く、ほとんど何も食べていません。

急に寒くなったり、暑くなったり寝汗をびっしょりかいたり、自律神経の調子が悪く、胃の働きも悪いようです。

朝食もおかゆで胃を整えました。

妻はどうも渋谷西武にあった銀座ア**のかたやきそばが忘れられずにいるようです。

私は他の店で食べて全然別物でがっかりしたので気乗りしません。

でもチャレンジ候補の「あしなや」さんが定休日なので妻に従います。

西口の銀座ア**です。

味は???

同じ店でも渋谷とは似て非なるものです。やきそばは具材のバランスです。肉類はチャーシューと豚肉ですが、チャーシューはコスト意識しすぎです。海鮮は海老のみ。白菜の多さが気になります。何より、揚げ麺の温度が高く、かえって油強さがします。

チャレンジ失敗の昼食でした。

昨日はほとんど寝ていないので、今日は早く寝床に着きます。


二楽荘の排骨麺にすればよかった!!!これで1300円は高いです!!

午後の曳航

レンはいつものようにハーバーの突端の堤防に寝転びながら午後の穏やかな湘南の海を眺めていた。

何羽ものカモメがレンの頭の上を通り過ぎてすうっと東の方向に舞っていく。

きらきらした波間の遠くに大きなヨットの曳航みられた。

レイという女の子にはじめてあったのは2週間前の今日のような日だった。

レンが海を見ていると、その少女は近づいてきて、レンに向かって「何みてるん?」と明らかに東京の人のそれとは違うアクセントでjまっすぐにこちらを見ながらたずねてきた。

いつもなら無視するレンであったが、微かなその少女のスミレのような香りと、他の若者が持っている暴力的で原色のような荒々しさとはとは違う何か感じた。

そして同時にその雰囲気は真っ白なレースのカーテンのようにふわりとして、軽やかで儚げでもあった。

湘南は温暖な気候のため療養所が多くある。転地療養というやつだ。

一部の病気にはこの海風がよくないこともあるらしいのだが、概ね体には良い様だ。

レンは「海」と答えると少女の顔を覗き込んだ。

少女はレンが今見ていた視点の先を見ていた。

「私、病気を治しにきてるん。でも、また東京の病院に戻るん」と短く笑いながら独り言のように言葉を空気にのせるように話した。

レンは堤防からすたっと降りると、ペタペタとサンダルの音をさせながら小走りにハーバーのところのアイスキャンデー屋に駆け寄った。

アイスキャンデーは昔のようにカチカチのブルーや緑の毒々しい色のものとは異なり、今流行のナチュラルな白いバニラ味のそれだった。

レンはレイにアイスキャンデーを渡すと、「明日も俺ここにいるからよかったら来ないか」とレイに言った。

レイはアイスのお礼をいうでもなく僅かに頷いた。

それから毎日、レイはレンの横に来て海を見ていた。

レイは街場の文房具店のどこでも売っているようなスケッチブックをもってきた。

レイは毎日海を描いていた。レイはこの場でスケッチだけ済ませて、あとは部屋で色を重ねている。あくまでレイの頭の中にある色をつけるのだ。

海というのは季節によって、その日によって、そして時間単位でもその姿を変える。人間の心と似ている。見ているものの心次第で、北風にもなり、マントにもなる。

レンはそんな海が大好きだった。

レイが最後にレンに会ったのは昨日のことだ。レイは書き溜めていたそのスケッチブックをレンに「これアイスキャンデーのオレイ」といって突き出すように渡した。

10枚以上描いたその海の絵はあきらかに変化していた。

レンはレイにもらったそのスケッチブックの紐を結びなおすと、飛び降りるように堤防を抜け自転車を駅に向かってこぎ始めた。

そのスケッチブックには少女の入院する御茶ノ水の大学病院の部屋番号と名前が描かれていた。

カシワギ レイ・・・・・17才・・・

遠くでヒグラシの鳴く、夏の終わりの午後だった・・・






2011年8月22日月曜日

山岡洋一氏 逝去





これらの本全部読みました。

何が共通項か、それは山岡洋一さんという金融・経済の翻訳家が訳したものなのです。

この山岡氏が脳梗塞により逝去されたとニュースにありましたが、なんと市ヶ尾に住まれていたとは知りませんでした。それも長男は息子の小学校の先輩のようです。

文学の翻訳が翻訳家により異なるように、この山岡氏のように金融経済の分野も翻訳の旨い人だとすっと入っていきます。

そういえばA・グーリーンスパンの本の中に「根拠なき熱狂」と訳していたのは彼だったのですね。

SパパのKBSでの講演の際にも話されていたあの言葉です。

ご冥福をお祈りいたします。

竹と昆布

鎌倉に住んでいる知り合いから聞いた話なので真偽のほどはわからないが、その知り合いは猫の額ほど庭に竹を植えていて、筍を取ったくらいでは竹の成長を抑えることができず、なんとかならないものかと思案に暮れていたところ、寺の住職が昆布を植えると成長が止まるというので、乾物屋で立派な利尻昆布を買い求め試しに植えたそうな。

するとその植えたところの竹は他の竹と異なり、中々成長せず細い竹になってしまったということだ。

実際に見たことはないのでどのくらい細くなったのか、何故そうなったのかわからないが、知り合いは嘘を言うような輩でもない。

世の中には面白い取り合わせというのがある。竹と昆布もそのひとつ。かもしれない。





バタフライ効果 待てば海路の日和あり


少し前の映画に「バタフライ・エフェクト」という映画があった。

もちろんこの映画はバタフライ効果をサスペンスに仕上げたものだ。

バタフライ効果とはいうなれば「風が吹けば桶屋が儲かる」の事だ。

世の中絶えず、動いている。若い頃には絶対的だと思っていた事も、儚げで脆いものだとこの歳になって理解した。

しかし、考えようによってはこのバタフライ効果を見過ごしてしまうこともままある。

例えばとある銀行がさらに有利な貸出条件を提示してきたとしよう。これを全面的に受け入れて再構築するのも一つの手段だ。

私の場合は、他の金融機関に「こんな話が来ているのよ」「お宅とは取引を続けたいのよ」そう持っていく。

「風が吹けば桶屋が儲かる」待てば海路の日和あり。今日はそんな一日です・・・

大概の場合は、そこで相手のプライオリティやシンパシーを感じ取る踏み絵にもなるのだから・・・・


ある若者の会話

ある若者が友達と思しき人物と会話していました。

聞く気はなかったのですが、声が大きく相当ヒートアップしているようで、嫌が応にも聞こえてきます。

A男「俺、会社辞めちゃった、だって営業の仕事おれに向いてないもん」

A男「それにアルバイトと自給そんなに変わらないし、どっちみち家の仕事手伝うことになっているんだから何だって良いんだよ」

B男「お前、何年勤めたの?」

A男「一年と半年」

B男「それじゃ、何にも分からないんじゃないの?」

A男「いたって分からないよ」

B男「おまえんち何やってるの?」

A男「開業歯科医」

B男「お前、医者じゃねえのに継げないじゃん」

A男「いや事務とかそういうのあるでしょ」

B男「開業歯科医で事務ねえ・・・」

A男「楽して生きて生きたいじゃん」

B男「今だけね」


こうして下流社会に一人の若者が加わったのであります・・・・・・・

モルゲンシュテイン

これも中島京子さんの小説に出てきて40年ぶりに思い出した言葉です。

確かジャンプの選手にこんな人がいた記憶があります。

小学校の時、スキーに通っていた道すがら、あの選手のヘルメットのような山を見つけて勝手に「モルグ山」と命名していました。

場所は中の条から草津に向かう途中です。

吾妻渓谷の左手にそれらしき山がみえてきたら、その「モルグ山」に他なりません。

モルゲンシュタイ山です。でもどうやって登るのでしょう。今でも不思議な山です・・・・・・

大人の水中運動会 逗子マリーナプール

以前はテレビでも子供は見てはいけないような、お色気番組がありました。

大磯プリンスのプールで行われる芸能人の水中運動会なんかその典型でしたが、今や健全化のためどの局でも放映することはありません。

ところが昨日も逗子マリーナのプールでその水中運動会が行われていたのです。

MCはマイケ*富*氏でした。

どうりで日曜なのにお休みになっていたはずです。

もちろん昔のような乱痴気騒ぎを陰をひそめ、健全化した、子供も参加する内容だったのですが、夕方までマイクの声は響いていました。

今は一般から参加者を募って行うようです。参加費も必要なようです。

私が学生でテレビ製作会社のアルバイトをしていた頃には、参加者は女優や歌手の卵(卵というより孵化して育ちすぎた雌鶏)ばかりでした。30年前の話です。わたしなんざぁ、ちょいとひねられておハイ終わりといった感じでした。

送迎のバスの中で人目を気にせず化粧直しをし、あの新宿二丁目のような独特な香水の匂いが鼻をつき、とても弁当が食べられなかった事を思い出します。

健全化について、しばし考えた日曜日でした・・・・

中島京子 ゴセイト

中島京子さんの短編「東京観光」に「ゴセイト」というものがある。

実は私も小学校の頃、同じような体験をしていた。

私の住む北関東のK市はかつては日本の上海とまで言われ、織物業の盛んな街であったが、当時すでに外国製の安い製品にその座を奪われ、まるでチューブを外された延命患者のように徐々に衰退していた。

彼の名は確か永田君といっていたと思う。彼のその後の消息は知らない。

風の噂では調理人になったとも、交通事故で死んだとも、またやくざの抗争で服役しているとも聞いた。

彼は正確に言えば中島京子さんの「ゴセイト」とは違う。

午前中には学校に来るのだから少なくとも「ゴセイト」ではない。

ただ、かならず授業を抜け出す。

先生も慣れたもので、ある一握りの生徒を追跡させるのだ。

選ばれた生徒はまあ普通に勉強が出来て、運動もそこそここなせる輩が選ばれる。

家が税理士をしていて、N社の株がカップヌードルの誕生で大儲けして、自宅を新築したH君(一橋に進学後、今は大手の証券会社Mインベ****の役員)や私、足の速いY君などが選ばれた。

彼の行き先は決まっていた、理科実験室の前の水槽のところか、音楽室の裏庭だった。

彼を捕捉しても、すぐには授業に戻らない。特別に与えられた自由な時間こそ我々の特権だった。

数時間を費やし、やっと見つけた風に授業に戻る時にはそろそろ給食の準備が整っていた。

今でも、あれは幻だったのではないかと疑うことがある。そもそも永田君はいたのだろうか?

2011年8月21日日曜日

居酒屋 兆治

高倉健さんが出ていた居酒屋兆治とい日本映画がありました。

あの小説は山口瞳さんが好きだった国立の谷保にある「文蔵」という小さなご夫婦で経営していた実在のお店だったのです。

国立には縁あって行ったことがありますが、それは素敵なお店でした。

居酒屋とはああいうお店のことを指すのだとよくよく分かりました。

この文蔵さんも数年前に閉店し、店主の意思をついで婆娑羅として生まれ変わりまた。

あれ以来行ってはいませんが、名物のもつ煮込みは健在なので゜しょうか・・・

ところで先日購入した山口瞳さんの「行きつけのお店」は面白く、一晩で読破してしまいました。

木犀堂の店主が本を買うつど、ポコッと出てくる一言が楽しみです。

今回は「力の抜けた良い本だよ」の言葉通りでした。

2011年8月20日土曜日

古本 木翠堂

先日目に留まった本を確認しに「木犀堂」さんです。

ありました今はなき藤本義一氏のお酒の本です。

すると山口瞳氏の絶版本が目に留まりました。

国立の谷保の焼き鳥屋さんも載っています。ここ知っています。

迷わず購入。

鎌倉の楽しみ方が広がりました。

夏もすとんと終えたように、蝉の声が今日はしません。

すこしつづ買い揃えた本をウイスキーを飲みながらゆっくりと頁を薦めるこんな日もよいのではありませんか・・・・


玉子焼き おざわ

鎌倉ベースのお隣さんが白馬で買ってきたお土産の椎茸茶を持ってきてくれました。

これがスープのようでとても美味しいのです。

黒胡椒が利いていてとても旨いのです。ありがとうございます。横浜よりずっとご近所づきあいが楽しい鎌倉です。

私はどこかに置き忘れた財布でとんでもない目にあいながら、母が鎌倉駅まで持ってきてくれました。

お昼は天麩羅「ひろみ」です。

次に向かうは玉子焼き「おざわ」です。

お隣さんと家にひとつづつ、しかしこれが旨いのです。

甘いだけの玉子焼きでなく、出来立てのものしか扱いません。

旨いのです・・・・

鎌倉で玉子焼き「おざわ」実は超お勧めのお店です。

でも階段は超急勾配なので手すりは必須です。

みつけてみてください。