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2012年8月31日金曜日

夢の話

数年前まで見た夢を記録していた事があった。私の夢は白黒だったり、カラーだったり、音があったりなかったり、冷たかったり暖かかったり、その夢によって違う。

中には明らかに昨晩のこんな言動や体験がそえさせたものだろうと思えるものがあるが、多くは潜在意識の奥に澱のように淀んでいる記憶の断片の事が多い。

今朝方、30年近く前に亡くなった父親の夢を見た。私が電車を降りるとカーキ色のトレンチコートをきつくベルトで結んで、帽子を被った父親の姿が見えた。

私は父親と分かりながらも、先を急ぎ見て見ぬふりをする。しばらく進むと、こんな機会はもう訪れないのではという焦燥感にかられ、引き返す。

そこには父親に会えて感激して両手を握る叔父(父の兄)の姿があった。

死んでしまった父親の手は冷たいのだろうと思って、腕に触れると暖かい。その時夢は終わった。

考えてみるとここ1.2か月は娘の結婚が目の前に迫って、親と子の関わりや、やがて消えゆく運命の私達や、新しい命との関わりなど今まで考えもしなかった感情が生じていた。

娘や息子の年齢には考えもしなかったような老境を迎える親の感情である。

妻も私も寂しいからの感傷と言う訳ではない。友人は新しい家族が増えるのだから嬉しい事ではないかと私に言う。確かにそうなのだ。世の中の常なる流れであり、何一つおかしなことはない。

ただ、割り切れぬ感情なのである。

別の友人は娘の父親は永遠に孤独であると言う。なるほど言い得て妙である。

考えてみれば子供を授かり育て上げる喜びは何物にも代えがたい。ただし、それはいっとき神が(無宗教なので一般的例えとして)私達に与えてくれた至上の喜びなのかもしれない。

そして喜びを与えると言う事は、永遠の孤独をその裏側に隠しているのだ。

数年前アボリジニの画家の絵を見た。彼女の死の数時間前に描いたと言う絵はまさに混沌に向かう一瞬の映像のように感じられた。

CMに人生の意味など考えても仕方ないというのがある。そうかもしれない。人生の最後が混沌に向かう一瞬の曳航だとすれば、その一瞬に走馬灯のように記憶の断片に残照される映像そのものが人生なのだから。

今日で8月も終わりです。夏の終わりの海は季節の中で一番寂しいと思います。