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2012年12月29日土曜日

鮨 日本橋 吉野寿司


鮨司 日本橋 吉野寿司

 以前にも書いたが蕎麦と寿司は私の天敵である。間違って入った店で好みでないものが出されたときには人生最大の失敗と嘆き悲しむからである。
 さらにこのところ勘違いしている店が増えている。どこかのタイヤメーカーの出している本に星が付くと、とたんに有頂天に浮かれて偉くなったように勘違いするのだから始末が悪い。こんな店はこちらから願い下げである。

 ところで日本橋のこの吉野寿司は友人のいきつけの店である。店の名前は知っていたが食したのはつい最近である。
 ひょんなことで築地の鮪の仲卸をやっている人と知り合いになった。その人がいうには鮪の中で本当に旨いのは赤身だそうである。何故なら、トロや中トロなど脂の多いところは舌が馬鹿になってしまうらしいのだ。だから上等とそうでないものも以外とわからないらしい。ところが赤身となると上物との差がはっきり出るのだそうだ。

 よい赤身は舌の上に乗せると包丁(ステンレスじゃないよ)の味がするといっていた。確かにここの赤身はその鉄分というかヘモグロビンというかその手の味がするのだ。
 赤身にコクがある。そして、もうひとつ良いのはすべて小ぶりなのだ。シャリが大きいのもご法度だが、ネタが大きすぎるのも困りものである。要するに口に入れた時のバランスなのだ。ここの寿司はそのバランスが実に宜しい。
 さらに食べている間に供されるつまみの類も最高である。多くの寿司屋では高級感を出そうとつまみに凝りすぎる。白子やウニ、アン肝などをこれでもかと調理する。しかし、私が食べたいのはもっとシンプルな物だ。寿司が生なので焼き物や炙りものがいい。ところが、そんなものをと言わんばかりに中々出そうとはしない。
 先日もここではげそを軽く炙って出してくれた。これが食べたかったというのが分かったようである。その時、妻は風邪で熱が38度近くあったが、私と同じく21貫食べたのは内緒にしておこう。
 

 


とんび岩



とんび岩
太一ことターボーの家と良平の家は直線距離にして500メートルしか離れていなかった。二人は学校から帰るとランドセルを放り投げるようにしていつも真っ暗になるまで遊んでいた。そんな二人のクラスに鈴木勝男が転校してきたのは小学校5年のときだった。
鈴木勝男は背が高くひょろっとしている。背が低いターボーとは対照的だ。勝男は埼玉から転校してきた、父親の仕事関係とか言っていたが、そもそもこの街の小学校で転校生は珍しい。小学校、中学校と学校は変わるが、生徒のメンツは変わらない。
クラスの担任が勝男の紹介を終えると、勝男を良平の席の隣に座らせた。先生は良平に宜しく頼むとポンと肩に手をおき、くるりと反転し黒板に向かった。良平はそう先生に言われたことが少し誇らしかった。
それから3か月が過ぎた。勝男は体育の授業では球技はあまり得意ではなかったが、駆足だけは早かった。今までクラスで一番早かった男子と競争した時も大差で勝利した。
勝男は痩せていたことでスイッチョンという渾名をもらった。この地方ではクツワムシに似た、ウマオイのことをスイッチョンと呼ぶ。ただし、勝男のそれはその駆け足の早さから「スイッチオン」をもじった訳でもあった。
3人は土曜日の午後、とんび岩に行く約束をした。とんび岩はその街の西に位置していた。周囲を山に囲まれているその街はどこへ出掛けて行っても山がすぐ追いつく。とんび岩はその山の中腹にあり、とんびが羽根をたたんでひょんと留まっている姿に似ているからつけられたようだ。良平は街を睥睨するようにその場所にあるその岩が好きだった。
3人とも小さなナイロンのナップサックを背負っていた。この街のはずれにある競艇場の開場20周年の記念に貰ったものだった。
途中の駄菓子屋で3人は飲み物を調達した。良平とターボーはグレープ味のチェリオを買った。勝男は透明のスプライトにした。
途中まで道は舗装されていたので3人は自転車でその小さな公園まで行った。公園に着くころには背中にびっしょりと汗をかいていた。山の稜線にそって3人は登り始めた。
途中、木の根っこが飛び出していて、足を取られそうになったが何とか半分辺りまでたどり着いた。さらに進もうと良平が二人を振り返ると、勝男が「変な虫がいる」と地面を指差した。ターボーがその虫を見る。それはオケラだった。勝男はオケラを見たことが無かったのだ。虫の好きなターボーがそのオケラを捕まえて、ビニールの袋に入れようとした。良平はターボーをたしなめるように、「オケラは明るいところにいると死んでしまう。目が見えない彼らは太陽の光をとても嫌うんだ。だから、持ち帰っても死んでしまう」ターボーは残念そうに袋からオケラを取り出し草むらに放した。
太陽が西の山に近づいたころ3人はとんび岩にたどり着いた。3人とも汗だくで疲れていた。岩は2段になっていて、丁度段と段の繋ぎ目が平らになっていた。そこに3人は腰を下し、持ってきた飲み物を飲んだ。眼下に自分たちの学校が見える。とても小さなその建物は模型を見ているみたいだった。こうして街を見てみるとあれだけ大きく広いと思っていた街も案外小さいものだと思った。この街から離れたことのない二人はこの街の外のことが気になった。どんな街があって、どこに続いているのか。漠然とした少年の気持ちはその後の二人の人生におおきく影響を与えることになる。

 
 
 



2012年12月28日金曜日

葉山 旭屋牛肉店


葉山 旭屋牛肉店

正式に言えばここは料理屋ではない。正真正銘精肉店だ。もっともここの葉山コロッケはデパートの物産展では顔なじみだろうが、今回の話はここのお肉の話である。

 私が初めて葉山牛を食べたのは今から20年前になる。小町通りの2階のステーキ店だった。そろそろ脂身の多い霜降りには胃が疲れる年齢になった頃だったので脂の少ないそしてさっぱりとした味わいは私に合っていた。それ以来、地産地消を勧めている訳ではないが葉山牛を好んで食べる。我が家ではお正月に一族郎党、外様も含めて20人程が集まる。

そんなときここの牛肉が活躍するのだ。おせち料理に飽きたころ、我が家では鍋を供す。

その定番なのがこの葉山牛のしゃぶしゃぶである。毎年、年末になるとここ旭屋牛肉店に馳せ参じ2キロを買い求める。牛肉は年末に届くのだが、帰り際に葉山コロッケを店先で立ち食いするのも毎度お馴染である。店先に張られた「とんびに注意」はその通りなので気をつけることを付け加えておこう。



 

1981年のゴーストライダー capter2 Ⅴ



麗子の別荘は洋一が想像していた別荘ではなかった。敷地は広いものの建物はその姿を消し去りたいと思わせる程遠慮がちで周りの木々に寄り添うように建っていた。石の門柱に木製の表札がポツンと嵌めこまれ墨字で山潟と書かれていた。

麗子が玄関の呼び鈴を押すと同時に背のあまり高くない女性が現れた。洋一が麗子に「お母さん」と聞くと麗子は笑って「マキちゃん、祖父の代から働いてくれている人」と答えた。まもなく、その女性を追うようにしてフィラのブルゾンと紺色のニットのスポーツパンツの背の高い女性が現れた。その女性は麗子の母だった。麗子が事の顛末を母に伝えると母は洋一にお茶でも飲んでいってほしいと引きとめた。洋一は玄関先で失礼しようと思っていたが、麗子の母の半ば強引な引き止めと、それを援護するマキちゃんの手腕であっさりそれを諦めざる得なかった。

リビングに通された洋一は想像してインテリアと違っていたのに驚いた。洋一は西洋の貴族趣味のような華美に装飾されたインテリアが好きではなかった。この手の別荘や住宅に案内されるたびにまたここも同じかと思うほど、同質なものが多かったからだ。そこへ行くと麗子の別荘は違っていた。椅子の座面は布地だが木製のがっしりした椅子は直線を基調とした男性的なもので西洋的ではない。木製の脚は飴色に光っていた。テーブルは大きな杉の一枚板のテーブルであった。これもまた樹齢800年の縄文杉で作ったものだった。どちらも祖父が飛騨の木工所に特別に作らせたものでもう50年は経っている。照明もこれみよがしなシャンデリアではなかった。北欧の作家が作ったシンプルな照明が付けられていた。もっともこの別荘の照明は日本の照明とは根本的に違う。日本の住宅のそれはよくも悪くも部屋全体を明るくしてしまう。一方、アメリカでもヨーロッパでも照明は必要な時に必要な部分を照らすものである。ここの照明は彰かに後者を意識している。

麗子が大谷石で造られた暖炉の上のアイビーリーグの図書館に置いてあるような翡翠色をしたガラスのテーブルランプのスイッチを入れた。暖炉の上端から伸ばしたように大谷石の飾棚があった。その上には大きさの様々な写真立てが飾られていた。麗子はその一つをとって「これが祖父なの」と洋一に示した。写真の男性は燕尾服を着て、小脇に山高帽子を抱えていた。後ろに見えるのは古い車のようだったが車種までは分からなかった。

間もなくマキちゃんと母が同時に現れた。麗子の母は先程のスポーティな洋服から深い浅黄色のニットのアンサンブルに着替えていた。

綺麗なカップと同じ絵柄のポットには保温のためキルティングが掛けられていた。マキちゃんは手慣れた様子で、客人である洋一から順番にお茶を注ぎはじめた。

ポットには大倉陶園と書かれていた。洋一は紅茶だと思ってカップに顔を近づけた瞬間、その香りが今まで一度も体験した香りでないことが分かった。鼻腔を抜けるその香りは決して嫌な香りではない、嫌どころかどこか南国を思わせるようなエキゾチックさと最後に残る清涼感にノックアウトされた。そのことを素直に話すと、麗子の母は笑いながら、「そう、このお茶は私も好きなの。でも、家に来る人は全くの味音痴ばかり、一度も褒めてくれたことなんてないのよ。あなたは味が分かるのね。このお茶は中国の白茶というお茶に、緑茶とセカンドフラッシュという紅茶をブレンドしたものなの、わたしは午後の今くらいの時間に飲むことにしているの、いいでしょ」とゆっくりとした口調が、まわりに安心と穏やかさを伝えた。

話が進むにつれ、明日のゴルフの話になった。明日のそれは仲間内のもので、気兼ねしない集まりである事。麗子の母もゴルフをするので麗子が一人になってしまうこと。そして洋一がそのゴルフ倶楽部に興味があることなどが盛り込まれた会話が終わる頃には洋一は明日一緒に昼食をとる約束になっていた。

洋一は母の車で送ると言う申し出を丁寧に断り、すでに真っ暗になっていた初冬の軽井沢の小径をやや速足で歩いた。洋一は紺色のコートのフードを被りなおして、季節は知らぬ間に確実に先に進んだと感じた。
 
 


 

2012年12月27日木曜日

AM 7:30


AM7:30

朝食の支度を終え美佐子が息子を起こそうとするが息子は布団から出てこない。ぐっすり眠っているというわけではなく、布団にしがみついて離れようとしない。美佐子が何度試みてもまた布団を被ってしまうのだ。美佐子が訳を聞くが何も話さない。ただ布団の中で「今日は学校に行きたくない」とだけ言った。

美佐子は少し思い当たる節があった。昨晩、浩一郎の息子が美佐子の用意した料理を食べながら、美佐子に「腕のつけねのあたりに痣がありますけど、何かぶつけたりしましたか」と尋ねられたからだ。美佐子は気付かなかった。息子は風呂からあがるとさっと別の部屋に行って着替えてしまうから美佐子は分からなかった。

もう何か月も前になるが、息子の筆箱に入れてある5.6本の鉛筆の芯が全部折れていることがあった。その時は乱暴に扱ったから芯が折れたのだろうと簡単に考えていた。

しかし、美佐子は改めてそれらの事実を繋ぎ合せてみた。布団の中の息子に「誰かにいじめられているの」と問いかけても「ちがう」とだけ返ってくるその返事はあきらかにイエスのサインだ。美佐子は「今日は寝てなさい。お母さんが学校に風邪で熱があるっていておくから」と息子の布団に向かって明確にそして丁寧な口調で話した。布団は無言のままだった。

美佐子が夫から暴力を受けていた頃、息子の様子が変わったことがあった。最後にはその暴力は我が子に向かうのだが、その少し前に急に陽気になったことがあった。楽しくも面白くもないような場面で急におどけてみたり、笑いだしたりするのだ。

美佐子は気が変になったのかと心配し、姉の夫に相談した。大学時代に心理療法の勉強もしていた姉の夫がいうには、きっとそれは子供心の防衛本能のようなものではないかと言うことだった。美佐子に向かう暴力を自分がおどけて笑うことで少しでも和らげることが出来るのではという子供の抵抗の表れであり、心に相当な傷を負っていると思うと言われた。その数日後、夫の暴力は息子に向けられ。美佐子は離婚を決意した。

二人で暮らすようになって息子の精神状態は安定した。あのときのように何もない場面でおどけたり笑いだしたりすることはなかった。浩一郎の息子に勉強を教えてもらうようになって息子の表情はさらに明るくなった。

息子は浩一郎の息子のことをおっきい先生と呼んでいた。息子はおっきい先生が来るのをいつも楽しみにしていた。おっきい先生は来るたびに読書がどの位進んだか必ず聞いてくる。息子にはそれが楽しみだった。今読んでいる本はおっきい先生がくれた「飛行機のしくみ」という本だった。図解入りで飛行機が何故空を飛べるのかその原理のようなものが説明されている。息子は飛行機の羽が受ける力のことを揚力と言うことを知った。つい2日前にも美佐子に「お母さん揚力っていう力知っている?」と得意げに話してきたばかりだった。

美佐子は学校に電話を入れた。息子が風邪で熱があるので休みますとだけ伝えた。いじめのことは一言もしゃべらなかった。美佐子は息子にドラッグストアに出掛けると嘘を言い、公園のベンチから浩一郎に電話を掛けた。
 
 



 

 

ラーメン 袈裟丸家 鎌倉


ラーメン 袈裟丸家 鎌倉

土日の鎌倉は自転車に限る。細い道は観光客がひしめき駐車するのもままならないからだ。我が庵から鎌倉駅まで自転車で15分はかからない。おまけに平坦である。別に用事かなくてもぶらり自転車にまたがり鎌倉駅近くを散歩する。

私のお決まりは、まず小町通りにある古本屋「木犀堂」である。ここを教えて戴いたのは本好き、オーディオマニアのリックパパである。愛犬リックは天国に身罷られたが、いまだに愛犬の名前で呼ぶのは同類相哀れむの例え通りお許しいただきたい。この店の主は無口である。ほとんど口を開かない。私が通い始めて4回目の頃、この店で「漂流物図鑑」という本を買った。確か1200円だったと思う。初めて店主の声を聞いた。「こういう本買う人いるんだね」それだけである。考えてみるとこの鎌倉には文士が多く住んでいたようである。だから、貴重な本が時々売りに出されることが多いのではないかと。私はとくにサイン本を集めているわけではないが、偶然買い求めた本に直筆と思われるサインがしてあるものがあった。山口瞳氏のサインのある「いきつけの店」ではその中に登場する横浜の八十八との実際の出会いがあった。野上八重子氏の「森」も同様にサインがある。こうした本との出会いは本当に嬉しくなる。

若宮大路に輪を向ければ、「BEACH DOG」というTシャツ屋がある。もう20年近い付き合いだ。店主は親の介護のため一時恵比寿から通っていたという。今は違うらしいが、雨の日は必ず休むし店は不定期である。店主の飄々とした風貌と身のこなしからただものではないと推測されるが、お互い深いことは聞かない事にしている。

ここ数年、鎌倉のラーメン屋を食べ歩いている。由比ヶ浜通りにあるHという店も良く通ったが、昨年2号店を出したあたりから変わってしまった。席に着いてから客を待たせる上に手際の悪い品出しは興ざめである。それ以来、色々と試してみたが私の好みの店は少なかった。そんなとき袈裟丸家に出会った。トンコツと聞いていたので最初は敬遠したのだが、ものは試しと意を決して飛び込んだのである。

鎌倉駅の踏切を渡り終えた右手に袈裟丸家はある。ここの店主も土日は休業と言う欲もへったくれもない営業をしている。私が初めて食べたのはある夏の暑い日だった。幸い、2.3組の客待ちもそうたいして時間は掛らず、店内に入ることが出来た。

店主は丸坊主である。傍目からすると強面のアンちゃんといった風貌である。そんな強面君ではあるが、私が目にしたその光景はアルバイトと思しき若い女性にチャーシューの切り方を教えていた店主であった。アルバイト君は中々うまく切れない。不揃いで厚さもマチマチである。それを店主は「こうやって切ると旨くそろうんだよ」と言って優しく丁寧に教えていた。そして不揃いのチャーシューは別に使うからと付けくわえ彼女に作業を続けさせたのである。はっきりいってこういう人が作るラーメンが不味いはずがない。

運ばれてきたラーメンにはチャーシューも卵も一応全て入っている。これで650円は安い。しかも、全くトンコツの嫌な匂いがしない。私はトンコツの匂いが強いラーメンは苦手である。どうやらスープの作り方に秘密があるらしい。本来、屋台発祥のトンコツラーメンは前のスープに継ぎ足して使う。これによってスープは濃くなる。一方、一風堂やここのスープは作り置きしない。だから匂いが違うのだ。通に言わせれば私の好みは傍流であろうがこれとて仕方がない。何分トンコツラーメンに出会ったのは舌の出来あがった30歳を超えてなのだから。ここのスープは最後まで飲める。そして飲み終わった後にちょうど牛乳で胃袋が優しく包まれたような感じになる。この小さな店は私にとって鎌倉の大仏より大きい存在なのだ。唯一、道路側の暖簾が風になびいて食べている私の顔をさするのが難点と言えば難点であるがまこと些細なことである。



 



 

2012年12月26日水曜日

シュークリーム 青葉台メイプル



シュークリーム 青葉台 メイプル

私は甘いものが苦手である。自分から好んで買い求めることはしないが、シュークリームだけは違う。

私が育ったK市にはNという洋菓子店があった。今はもう跡かたもなくなってしまった。
私がおぼろげに覚えているのは、父親が時折そこのケーキ帰ってくる姿だ。お土産で買ってくるその白い箱は幼い私には宝箱に思えた。私の父は一切お酒が飲めなかった。そして無類の甘党だった。その箱の中身はシュークリームとアップルパイと相場は決まっていた。父の大好物だからだ。

子供心にいつももっと食べたいと思っていた私はある年のお正月を明けた寒い北風の吹く日曜日にお年玉を握りしめてその洋菓子店に自転車で向かった。

店に着くなり荒い息を整える間もなく、「シュークリーム20個下さい」と紅潮した顔で店員に伝えた。そして白い箱を片手で持って踵を返すが如く家に戻り、誰にもひとつのシュークリームも渡さず20個のシュークリームをすべて食べたのだ。最初の10個までは味わって食べたが、残り7.8個を過ぎる辺りから、その甘さと匂いで気分が悪くなった。そして翌日ひどい腹痛に悩まされた。

普通ならこんな経験の後はシュークリームを見るのも嫌になるかもしれないが、私の場合は違っていた。シュークリームが好きという気持ちは変わらず、その気持ちは登記されたままであった。

横浜に引っ越してから青葉台にメイプルという洋菓子店があることを知った。そしてシュークリームが名物であることも。
横浜に来てから私達と最初に暮らしたジーニーというゴールデンレトリバーはことさらここのシュークリームが好きだった。いつも人数分プラス彼女の分を買って帰った。この頃と比べると大きさが幾分小さくなった気がするが味は変わらない。昔のままである。娘が嫁に行って人数がひとり減ったが、プラスセブとさくらの分を買うので以前よりひとつシュークリームが多くなった。
 
 



 

1981年のゴーストライダー capter2 Ⅳ



 麗子はここから歩いて5分程の別荘に母と一緒に来ていた。麗子は夏の混雑する時期より今の様な初冬の軽井沢が好きで毎年この季節に暫く逗留していた。
 
 麗子の別荘は祖父が建てたもので、建物は木立に囲まれるように道路からは離れて配置され、隣の雲場池を見渡すことが出来た。麗子の祖父は和歌山出身の人で、材木業で一財をなし、晩年には国会議員も務めた地元では知らない人のいない有名な実業家だった。

 洋一と麗子はしゃがみこんで一緒に落としたコンタクトレンズを探していた。麗子が立ち上がろうとしたとき、後ろにいた洋一を押してしまい、そのはずみで洋一は床につんのめる形で四つん這いになってしまった。それを見た麗子はケラケラ笑いだした。洋一は最初ムッときたが、あまりに屈託なく、大笑いする麗子を見て可笑しくなって自分も笑ってしまった。
 結局、コンタクトレンズは米松の床の隙間に見つかったが、レンズは欠けていて使い物にならなかった。麗子は探してくれたお礼を洋一に伝え、片目の状態のまま店主が入れなおしてくれたコーヒーを飲みながら洋一と話をした。
 
 洋一は麗子に仕事で軽井沢に来ていること、壊れそうな古い車で来ていること、明日は休みである事、そんなことを話した。麗子は笑いながら洋一の話を聞いていた。麗子は明日、父に付き合ってゴルフに行くことを洋一に伝えた。
 
 洋一はゴルフをしないが、ゴルフマニアの優子の父より軽井沢にあるゴルフ場が、日本でも有数の名門コースで、首相であっても紳士たるマナーに違反すれば退場させられることや、先先代の理事長が白州次郎であることなどその手の情報を耳にタコが出来るほど聞かされていたので、麗子の行くゴルフ場がどこなのか興味を持った。
 案の定、麗子が父と一緒に行くゴルフ場はその「軽井沢ゴルフ倶楽部」だった。行くといっても麗子もゴルフはしない。
 今まで気付かなかったのだが、麗子は左脚が悪いようだ。麗子は生まれた時に高熱が出て、脚に麻痺が残ってしまったとあっけらかんとまったく気にする風でなく洋一に説明した。麗子は足が悪い上に今日は片目である。
 洋一はもし良かったらと麗子を別荘まで送ることにした。麗子が持っていた木綿のトートバックには2冊の本と色鉛筆そして小さなスケッチブックが入っていた。洋一は麗子のバックを左肩にかけずしりとしたそのバッグの重みを両足で感じていた。カウベルの音とともに戸外に出た二人はゆっくりと初冬の日差しが木立の間から斜めに差し込む小径を歩き始めた。
 
 


2012年12月25日火曜日

クリスマス


クリスマス

優太は父や母の誘いにもドアをノックする音にも一切応じようとしなかった。ただ、カーテンを閉め切って真っ暗な部屋の中でひとり泣いていた。

優太がトラという猫を飼ったのは今から4年前になる。優太の通学路にあったスーパーのゴミ置き場の片隅に折りたたまれていない段ボール箱が置いてあった。優太は恐る恐るその箱に近づき中を見てみると、タオルに包まれた薄い茶色の縞模様の子猫がいた。それがトラとの出会いだった。

優太の家は賃貸マンションだった。家に段ボールごと連れ帰ったものの、両親はそのことを理由に優太にもう一度元の場所に戻してくるように強く迫った。

優太は今まで一度も親に反抗した事はなかった。このときだけは違った。どうしても子猫を元の場所に置いてくることは出来なかった。いくら両親が説得しても応じようとはしなかった。子供ながらに強い信念と決意を持っていた。優太はその子猫を抱いてベランダに出て今日から一緒にここで寝るときかなかった。両親は根負けして、このマンションを退出する時には全ての内装を修復する費用を自分たちが負担すると言うことを条件に大家の了承を得た。そしてトラは晴れて優太の家の一員となったのである。

トラは大人しかった。生まれてすぐに去勢したせいもあったが、他の猫にも人間を含めて他の動物にも穏やかで従順していた。

トラには特技があった。トラは優太の鉛筆が好きだった。それも優太の図画工作に使う2Bの鉛筆が好きなのだ。優太が机に鉛筆を散らかしておくと、その2Bの鉛筆を器用に加えて優太の近くに持ってくるのだ。まるで優太に絵を描く事を薦めるように毎回同じ動作を繰り返すのだ。これを見た両親はそれ以来トラのことをトラ先生と呼んでいる。トララは優太にとって初めての家庭教師となった。父親はトラの横顔は何となく芸術家全としているといっていた。帽子でもかぶせたらきっとセーヌの河畔にいる俄か画家よりもよっぽど本物らしいと、パリには一回も行ったことがないくせにいつも笑ってそう言っていた。

トラは家族といつも一緒だった。優太の家の車は父が仕事で使う軽自動車だった。車には父が勤める工務店の名前と電話番号が大きく青い文字で掛れていて優太はトラが家にやってくるまでこの車で外出することが嫌だった。ところがトラが家にやってきてからは違った。トラを連れて外出すると決まってトラを褒められたからだ。

トラは細いリードを付けて外出したが、人がトラを触ろうとしてもトラは嫌がらず撫でさせていた。犬が寄ってきてもトラは優太の顔を真っ直ぐ見たまま逃げることも騒ぐこともしない。そのうち犬はどこかへいってしまうのだ。

トラは鳴かなかった。何かを要求する時もその人の前に近づき、そっと上目遣いで何かを訴えるだけなのだ。そんなトラは家族に大切にされていた。

トラは子供から大人に成長するにつれて薄い縞模様がやや濃くなった以外は何一つ変わらなかった。

その日は初冬には珍しく天気が安定していなかった。生暖かい朝を迎え、優太が学校に着くなり突風が吹き荒れ、大粒の雨が降り出した。優太の2時間目の体育の授業は教室での自習に変わった。優太が帰る頃にはその雨は上がっていたが、寒い北風に変わり真冬の空に変わっていた。

優太が家に着くと、母親があたふたしている。優太の顔を見ようとしない。母親が優太にごめんねと言葉を漏らすと同時に開け放たれていた窓の隙間を指差した。

母親は泣いていた。トラは雷が苦手だった。雷が鳴ると逃げ出して誰から構わず膝の上に乗ろうとする。それもガタガタ震えて。そんなとき人が居ないとトラの不安は増大して、もうどうしていいかわからないような狂乱状態に陥ってしまうのだ。だから、天気が悪くなるようなときは家族のだれもがトラの事を心配して、近くに居るようにしていた。どうしても出来ないときはトラをゲージに入れて落ち着かせた。

今日はほんのちょっとした間に天気が急変して雷が鳴った。母親は窓が少し空いていたことに気付かなかった。大粒の雨の中、買い物先から急いで帰った母親はトラを探したが家の中にはいなかった。ほんの少し明けはなれた窓を見た時に母親はなすすべはなかった。

優太は母親をなじった。母親がしたことがどれほど残酷で惨いことなのか、延々と母親を責め続けた。母親は泣いて謝るばかりだった。

夜になり父親が帰り、三人で近くを探したが結局見つからなかった。翌日、優太は自分が作った探し猫の張り紙を母に頼んで100枚ほどコピーして、近所や公園、トラを拾ったスーパーの近くにも張り紙やポストに投函した。

翌日、優太はトラが見つかるように神様にお願いしていたが、掛って来た電話は表通りのバイパスで猫が轢かれていたという一件だけだった。その猫は黒い縞模様のトラとは違う野良猫だったが、優太の心配は一気に増大した。

窓の外は相変わらず寒い北風が吹いていた。今年の冬一番というクリスマス寒波が来ていた。冬至を過ぎたばかりの今日は5時を回るともう暗くなってしまう。あたりが闇に包まれそうな冬景色の中にひらりと一枚の花びらが舞った。花びらではない、北風に運ばれてきた雪の結晶だった。雪はガラス窓に暫くその姿を写した後、すっと消えてなくなってしまった。優太が涙で晴れた瞼を閉じて手でぬぐいながらその結晶の消えてしまった場所に息を吹きかけるとガラスは一瞬真っ白に変わった。そして真ん中から徐々に透明に戻っていく。その真ん中の小さな点にみたことのある優しい目がこちらを見て笑っている。遠くから商店街の年末恒例のクリスマスの歌が聴こえてきた。



 

トムヤムクム 渋谷 サラタイ 犬蔵 ヤムヤム


トムヤムクン 渋谷 サラタイ 犬蔵 ヤムヤム

今から30年近く前になる。渋谷の青山学院大学のすぐ近くにサラタイというタイ料理の店があった。先日、その前を通りかかったらまだ店名は昔のままだったのでずっと続いていたのかとひとり感心した。当時、タイ料理自体都内でも数えるほどしかなかった。今でこそ街のあちこちでエスニック料理が食べられるようになったが、まだ一般的とは呼べなかった。

そのサラタイで初めて食べたのがトムヤムクムである。世界三大スープのひとつと言われているあれである。スープは素焼きの壺にいれられ供されていた(と思う)。

辛さもさることながら、あの独特の酸味と薄味ながら奥の深いスープの虜になった。

20年以上前私が会社を辞めた後でも何かと気に掛け親切にしてくれたアパレルメーカーがあった。私はそのアパレルメーカーの社員旅行にも誘われるまま同行することになった。これが人生初めてのタイである。
 
そのメーカーは当時ティーンズ向けのカジュアル衣料を作っており業績も好調だったが、親会社の不振のあおりを受けて残念ながら事業を続けることは出来なかったことが今でも残念である。

タイに初めて行ったときのことは今でも鮮明に覚えている。空港を降り立ったときのあの湿った、噎せ返るような饐えた匂い。パッポン通りに怪しく光るネオンと両手両足の無い物乞いの子供・・・

好き嫌いは別としてこうした別の世界があることを知った。

このとき料理のことはあまり覚えていない。というより、日本で食べたそれとあまり変わらなかったことが印象的だった。もちろん金額を除けばの話であるが。

その後は皆様もご存じの通り、この手のエスニック料理店は雨後のタケノコ宜しく増えていった。近年では私の家から近いタマプラーザにも大きな駐車場を有したタイ料理のチェーン店も出来て、どこでも簡単に手軽に食べられるようになった。

しかしである。当時感激したものにはお目に掛れていないのだ。ならばとタイ食材の専門店から香辛料を買い集め自分で作ることにした。トムヤムクムにはこぶみかんの葉、カー、レモングラス、ナンプラー、バイマックルー、青唐辛子、海老、シャンツァイが必要だ。試作すること5.6回を得てやっとまずまずのものが出来あがった。コツはあの軽いながらも深みの味を出すスープを作ることだ。私の場合は鶏もも肉をゆっくり沸騰させないようにして出汁をひいた。

先日友人に勧められて犬蔵にあるヤムヤムという店を訪れた。尻手黒川線に面した、本当に辺鄙な(ご主人ごめんなさい)ところにある。店はカウンターだけで店主と思しき男性と小柄なタイ人の女性が切り盛りしていた。カウンターにはシャンツァイや唐辛子のもっと欲しい方はどうぞと書かれた張り紙がしてある。これは期待度大である。

私はトムヤム麺を注文した。麺は米粉と普通の中華麺から選べる。米紛の麺にした。

シャンツァイと唐辛子を増量して運ばれてきたそのものは絶品である。20年間待ちに待った甲斐があったというものである。店主が薦めるように残ったスープに白いご飯を入れれば綺麗にその上手いスープを最後まで味わえる。2度美味しいとはこのことである。

妻はドライグリーンカレーを注文した。上にたっぷりと掛けられたシャンツァイと葱にレモンを掛けて食す。これは旨い!!暑い夏の食欲のない日にはもってこいだ。

誰です街道沿いに旨いものなしと言った人、ちゃんとあるじゃないですか!!・・・
 


2012年12月22日土曜日

PM7:00


PM 7:00

美佐子は深夜勤務のファミリーレストランのアルバイトを辞めていた。美佐子は週に4日浩一郎の事務所で図面整理や経理の仕事をしていた。残りの2日は若い専門学校の学生と一緒にCADの勉強をしている。飲み込みのはやい美佐子は浩一郎の教える操作方法を大部分はマスターしていたが、複雑な3Dの画像などまだ覚えることも多かった。美佐子はこのレストランに勤めるまで自分は接客に向いていないと思っていた。美佐子は事務の仕事をしていたときには、ほとんど人と話せなかったいや話さなかったからだ。自分が接客など出来るはずがないと思っていた。ところがそんな話を美佐子より5歳年上の先輩であるトシコに打ち明けると、トシコは意外なことを言った。「あなた向いていると思うは、言葉じゃ上手く表現できないけれど、なんていうか全身から人とコミュニケーションを取りたがっている感じがするのよ。なんていうかオーラみたいな、いやちょっと違うか、とにかくそんな気がするの」

無口で人と接するのが苦手で大人しかったことをトシコに話すと、彼女は「誰でも話はするのよ。ただ、その総量が決まっているの。おしゃべりだった人が急に無口になったり、その反対に無口な人が急におしゃべりになる場合もあるの。つまり話す総量は決まっているのよ」美佐子はなんとなく理解した。

屈託なく話す美佐子はアルバイト仲間でも人気者になり、お客からも印象が良かった。20代の大学生からラブレターめいたものをもらったこともあった。美佐子は徐々に明るさを取り戻していった。いや、生まれて初めて違う空気の中に居る自分が心地よかったのだ。

浩一郎と付き合うようになっても美佐子は時々そのレストランを訪れていた。子供の世話をしながら少し時間が出来れば立ち寄って、旧友たちと何気ない会話を楽しんでいた。美佐子の家は三軒茶屋と池尻のちょうど中間、国道246線の南側にある。この辺りは官舎が多く、公立学校も進学校として有名だ。

美佐子はそんな環境なので息子のことが少し気になった、幸い美佐子に似て本が好きだった。勉強は出来ない訳ではなかったが、心配な美佐子はそのことを浩一郎に相談すると、浩一郎の息子が今年大学一年生になったばかりなのだが、週一日ならなんとか都合が付けられるということであった。大学は幸いここから近く、彼の都合のつく時間なら勉強を見てくれるというのである。美佐子は申し訳ないと思いながらもお願いすることにした。

 

浩一郎の息子は細身で身長が190センチ近くある。電車に乗っていても頭一つ高いのですぐ目につく。容姿は浩一郎に似ていないが爪のかたちは浩一郎そっくりだった。息子のことを浩一郎は周りからトンビが鷹を生んだと言われた。浩一郎も勉強は出来たが息子のそれは比べ物にならなかった。小学生の時に偶然受けた全国模擬試験で一番をとった。それ以来塾では特待生となり浩一郎は授業料を払ったことがなかった。一位になるたびに商品としてもらう蛍光マーカーのセットは浩一郎の事務所にも10セット近くたまっていた。高校になってもその成績は変わらず、塾も行かないまま東京大学の理科Ⅲ類にストレートで合格した。

美佐子の家は鉄筋コンクリートの3階建ての2階部分で、建物はすでに20年以上が経過し外壁のペンキははがれ躯体がむき出しになっているところも目立つ古い建物だった。建物の名称に使われているドイツ風の名前は全くこの建物に似つかわしくなかった。2DKの室内は6畳の和室と6畳の洋室、それに8畳の台所とダイニング、そして風呂とトイレという古風な間取りだった。床はフローリングでなく、リノリウムという合成樹脂のような安っぽいものが敷き詰められていた。子供のいる美佐子にとっては足音の響かないこの方が都合良かった。建物は通称ドラゴン通りから少し入ったところにあった。80年代にファッション雑誌がやたら通りに名前をつけたがった。この通りもご多分にもれずくに龍雲時というお寺があるためにネーミングされたようだ。

美佐子は外で遊んできた息子を先に風呂に入れ夕食の準備に取り掛かった。今日は浩一郎の息子が勉強を教えに来てくれる日だ。いつもの献立なら、ご飯に味噌汁に漬物それにハンバーグと野菜でおしまいだが、今日はそれにポテトサラダと目玉焼きを付けた。美佐子のせめてもの気持ちだった。