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2012年12月26日水曜日

シュークリーム 青葉台メイプル



シュークリーム 青葉台 メイプル

私は甘いものが苦手である。自分から好んで買い求めることはしないが、シュークリームだけは違う。

私が育ったK市にはNという洋菓子店があった。今はもう跡かたもなくなってしまった。
私がおぼろげに覚えているのは、父親が時折そこのケーキ帰ってくる姿だ。お土産で買ってくるその白い箱は幼い私には宝箱に思えた。私の父は一切お酒が飲めなかった。そして無類の甘党だった。その箱の中身はシュークリームとアップルパイと相場は決まっていた。父の大好物だからだ。

子供心にいつももっと食べたいと思っていた私はある年のお正月を明けた寒い北風の吹く日曜日にお年玉を握りしめてその洋菓子店に自転車で向かった。

店に着くなり荒い息を整える間もなく、「シュークリーム20個下さい」と紅潮した顔で店員に伝えた。そして白い箱を片手で持って踵を返すが如く家に戻り、誰にもひとつのシュークリームも渡さず20個のシュークリームをすべて食べたのだ。最初の10個までは味わって食べたが、残り7.8個を過ぎる辺りから、その甘さと匂いで気分が悪くなった。そして翌日ひどい腹痛に悩まされた。

普通ならこんな経験の後はシュークリームを見るのも嫌になるかもしれないが、私の場合は違っていた。シュークリームが好きという気持ちは変わらず、その気持ちは登記されたままであった。

横浜に引っ越してから青葉台にメイプルという洋菓子店があることを知った。そしてシュークリームが名物であることも。
横浜に来てから私達と最初に暮らしたジーニーというゴールデンレトリバーはことさらここのシュークリームが好きだった。いつも人数分プラス彼女の分を買って帰った。この頃と比べると大きさが幾分小さくなった気がするが味は変わらない。昔のままである。娘が嫁に行って人数がひとり減ったが、プラスセブとさくらの分を買うので以前よりひとつシュークリームが多くなった。
 
 



 

1981年のゴーストライダー capter2 Ⅳ



 麗子はここから歩いて5分程の別荘に母と一緒に来ていた。麗子は夏の混雑する時期より今の様な初冬の軽井沢が好きで毎年この季節に暫く逗留していた。
 
 麗子の別荘は祖父が建てたもので、建物は木立に囲まれるように道路からは離れて配置され、隣の雲場池を見渡すことが出来た。麗子の祖父は和歌山出身の人で、材木業で一財をなし、晩年には国会議員も務めた地元では知らない人のいない有名な実業家だった。

 洋一と麗子はしゃがみこんで一緒に落としたコンタクトレンズを探していた。麗子が立ち上がろうとしたとき、後ろにいた洋一を押してしまい、そのはずみで洋一は床につんのめる形で四つん這いになってしまった。それを見た麗子はケラケラ笑いだした。洋一は最初ムッときたが、あまりに屈託なく、大笑いする麗子を見て可笑しくなって自分も笑ってしまった。
 結局、コンタクトレンズは米松の床の隙間に見つかったが、レンズは欠けていて使い物にならなかった。麗子は探してくれたお礼を洋一に伝え、片目の状態のまま店主が入れなおしてくれたコーヒーを飲みながら洋一と話をした。
 
 洋一は麗子に仕事で軽井沢に来ていること、壊れそうな古い車で来ていること、明日は休みである事、そんなことを話した。麗子は笑いながら洋一の話を聞いていた。麗子は明日、父に付き合ってゴルフに行くことを洋一に伝えた。
 
 洋一はゴルフをしないが、ゴルフマニアの優子の父より軽井沢にあるゴルフ場が、日本でも有数の名門コースで、首相であっても紳士たるマナーに違反すれば退場させられることや、先先代の理事長が白州次郎であることなどその手の情報を耳にタコが出来るほど聞かされていたので、麗子の行くゴルフ場がどこなのか興味を持った。
 案の定、麗子が父と一緒に行くゴルフ場はその「軽井沢ゴルフ倶楽部」だった。行くといっても麗子もゴルフはしない。
 今まで気付かなかったのだが、麗子は左脚が悪いようだ。麗子は生まれた時に高熱が出て、脚に麻痺が残ってしまったとあっけらかんとまったく気にする風でなく洋一に説明した。麗子は足が悪い上に今日は片目である。
 洋一はもし良かったらと麗子を別荘まで送ることにした。麗子が持っていた木綿のトートバックには2冊の本と色鉛筆そして小さなスケッチブックが入っていた。洋一は麗子のバックを左肩にかけずしりとしたそのバッグの重みを両足で感じていた。カウベルの音とともに戸外に出た二人はゆっくりと初冬の日差しが木立の間から斜めに差し込む小径を歩き始めた。