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2011年1月12日水曜日

Mother esta サラダランチ

ランチで時々利用する中目黒のマザーエスタです。

なんといってもPFSが手掛ける内装が秀逸です。サンフランシスコやシアトルの海沿いのレストランのようです。壁の写真も雰囲気です。





特に今回ご紹介するのはこのサラダランチです。自家製のフォカッチャがついてきますが、サラダの野菜はオーガニックでどれも新鮮です。そしてこのソース(ドレッシング)が大変に美味しいのです。

鎌倉野菜を雪の下で仕入れて作ってみましょう。私の舌の記憶ではアンチョビ、ガーリック、生クリーム、卵黄、ビネガー、オリーブオイル、バーター、砂糖塩胡椒etc・・・・・

SNS孝 学校なるもの

自分が分からないからこれもダメと否定するつもりはないのです。ただ、思ったことを書いて見まする。

ソーシャルネットワークサービス=SNSとは一種の価値共同体といった感じだと思います。学生の頃、クラスや学校の中で名前や住所は誰もが共有する情報でした。それと同様に感じられます。

学校というのは時間の流れの中でスタートとピリオドがあります。たとえ記録が残っても過去の残骸と化すだけです。一方、SNSはどうでしょう。ピリオドがないけれど自由に脱退、退会することは可能だと書いてあります。しかし、情報はそうでしょうか。様々な人種が参加している以上、情報の残滓が脈々と繋がり個人の情報漏洩、犯罪へと繋がらないのでしょうか??

さらに価値の共有といっても変位する価値観は相手と同一体ではありません。ある部分のみが共有されるのであって同一ではありません。時間と共にこの価値さえ形を変えるのです。それをSNSという並列的社会にあてはめることはかなりの危険を孕んでいるような気がしてなりません。

私にはこのSNSの広まりはもういちど「学校なるもの」を追体験したいと言う原初的欲求つまりは若年層の幼稚化と映っているのです。学校や社会が制度として機能していない以上、人間の脳の可塑化と同じように、知らない部分からこれらを補ってサポートする構造が誕生することもあります。

バカなことを言うなというご批判御尤もです。何せ分からないのですから、しかし、どうもこの気持ち悪さが消えないのです・・・・

アレクシス・カレル Alexis Carrel

ノーベル賞を受賞した人をすべて賞賛するつもりなどありませんが、彼は血管縫合の新しい方法を開発し、移植および胸部外科のパイオニアになった人です。

のちにカレル=デーキン法という消毒法を開発し、抗生物質の開発により多くの命を救ったことによりレジォンドヌール勲章を授与されたのですが、晩年はナチ崇拝者のレッテルをはられ71歳で逝去しました。



その彼の著書に「人間=この未知なるもの」というがあります。これは選択的な指導階層を確保することが、弱者を含む社会全体に貢献するといった内容のものです。当時のナチが政策としていた優生学とも強く結びついているものでした。彼は社会的弱者を過保護にはを容認せず、精神薄弱者・犯罪者を生み出す元凶として社会組織の巨大化と画一化を挙げ、徒な大衆化は却って指導者たるべき人物の発達を阻害すると主張したのです。まあナチ崇拝者と捉えられても仕方ありますまい。

しかし、その中に彼は人間の不思議さを合理的かつ科学的に実証できないものがあると記しているのです。奇跡は現存し、祈りもまた同一なのです。別の書物の中でも理由は分からないものの一つにルルドの泉をあげています。

つまり私が評価したい部分は自分にとって理解しがたいものがあっても否定するのではなく、自明の理とは何ぞやと言うところから始めなければならないということです。この点は医学を志す息子にも強く言っています。

大学時代に図書館で借りて一カ月掛けて読んだ本がパスカルの「パンセ」です。本を返しに行く途中、有栖川公園で池の鯉を見ながら「考える葦」の本質とはと青い考えを巡らしていたのが昨日のようです。あのときからあれだけ嫌いだった数学の違う一面が見えたのでした。哲学も数学も物理学も真理を追究するという意味ではそのアプローチと事象が違うだけで本質は同位なのかもと思ったのであります・・・・・

FACE BOOK

昨日、女性28歳のお客様(私にだってこんなうら若い女性のお客様もあるのですよ・・笑)とランチをしながら話題に出ていたのが、フェイスブックとツゥィッターでした。後者は友人のO氏もやっていると言っていたのでぼんやりは知っていましたが、前者がここまで広がっているとは知りませんでした。

ここからは息子の解説を踏まえてのお話です。

そもそも、フェイスブックはフェイスマッシュという仲間内の女子学生の顔写真コンテストからスタートし、ハーバードの学生交流のために開発が進み、次第にアイビーリーグ、高校生、一般と普及していった経緯があるようです。

実際にフェイスブックに登録することはとても簡単です。内容はツゥィッターとさほど変わりません。
しかし、SNSというものが私には分かりません。実際に昨日、友人と話していたのにさらにフェイスブックでその後のコメントなどが記されています。それをさらに共有するのです。一方、個人情報が悪用される事件は後を絶ちません。フェイスブックのように実名で公開することにリスクを感じないのでしょうか?

もしかすると、フェイスブックというのは現在の若者の持つアイデンティティの理解に役立つかもしれません。

個人の繋がりが弱くなっている分、いつもどこかで繋がっていたいという欲求が、さらに限られて仲間内=自分を共感してくれる価値観の等しい人たちとの安心感がこのシステムを広げているような気がします。閉鎖的社会性と題して誰かが論じていましたが、そういうことかもしれません。

フェイスブックを利用している人を批判するつもりはありませんが、私にはどうも穿った考えが浮かびます。元々、ハーバードの学生に対する、自分たちもハーバードの仲間入りをしたいというコンプレックスを利用して拡大していったビジネスです。つまり、選民意識そのものなのです。アウトローを自負する私にはどうもこのようなSNSは苦手なようです。