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2011年8月27日土曜日

Good Wave セプとさくらの海水浴

台風の影響で波が大きくなってきました。

セプとさくらをサーファーの邪魔にならないところで泳がせます。

さくらは私たちが海に入ると喜んで泳ぐので。ボード持参です。

今日はここでも良い波がたっています。うまく捕まえれば結構遊べます。

ただ犬の足がリューシュに絡まるのでリューシュは外しています。

ただここは波の谷間なのでなかなか割れませんのでサーファーはほとんどいませんから安全です。

さくらはちゃんと1時間泳ぎました。最後にはピィピィ言ってそれでも私のボードの周りから離れません。

よく洗って2匹を乾かして、ご飯を食べたらもうぐったりです。

楽しめるうちには何回でも遊んであげましょう。そのために・・・・ですからね??





3連敗 鶴岡八幡 二楽荘 ホノルアストア 三留商店 もんざ丸



鶴岡八幡にお参りに行きました。曇り空で涼しくて自転車で15分です。

階段を駆け足で上ってお参りを済ませて、混んでいる小町通りを縫うように二楽荘で排骨麺です。

銀座ア**とあさ**の2連敗だったので間違いない二楽荘の排骨麺です。



ところがどうしたのでしょう、麺はゆですぎ、それをごまかすためにスープは多めでたぷたぷです。

おまけに排骨は細切れで、冷えています。だから油っぽくてスープが濁っています。

今年4食目ではじめてこんなにひどいものに当たりました。

二楽荘さん、名前が泣きますよ・・・引っ込み思案の妻が会計のときに「麺がゆですぎでしたよと言ったそうとか」

次回同じだったらもう行きません。

帰りがけにホノルアストアで依然見つけた看板と息子のサイズのTシャツを購入しました。

鎌倉ベースにつけてみました。こんな感じ。



TシャツはアメリカサイズのXLです。日本では3Lか4Lです。

妻は寿司酢を三留商店に買いに行きました。

帰りがけにもんざ丸に生シラス有りと妻が見つけたというので、もどって生シラスを購入です。

今日の夕餉は生シラス三昧です。

夕方より耳がひどいさくらを入れようか悩んでいましたが、やはり夏も終わります。くらげもまだ出ていません。入れることにしました。

銀杏と牡蠣フライ

季節は街路樹のモミジバフウの葉を落とし、初冬に差し掛かっていた。

菊坂の下宿の隣の自動車修理工場の親方はこのモミジバフウが大嫌いでいつもこんなことを口癖にしていた。

「この木は葉っぱ大きすぎるのがイケネエ、排水溝は塞ぐし、屋根の樋も詰まっちまう。なんでこんな木を植えるのかお上の考えがわからねえ」

レンは大学での生活は5年目、免疫の研究室にいた。結果はどうあろうと免疫の研究をしようと、それがマイナーでも、陽のあたらない分野になってもいいと思った。あの日の父親の言葉がレンを後押ししたのだ。

医者なのに来る日も来る日もねずみの尻尾に注射をしている。レンはそのことを後悔していなかった。いや後悔しないと決めたのだ。

レンはこの日、実験動物の慰霊祭に初めて参加した。慰霊祭は医学の発展のために死んでいった全ての動物と人間(こちらを先に書かねばならない)のために慰霊碑が作られている。

上野公園からほど近いこの場所にこんな慰霊碑があることはレンは知らなかった。

慰霊祭の当日は学生でも一応きちんとした恰好で望む必要があった。

レンはスラックスにボタンダウンのシャツにネクタイだ。ベルトがコットンのカジュアルなのは少し気後れしたが、ネクタイをしているのでまあ許されるだろうと参列した。

レンの学校のキャンパスはこの頃には銀杏が多くなる。それが落ちてあの独特の匂いを放つ。れんは苦手だった。

レンは忙しい合間を縫って週に一日だけ家庭教師のアルバイトをしている。友達の紹介だったが、レンが研究や授業が忙しく出来なくなるかもしれないとその両親にいっても、なんとか出来る時間でいいからお願いしたいというお互いの決め事やっている。

教えているのは高校1年生の女の子だ。

今日はそのバイトの日。

レンは西片にあるその家に向かう。このあたりは高級住宅街で、江戸時代、権力を手中にしていた柳沢吉保が作ったといわれる庭園がすぐ近くにあった。

教える教科は数学だ。女の子は数学が苦手で、特にインスピレーションで解かなければいけないような因数分解が苦手という。

レンは心の中でそれは違うと思っていた。何故なら、因数分解も数多くコナシテイルとこんなときにはこういった解が必要だと必然的に見えてくるからだ。勉強にインスピレーションという言葉を使う少女にレンは心の中ではこのままでは「無理だろうと」と思った。

家庭教師が終わると、夕食の時間だ。レンはこの家の夕食に惹かれた。夕食があるから家庭教師をやっているというほうが真実に近い。

この家の奥様が作る料理は垂涎ものだ。今日のような肌寒い季節には熱々のカキフライにポテトサラダ、そこになめこの赤だしとくれば、アルバイト料より魅力的にみえてしまう。

カキフライはほどよい大きさの牡蠣を生のパン粉がつつみ、檸檬をしぼるとジュッと音のするようなもので、シャキシャキのキャベツの千切りの甘さは格別だった。

ポテトサラダは市販のように妙にマヨネーズを抑えたパサパサでもなく、かといってゆですぎたジャガイモがべしゃべしゃした駄作のような代物と違い、じゃがいも、にんじん、きゅうり、玉ねぎが見事にそれぞれの味を主張しているのである。

ここの奥様はなんでも下町の洋食屋の娘さんで小さな頃より実家の手伝いをしていたというから納得である。

レンは夕食を食べ終わり、デザートに出されたチーズケーキとコーヒーも平らげ、一礼しその家を後にした。

レンの携帯に着信が光る。レイからだった。

「明日、夕方のエアーフランスなの(エールフランとは今はいわない)、会える?」

「成田にはいけないけど上野なら会える。少し抜けていくから上野で会わないか」

「上野じゃなく日暮里にして、スカイライナーに載るから日暮里にして、日暮里の駅前の喫茶店に12時」

「OK・・・パスポートなくすなよ、レイ」

「うん」

電話をきったレンはしばらくその液晶の画面を見ていた。



マルクスとダーウィン

マルクス本がこのところ売れているようだ。

そんなときはマルクスがダーウィンについて関心を寄せていることを知った。もちろん専門的にとりあげたわけではない。

マルクスにしてみれば「まあいいんじゃない」という具合である。

しかし、一方エンゲルスははるかにダーウィンのことをきちんと扱っている。彼の「自然の弁証法」がその表れである。

つまりマルクスは自然科学においてエンゲルスよりも興味が薄く、「まあいいや」程度の理解だったのだ。

ならば何故マルクスは世の歴史においてダーウィンの理解者となりえたのか。

その問いの答えはマルクスの妻にある。

妻は乳がんで苦しんでいたのだ。

マルクスはランケスター医師(マルクスの信奉者でもない)にどうしたらよいのか助言を求めた。

そして治療についての有用な知識と紹介を得たのだ。

マルクスとて人間、CPスノウがいう「文系と理系の乖離」はこうして融和を果たすわけです。

つまりは経験こそ相互認識の始まりなのです。

共産党宣言の後ろにはこうしたマルクスの苦悩と現実があったのです。

民主党のみなさん、分かるかなこのたとえ・・・・経験こそ相互認識のはじまりなのです・・・・

味憶というもの

人間に与えられた情報で嗅覚味覚ほど原始的なものはない。(と私は思う)

山本一力氏の使う「味憶」とは本当によい言葉だ。

海の無い山国に育った私は高校を出るまで美味しい魚を食べたことがない。

当時の輸送事情を考えれば無理の無いことであろうが、母もそして祖母も概して魚を食べることも扱うことも下手くそである。

母や祖母の名誉のために断っておくが、他の料理は得意なのだ。料理をしないというわけではなかった。祖母は上京して一人暮らしをしている私が祖母のところを訪ねると(祖母は叔父夫婦たちと同居していた)嫁には内緒だとオムレツを作ってくれた。バターで炒めた玉ねぎの入ったシンプルなオムレツ、これがとても旨いのだ。私の卵好きはまさに遺伝かもしれない。

この頃の祖母は料理を作ることを自制していたかもしれない。高齢者の調理事故も多かったし、留守のときに火を使うことは確かに危険だ。むべからん事かもしれない。

一方、妻の祖母は死ぬ間際まで料理をしていた。妻の母代わり(妻は幼い頃母を失っている)の祖母は驚く人だった。人をひきつけるなんともいえない不思議な力を持った人で、理屈で彼女を言いくるめるなんてことは世の聖人とて無理至難と言わざるえない。

祖母の作る料理はいつでも10人前だった。しかしこれがまことに旨い。からす鰈という大きな卵をもった魚の煮付けは絶品だった。適当に入れる彼女の調理は辛くも甘くもなく丁度良い加減で、どんな高級料亭のそれよりも美味しかった。

祖母は人を分け隔てなく接していた。それが人に伝わり、人が人を呼ぶ。妻の祖母の墓は恵比寿にあるが墓参は絶えない。

祖母は妻が母を失ったことを生涯十字架のように背負って、懸命にしかし背筋をピンとして生きていたのかもしれない。そんな祖母に乾杯である。

味憶で言えば私には車の師匠がいた。Hさんである。Hさんは足が悪く、ホンダのスーパーカブをその足の代わりのように見事に乗りこなし、毎朝私のところにやってきてくれた。おそらく死んだ父と同年齢ぐらいだったのではないか(父は明治生まれ)


日本に車が走る前から塗装の勉強をして親方から免許皆伝をもらったような人であった。日本人でプロの塗装工として認められた先駆者であった。こんな師匠から車のあれこれを教えてもらった。

私がプジョーを買おうとすると、「いやいやあれはいけねえ、あの鉄板はぺらぺらで、エンジンは安普請さ。もし外車買うならランチャにしな。あのエンジンはいい。もっとも金あるならベントレーにしな。あれゃいい、機関車のようにドッドッと長いストロークで力強いから最高さ」こんなことを平然と言っていた。

結果、初めて手にした外車はランチャだった。確かにすごく良い車だったが、一年の半年は修理工場に居たようなものだから、壊れるのは当たり前。直ればめっけもん、そんな車だった。今でもランチャのシートが最高だと思う(レンジローバーと金銀の争奪戦ということだろう)


誂えで作ったバーバリーのコートには同じく誂えた帽子もあった。当時の職人は宵越の銭は持たないといい、給金のほとんどは使っていたようだった。足袋のこはぜは金だっというからどのくらいお洒落だったのか分かるでしょ。

毎朝、事務所に来ると私と色々な話をした。同業の人と会うことは苦痛以外のなにものでもなかったが私はこの翁との時間は一日の貴重な時間でもあった。

H氏は美味しいものを教えてくれた。今の情報誌のような「食べてもいない情報」ではなく、自らが経験して美味しいと決め込んだものを私に教えてくれた。

色々なところへ行った。小田原に美味しい干物があると聞けばそこに、柴又の参道に美味しい鰻屋があると知ればそこに、品川に江戸前の天麩羅屋があればそこに、そういう具合には30代の私はHさんに美味しいお店を身をもって教えてもらった。感謝である。

Hさんは甘いものが好物だ。当時の事務所は布製の椅子だったので、Hさんが帰ったあとは菓子の食べこぼしで、Hさんがいたことを誰もが知る由となった。事務のYさんは困ると言っていたが、私にはHさんの残像のように愛おしく感じたものだ。

私にこんな親父が生きていたら、ぜってえ塗装職人になっていたと思う。

Hさんは死ぬ数年前に私に「おれゃいい人生だったけど、息子たちが心配だ。一人息子で細君が馬鹿っ可愛いがりしていたから、駄目になっちまって、心配さ。だけど俺の財産が全部なくなっても仕方ねえ。俺は腹くくっているよ」と私に言った。

私は翁の死後、本来なら十分に支払い可能な債務だったが、さらに収益性を高めるように努力し金融機関とも折り合いをつけた。そして個人的にも出来る限りの応援をしたものの、使う本人たちのその後の自制は利かず、結果、翁の心配していた状況になってしまった。

当人たちのために私は最善の努力をしたが翁にはどう写ったのか分からない。

翁が言うには虎ノ門でビリヤードをしながら手早い昼食で済ませるためにはうな重が一番だったようだ。

そんなことが走馬灯のように蘇る。味憶とは家族そして経験によって培われるものだとつくづく思うこのごろてある。