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2011年9月29日木曜日

祝退院 冠動脈塞栓術

肝機能の問題で外科的切除術を選択できず、冠動脈塞栓術にて入院していたお客様が無事退院されました。門脈近くの癌に手古摺ったということなので心配していましたが、1週間後のCTで2個の腫瘍は確認されず、無事に退院の運びとなりました。

肝臓癌はまだよくその基序が分かっていない癌の中でも比較的はっきりしているもののようです。さらにいくつかの治療法も確立され、患者のQOLを考えながら選べ、日本は世界でもトップクラスの成績を修めているようですのでこの国に生まれた事に感謝しなければいけないかもしれません。

抗癌剤の副作用も、開腹によるリハビリも必要なく、翌日から起きあがって好きなものが食べられるのもこの術法のメリットです。

冨士山のミネラルウォーターで5人で乾杯です!!

EGG BENEDICT ニューヨーク

747は高度を徐々に下げながらシラキュースの上空を通過していた。

このあたりはニューヨークにとっての分水嶺にあたる地域だとラジオで聞いたことがあった。

英語で分水嶺はwatershedという。山に落ちた雨水が峯のこちら側と反対側とでは別の場所に流れ込む。

ヨシヒコは北関東の地方都市で育った。ここでは川の水はすべて南へ流れて行く。

隣の信州に行った時に川の水が北へ向かって流れて行くのを見て、不思議な感覚を覚えた。不思議な感覚と言うより、ヨシヒコにとっての意心地の悪さだった。

ニューヨークには空港が3つある。ラガーディア、ニューアーク、そして今回ヨシヒコが降り立つジョン・F・ケネディ空港だ。

この空港は出来てから大分時間が立っている。荷物を吐き出すターンテーブルもどことなくぎこちなく古びた音を出していた。

ヨシヒコは機内に持ち込んだディパックを左肩に掛け直し、紺色のスーツケースをターンテーブルからもぎ取るようにして運び出した。

外は小雨が降っていた。

ヨシヒコは自らトランクにスーツケースを押しこみ、映画やドラマに出てくるイエローキャブに乗り込んだ。

その車はリンカーンの古いモデルだった。運転手はインド人だった。車内にはわずかに香辛料の匂いが漂っていた。

車は途中、渋滞に巻き込まれながらも順調にブルックリンブリッジを通過していった。

橋の袂には外見は古びているけれどもよくみるととても豪華な建物が建っていた。上階のペントハウスは開け放たれ、庭のオリーブとウイキョウが秋の日差しを受けながらそよいでいる。

車は南に進み、ヨシヒコが予約してあるホテルに止まった。

ホテルはニューヨークではとても有名なホテルで、ヨシヒコが航空券を予約する時に旅行会社に薦められたホテルだった。

ヨシヒコはタクシー代を払い、チップの額に不服そうな運転手を無視してロビーに進んでいった。

ホテルのロビーは緑色の大理石を壁や床に配した室礼で、人を圧倒するようだった。ヨシヒコはこういった様式をネオゴシック様式と言うのだと何かの本で読んだことを思い出した。

ロービーに予約の名前を告げると、背の高い男性が別の場所でチェックインするように指示された。

その場所はロビーの反対側にあり、バスや団体専用のチェックインカウンターだった。ヨシヒコはついた早々体よく、人種差別を受けたのだ。

しかし、ヨシヒコは英語で反駁する体力はなかった。長旅の疲れで、一刻も早く熱いシャワーを浴びてベッドにもぐりこみたい衝動にかられていたからだ。

部屋はタワーの上階に位置して、窓から建物の間にセントラルパークの緑がかろうじて見られる部屋だった。

ヨシヒコはこの部屋で350ドルは高いと思ったが、もともと今回の飛行機代も宿泊費も自分が出した訳ではなかったので、そのまま胸にしまいこんでしまった。

翌日、目が覚めるとヨシヒコは空腹に苛まれた。ヨシヒコは身繕いを早々に済ませサキソニーの紺色のジャケットを羽織り、ダイニングに降りて行った。

ホテルのダイニングは多くのビジネスマンと思しき人達が朝食を取っていた。

友人とわいわい話しながら賑やかに朝食を取る人達、一人静かに新聞を片手にコーヒーカップを口に運ぶ人たち・・・・・・・様々な人達で溢れかえっていた。

ヨシヒコは入口から一番離れた席に座り、メニューを見回した。

ヨシヒコは汐留のホテルで叔父に一度、エッグベネディクトなるものをご馳走になったことがあった。ヨシヒコ一人ではとても入れない高級ホテルだった。

そのときにエッグベネディクトはヨシヒコが今泊っているニューヨークのホテルが発祥地で、常連客で食欲のない人に供したのが始まりだと聞いたことがあった。

ヨシヒコはその料理とコーヒーを注文した。ヨシヒコは注文してから、食欲が無いわけでもなく、足らなかったらどうしようとふいに考えたが、ホテルの斜め前にあったコーシャフードの屋台の事が頭によぎり、注文はそのままにした。

2杯目のコーヒーを飲み始める頃に、その料理は運ばれてきた。

東京で食べたそれより2倍以上大きいそれは存在感を放っていた。

卵は半熟で、ソースの酸味が感じられる。何分、パンの大きさが違うのだ。

付け合わせのポテトの量も多く、ヨシヒコはそのひと皿で満腹になった。

はっきりいって味は東京で食べたそれの方が美味しかった。ヨシヒコは世界で一番美味しいものを食べたいなら、東京からでないことだと言っていた事を思い出して、一人で可笑しくなった。

ヨシヒコは3杯目のコーヒーを半分残し、席を立ち、脇に新聞を挟み日差しの長くなった秋のニューヨークを歩きだしていった。









LITTLE BROTHER

知り合いの大家さんがいます。とても人のよい方なのですが、見栄っ張りがいけません。

結構お年寄りで自分をインテリと思っている人にこの手の人を多く見かけます。

自社ビルの一番良いフロアーを30年近く自分の会社で使っています。社員の人数や仕事の中身からすればそんな広い事務所は全く必要ありません。もしずっと前にそのことに気づいていたら、お金に窮することもなく、億単位の差になっていたことは今ではとても申し上げられません。

今回、やっとそのことに気づいたのかなと少しほっとしましたが、やはり見栄と自己への甘さで元の木阿弥ということになりそうです。

こういった人達にはリトルブラザーが住んでいるのです。そうです。村上春樹氏が1Q84で描いたあれです。今回もこのリトルブラザーがお出ましになったようです。

3年間固定式の駐車場でなく、時間駐車場を利用し、その結果ではありますが、車にいたずらされたり、ぶつけられたりしたのか、何故敢えてその方法を私が取ったのかこの人たちには決して理解していただけないでしょう。

物事には出来てもやらない事が必要なのです・・・・

立って半畳、寝て一畳、断捨離の精神で、50歳を過ぎたら物に拘らず、リリースすることを心掛ける・・・・美味しいものはみんなで別けて食べる・・・・・そうすると楽なんだけどな・・・・・・リトルブラザーもすぐ退散するのに・・・・こんな簡単なことが・・・・残念ですが仕方ありません・・・・・

おそらく一生理解されることはないのでしょう・・・・・・・



牡蠣がない

10月に入ろうとしているのにスーパーで牡蠣が買えません。

私の家の近くの東急ストア、食品館あおば、成城石井にも牡蠣がありません。

私のところだけ????

どうしても美味しい牡蠣フライが食べたいーーーーのです!!

私の牡蠣フライの作り方をご披露します。

用意するもの
☆加熱用の大ぶりの牡蠣
☆きゃべつ
☆茹で卵2個
☆塩胡椒、(胡椒はホワイトペッパー)
☆玉子、小麦粉
☆ピクルス
☆レモン
☆牛乳
☆パン粉 出来れば買い置きしてあったバケットで作るとなおよい

①牡蠣をさっと水洗いして、牛乳に1時間程度付けておきます
②きゃべつの千切りを作り水に放しさらに水を切ります(トントントンと包丁で切って下さいね)
③フランスパンをブラインダーで細かくパン粉にします(大きさはお好みで)
④ピクルス、茹で卵をみじん切りにしてマヨネーズと和え、塩胡椒します。
⑤玉子と小麦粉を混ぜた液体にさっと牡蠣をくぐらせ、パン粉を付けます
⑥あとは180度で牡蠣を揚げて、お皿にキャベツ、レモンと一緒に添えて盛りつけます
⑦タルタルソースは別の器に入れてお好みで出します

※とにかく揚げたてをフウフウ言って食べることが一番肝要なのはいうまでもありません!!