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2012年12月14日金曜日

村上春樹にご用心 Ⅲ


村上春樹にご用心 Ⅲ


以前にも村上春樹氏が本の中でも明示していたように、作家は様々な経験を粉々に粉砕し、そして再構築する作業だと言っていたが、私の様に小心者は氏の作品を読むたびに、心の中に小さな皺が折り重なりそれが助長される。

「国境の南、太陽の西」の読後感の苦々しさは、単に青春の後悔では済まされない、人間の性を感ぜずにはいられなかった。人間とはなんと我儘で理不尽な生き物なのか、小枝を這うシャクトリ虫の方がさぞ生きている価値があるとしか思えない、心の中の闇。

その経験を通してしか優しくなれない、人間の愚かさは私を打ちのめす。

「回転木馬のデット・ヒート」の中で画廊の女主人はいう。

「自分自身の体験によってしか学びとることのできない貴重な教訓。それはこういうことです。人は何かを消し去ることは出来ない。消え去ることを待つしかないということです。」

人生と言う長い時間の中で灼熱焦炎の地獄の苦しみは現存し、私達を苦しめる。何故なら、決して私達によって解決されない命題だから。
 
今日もまた私はまたひとつ解決不能の命題を作りに二つの月の出る街に彷徨う。
 

蕎麦 宮本 島田 凜 渋谷


蕎麦 宮本 島田 凛 渋谷

私は、蕎麦はどちらかというと苦手である。アレルギーとかそういう身体上の理由ではないがメニューにあってもうどんの方を頼む。江戸前の握り寿司と似ている。つまり圧倒的外れを引いた時の落胆より無難な方を選んでしまう気の小さな男なのだ。

蕎麦を初めて美味しいと思ったのは東京ではなかった。会社の先輩に連れて行ってもらった大垣の蕎麦屋だった。出汁の味は忘れたが、蕎麦寿司の断面に無数に見えるグルテンの粒が印象的だった。もちろん蕎麦はコシがあって、今まで食べた蕎麦とは比べ物にならなかった。

東京でも人に連れられて色々な蕎麦屋をはしごした。更科系を教えてもらったのは私の自動車の師匠であった。

藪そばは別の人に教わった。系譜をたどっても日本で最古の歴史を持つ。神田藪に始まって、上野並木、池の端、まつや、系譜は枝葉に伸びている。

ニューエイジと呼ばれる蕎麦屋にも足を運んだ。竹やぶもそのひとつ。この手は美味しいところとそうでない名ばかりの店に分かれる。

蕎麦は通人の好みに分かれる。出汁にしても甘いものが好きな人もいれば、辛くなくては駄目と言う人もいる。蕎麦にしても更科のようにうっすらとした京美人のようなものが好きな人もいれば、寒い冬で培われた秋田美人のような蕎麦を好む人など千差万別である。

だから、必ず「私の場合には」という前置詞を付けることにしている。

私は辛口の出汁を好む。もちろん香り、こくが無ければ意味はない。蕎麦に関して言えばその蕎麦の実のもつ全てを食したいと思う。真ん中の部分だけでなく、外側の部分もそれはそれで風味が違うからだ。

近年、蕎麦ブームに乗って蕎麦会席なるお品代一万円近くする店や、店内は薄暗く、少し前のモダンな居酒屋を思わせる店内の蕎麦居酒屋なる店も増え始めたが、どの店も及第点は取れないのでこの手の店は敬遠することに決めている。

初めて宮本を訪れたのは、梅雨時の大雨の日だった。朝霧高原のゴルフ場についた時には。雨は降り止むどころか益々勢いを増していた。同乗した友人と急遽ゴルフはキャンセルし、宮本に向かった。もっと近いと勘違いしていた私は豪雨の東名高速を走り続けやっと宮本についた。ご存知のように宮本の店主は池の端の藪で修業を積んだそうである。店内に飾られている江戸時代であろう蕎麦屋の絵は神田藪そのものだった。

運ばれてきた蕎麦はつややかに光りながら力強さを秘めていた。出汁は香り、奥深さともこの蕎麦と最高に合っている。喉に入れてさらにその香りは鼻腔から脳の芯まで届いてくる。これはもはや芸術品だ。それ以来2回訪れた。いずれも最初食べた時と変わらぬ旨さだった。おいそれと行けないだけに無性に食べたくなる。

会社のスタッフの友人が渋谷で店を開いたという。先日、一緒にランチに出掛けた。もと日本料理の板前をしていた店主は自己流で蕎麦を習ったと聞く。出汁は香りこそ宮本に負けるが、きりりとして辛口でうまい。さらに蕎麦は蕎麦の香りを十分引き出して輝いている。これは旨い。私は鴨汁そばを注文したのだが、蕎麦湯を飲む際に出汁を別に足してくれたらさらに良かったかもしれない。まだまだ発展途上かもしれないが期待度大のお店である。宮本に中々行けない私達には幸運な店かもしれない。ただし、双子のオカマのあの人達も常連と聞くのでその節にはご用心!!!しかしながら是非、お試しあれ。
 
 
 
 
渋谷 凜の蕎麦
 
 
宮本 全景