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2012年4月3日火曜日

失敗の本質 坂の上の雲論



80年代後半に出版されたこの本は多くの人に読まれた。史実研究というよりそのまま経営術に応用できるような内容が多かったからだと思う。

そして2012年にこんな本が中央公論の別冊で発刊された。もちろん前述の「失敗の本質」を現代風に再考し肉付けしたものである。

NHKの「坂の上の雲」を見た人はどんな感想を思ったのだろう。当時の日本人の上昇志向を心地よいと感じたのであろうか、それとも視聴率が示すように現代の凋落する日本とのミスマッチに関心を失ったのであろうか・・・

以前、司馬遼太郎氏(私も旅行鞄に忍ばせ持っていく愛読書でもある)の本がほとんど海外では翻訳されていないと聞いたことがある。

村上春樹氏はどうであろう。

私はこの二人を対比すると、明治の日本人が持っていた特殊な志向ともいうべき精神性がそのまま日本的奇異なものとして現代にも残滓しているような気がするのだ。

村上氏は優れた感性からビッグブラザーからリトルピープルへの変化を読み取っていた。全世界に共通するテーマだ。

一方、司馬氏の顕す世界はとても「日本的」特殊な世界観である。

考えてみれば旅順攻略から日本海大海戦に至る精神至上主義はそのまま太平洋戦争に受け継がれ敗戦を迎えた。

そしてその記憶も新しいうちに私たちはその記憶さえ忘れ同じ道を歩んでいる。

原発事故の対応に関する非科学主義の蔓延、組織として決められない政治体質、危機管理能力のない組織、どれをとっても何一つ変わっていない。

だから私はこの国の将来を憂うのだ。若い人の能力や感性は素晴らしい。しかし、組織やこの国の体制が成長の芽を腐らせる。

池田信夫氏が良い言葉を使っていた。「君側の奸」である。政治も官僚もこの輩が跋扈し、蔓延しているのだ。それも自身がそうであることを知らずに・・・・

就活の若者へ 適職とは

少なからず私は今就活している若者より歳をとっている。だから経験上多少のアドヴァイスは出来る。

私たちの時でも「こんなはずしゃない症候群」に罹患した人間がいて、人生をドロップアウトしていった。

もちろん経済的価値や家庭の安定が全てではないと思うが、自分を過大評価することは自らの将来を食い物にする。

そんな私より内田先生のブログに全くその通りと思う記事が載っていたのでそのまま掲載する。

就活を目指す人是非ご一読あれ。私はそう思うことで切り開きましたから・・・・・

ちなみに内田先生はブログというのは開かれたものだからと言っているのでそのままお借りしました。

もっと読んでみたい人は先生のブログに

http://blog.tatsuru.com/

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「適職」は幻想である「君、頼むよ」と言われ仕事は始まっていく


自分の適性に合った仕事に就くべきだと当たり前のように言われていますが、適職などというものがほんとうにあるのでしょうか。


僕は懐疑的です。


それは就職情報企業が作り出した概念ではないかとさえ僕は思っています。


「キャリア教育」の名のもとに、大学2年生から就活指導が始まり、その最初に適性検査を受けさせられます。これがいったい何の役に立つのか、僕にはまったくわかりません。


大学で教えている頃に、ゼミの学生が適性検査の結果が出たのだが、と困惑してやってきたことがありました。


「あなたの適職は1位キャビンアテンダント、2位犬のトリマーと出たんですけど、私は一体何になればいいのでしょう」と。


就職情報産業は学生たちを、自分には「これしかない」という唯一無二の適職があるのだが、情報が足りないせいで、それに出会えずにいるという不安のうちに置きます。それに乗じられる学生たちが僕は気の毒でなりません。


仕事というのは自分で選ぶものではなく、仕事の方から呼ばれるものだと僕は考えています。


「天職」のことを英語では「コーリング(calling)」とか「ヴォケーション(vocation)」と言います。どちらも原義は「呼ばれること」です。僕たちは、自分にどんな適性や潜在能力があるかを知らない。でも、「この仕事をやってください」と頼まれることがある。あなたが頼まれた仕事があなたを呼んでいる仕事なのだ、そういうふうに考えるように学生には教えてきました。


仕事の能力については自己評価よりも外部評価の方がだいたい正確です。頼まれたということは外部から「できる」と判断されたということであり、その判断の方が自己評価よりも当てになる。


キャリアのドアにはドアノブがついていない」というのが僕の持論です。キャリアのドアは自分で開けるものではありません。向こうから開くのを待つものです。そして、ドアが開いたら、ためらわずそこの踏み込む。


消費者マインドを就職に持ち込まない




労働市場における「適職」という語の意味は、意地悪く言えば、「自分が持っている能力や素質に対していちばん高い値段をつけてくれる職業」のことです。とりあえず今はそういう意味で使われている。最も少ない努力で、最も高い報酬を得られる職種を求めるのは、消費者にとっては自明のことです。いちばん安い代価でいちばん質のよい商品を手に入れるのが賢い消費者ですから。


その消費者マインドが求職活動にも侵入している。


でも、「費用対効果のよい仕事がいちばんいい仕事だ」というロジックを推し進めれば、ディスプレイの前でキーボードを叩くだけで何億円も稼ぐような仕事がいちばん「賢い」仕事だということになります。
でも、「仕事をする」というのは「手持ちの貨幣で商品を買う」ことではありません。


それはむしろ、自分がいったい何を持っているのかを発見するプロセスなのです。


(つづく)





facebookとblog

両方ともやってみて、この二つは若干差があると思います。始める前に友人のO氏がフェイスブックはブログとツィッターの間くらいかなと言っていたのを思い出します。

ツィッターがその時のつぶやきで消えていくのに対して、フェイスブックはもう少し長い時間情報は留まります。しかし、多くの友達が増えればその帯=バンドは次第に薄れていき、情報の海に埋没します。

ブログはさらにこれよりも存在時間が長く、フェイスブックより情報の交換が少ないだけに過去から未来まで自分が書いてきたものが残ります。

自慢じゃありませんが友達の少ない私がフェイスブックしてどうなるんだろうと思いましたが、使い方を間違えなければこれはこれで日々の日記として使えます。

フェイスブックで情報の公開に不安がある人は非公開にすれば出来ますし、匿名性でないことが間違った情報や誹謗中傷という悪い情報を排斥し浄化するのでしょう。

私は日々の出会い(物、事、人)はフェイスブックに書き込み、もう少し考えて自分の頭に貯めて整理した情報をブログに書くようにしています。

ですから是非フェイスブックの方も覗いてみてください。

今日も犬ともから戴いたレオンベルガーのボトルと青い玉子の事はフェイスブックに載せました。

フェイスブックやグーグルが進めている個人化については一定のリテラシーと最後の一歩を持ちながら俯瞰する必要はあります。