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2011年1月8日土曜日

司馬遼太郎とロランバルト

テレビで放送されていた「坂の上の雲」について、その評価については賛否両論があろおかと思います。

確かに普通に見ていたらお手盛りヒーロー物語にすぎません。

しかしです。海外に司馬遼太郎の本とと村上春樹の本のどちらを持っていきたいかと聞かれれば、迷わず前者です。特に滞在期間が長く、日本語に懐かしさを覚えるような期間の場合は決まりです。(私の個人的見解と数人の友人に聞いた独断的な話です)

何故は我々は司馬遼太郎に郷愁のようなものを感じるのでしょうか?

一方、村上春樹氏の著作は世界中で翻訳されているように、ある種の普遍性を持っているのです。そうユニバーサルなのです。

では司馬遼太郎の書く「日本人性」は平安以降、時代と共に培われてきた歴史から出発しているのでしょうか?私は違うと思います。そういった元来の日本人性も多少は残っているでしょうが、現在の私達のアイデンティティは明かに明治以降のものです。

明治とはどういう時代だったのかそれを考えることは、実は不確かな昭和という時代を鏡像に映し出すことができるからです。

そう考えてテレビを見てみると日露戦争の英雄たちは東郷平八郎にしても、乃木希典にしても明治維新の西南戦争などを生き延びた平民です。これにひきかえ主人公の秋山好古や真之は専門的知識の習得を留学までして獲得していたエリート中のエリートです。そうエリートが作戦を立て、英雄が実行するまさに現代的官僚機構の萌芽なのです。

太平洋戦争における国民の意識の高揚と忍耐については、寒村の青年が飲まず食わずに戦っているのだから、贅沢は敵だという、ルサンチマン、不倶戴天に似た感情を煽り、突き進んでいったのです。この戦略はまさに無敵なのです。

一方、明治の時代に出来あがったものに東京の「」があります。ロランバルトが「記号の国」の中で述べているように昭和になった今でもその「空」は歴然と存在しているのです。その「空」は知らず知らずのうちに我々の内なる精神に影響を与え、日本人的なる起源を想定させるようになったのです。

戦勝国のアメリカもこの問題には相当悩んだようです。日本人のこの精神性を一切排除することが良いのかどうか、そして取られた結果は残すことでした。

そうして歪んで出来あがった我々の精神性は、「空」という明治という(メタファー)を残しながら、平和憲法、自由と権利といったアメリカ的なるものを重ねながら作り上げていったのです。

日米安保の偏在性、矛盾それにともなう学生運動や左翼思想が澱をなすように積み重なり、我々の中にその多重構造の持つ、得も言われぬ矛盾と気持ち悪さを残していったのでは考えるのです。



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こんなことを傍ら考えながら、土曜日の早朝のオフィスです。昨日の税理士さんとの決算の最終的方向性の確認に従って、意志決定した項目について再確認をしなければなりません。小さな会社というのは中々人任せには出来ないので仕方ありません。

朝食のニューイングランド風クラムチャウダーとパンをいただき、食後のコーヒーも自分で入れます。そんな土曜日の朝です。曲は「Suturday」です。海には行けません。二子玉川です。