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2012年9月13日木曜日

知らないという大罪

民主党の代表選挙をみていてこの国の政治のポプュリズムが如何にくだらないか、そして喫緊の課題を与えられた国防安全政策について無策の政治の戯言が末恐ろしくさえある。

むろん自民党が良いと言う訳ではない。長老(老害)達に担ぎあげられた、元党幹部のI氏などにこの国を任せれば、口先は体の好い詭弁で煙に巻かれ、その実は派閥の整合に他ならぬは明白。

こうした感情を少しでも抱いた国民が向かう先は関西から国を変えると息巻いているH氏に向かうのか。H氏には共感できる点が多い。しかし、H氏に取り巻く人達はとても同じ使命や政治信条を共有、共感し手を携えて政治生命を賭してやっていこうというとは考えられぬ。

政治家ばかりに責任は押し付けられぬ。昨日、家に帰るとK流ドラマがテレビから流れていた。我が家の男性はK流どころかテレビはあまり見ない。実は80才に近い私の母が何とはなしに観ていたのだ。

私の不機嫌な顔を見るとテレビのスイッチを消したが、つまりはこうした先達が戦後作り上げてきた民主主義の自由と平等こそが、今日の日本の斜陽を招いているのだ。

そうした人達は自らの知識や認識のなさを「知らない」で済ます。実はこの「知らない」は戦後日本の民主主義が植え付けてきた最悪の毒薬なのだ。

大衆迎合を柱とする多数決、標準化を根底に置く学校教育のそれは例え貴重な意見であっても、集団と異なるものは排除される。いじめの温床も実はここにある。そうした中では皆が「知らない」事は「知らない」で済むのだ。逆に知る事は皆と違う意見ということになる。我々は知らず知らずのうちにこの「知る」ということを意識の外に置くようになる。国民のバラエティ化とはその結果。

数年前にある人に言われて日米安保について考えてみた。実は概略は教科書程度知っていたが、当時はいくつかのその疑問も何となく「知らない」で済む方向に消し去っていたからだ。

色々な本を読んでみて、如何にこの日米安保が単純な「賛成」「反対」で俊査されるものでもなく、もっと深く考えなければならないと知った。日米安保と言う枠組みを考えることと、内政の日米安保は全くの別物である。

国にとって安全保障とはまさに最優先される課題である。普通の国は自国の国民を自国が守ると憲法に書いてある。日本はそれを放棄したのである。

さらにここ数年丸山眞男に関する著述を読みかえしている。私が大学に進んだ頃には彼の事は広く人口に膾炙しているとは言い難い状況であったからだ。

日本人の精神構造について、丸山はまさに今考えなければならない、鋭い洞察を行っている。

彼の「古層」という概念と並び、日本人の日本人的精神構造について理解すると、今の窮状がそうした日本人古来のものと、戦後レジームの中で構築されたシステムとの融合により、焼成されたことが分かるのだ。

もちろんだからといって無理やり愛国心に火をつけようとなど思っていない。彼もいうように愛国心とは流感のようなもので、熱を出し、うつるのである。だから、自制する事が肝要である。

H氏が言うように首相公選制ならびに一院制というのは、いくつかの課題を解決できる可能性がある。しかし、その一方でポピュリズムが蔓延したこの国の国民が学び、理解し、適正な判断が出来るか甚だ心配である。そう、まるで放射能の事が分からぬ者が原発と原爆の区別もなきまま、賛成や反対を論じる(論じるならまだしも一方的舌戦)ようなものである。

もっとも丸山はこの事を「キヨキココロ」として我が国の国民の嗜好性と位置付けているが・・・