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2013年1月31日木曜日

水随方円器、人随善悪友


水随方円器、人随善悪友

私自身は海外生活もなく、妻に言わせればドメスティックオンリーな我が家ですが、幸いにも私の周りには海外で華々しく働いてこられた方や今も若い人に負けずにバリバリに頑張っている友人も多く、いつも色々な面でインスパアされています。
そんな環境もあり、息子にはどんどん海外に行って色々な人と交わって欲しいと思っています。というのは息子の周りにも大変優秀でも海外での研修や研究は意味がないと折角の渡航を止めてしまう若者も多いと聞くからです。本当にそれは意味がないのでしょうか。
私の様なロートルになると全ての事象,事柄は人との出会いで始まると思っています。私の恩師が言う人の「縁」というものです。

私の仕事は色々な人の生活を垣間見ることになります。その中でいつも思うのは全ての物事が成るようにして成っているということです。
魚が住む水を選ぶように、人にはそれぞれの環境があります。そしてその環境を変えない限り、その人の成長も止まってしまうということです。
もっとも悪い環境に変われば人も悪くなる訳ですから、綺麗な水の上流を目指さねばなりません。

昨年、山代温泉のある旅館に行ってきました。そこには金沢21世紀美術館に展示してあった、方丈というオブジェが展示してありました。
ご存知のように方円器とは漢詩の「水随方円器、人随善悪友」から来ているものです。
水は器によって丸くも四角にもなるように、人間も友によって善人にも悪人にもなるという例えです。そのオブジェを見て、人の人生はその流れる水そのものだと思ったものです。それほど如何様にも変化することが出来るものなのです。
今息子はロサンゼルスに行っています。日本とは全く違う環境で、いつもの人とは違う人達と研究をしています。私にとっては研究の実成果よりこうして海を渡って、見知らぬ土地で生活し人と出会うことが彼のこれから成らせる大きな果実の養分になればと思っているのです。

そして水到渠成の言葉通りです。



ささやかな楽しみ



この季節になるとささやかな楽しみが増える。もっとも花粉症という難苦を替わりに背負うはめになるのだがそれでもマスクをして戸外に出て、小鳥のえさ箱にそっとみかんやパンの屑を置いてくる。
テレビでも紹介されていたが私と同じように小鳥が来るのを楽しみにしている人も多いようだ。
今の時期はメジロ、ヒヨドリ、シジュウカラだ。シシュウカラはかんきつ類より稗や粟を好む。みかんはメジロとヒヨドリの人気メニューで取り合いになる。取り合いと言っても大きさの違う2羽だからヒヨドリが居ない隙にメジロが食べるので、ヒヨドリの死角になるところにもみかんを置く。メジロは必ず2羽で現れる。低い茂みに身を隠し、そっとえさ場に近づいてくる。そこにいくとヒヨドリはえさ場から離れた止まり木でこちらのようすを窺っている。ヒヨドリも一羽ずつ性格が違うようだ。メジロがいても我関せずと食べ続ける鳥もいれば、一目散にメジロを追い払ってから食べるものもいる。そんなやつが別のヒヨドリから追い払われたりすると、これはまた面白い寸劇を見ているようでもある。
野鳥だから警戒心も強く、普通は人影が近づけば逃げるのだが、ある年の鳥は違った。そう2年前の震災の直後だった。私が戸外に出ても逃げないのだ。手から餌を取ることはしないが、宙に放り投げるとそれを直接キャッチして食べたのだ。それ以来、その年はずっと空中キャッチの連続だった。あれは震災で元気をなくした人間への哀悼だったのかもしれない。
私は幼い頃文鳥を飼っていた。最初の一羽はふつうの色をした文鳥だったが、2羽目は真っ白な文鳥だった。ピーコと名付けた。ごくありふれた名前のその鳥は頭が良かった。人の声を聴き分けられた。私と母が同時に呼ぶと必ず私のところにきた。私は誇らしかった記憶がある。文鳥は繁縷が好きだった。幸い畑でなく河原のそれは農薬の心配もなく、それでも綺麗に洗って文鳥に与えていた。手の中で眠るその鳥は暖かく、幼い子供の友達だった。母が余計な事をした。毛づくろいをする鳥を何か虫が付いて痒がっているのだろうとDDTをかけた翌日冷たくなっていた。
あれから四半世紀今でも動物が好きだ。でも籠の鳥はもう飼わない。可哀想だから。こうして自由にきままに遊びに来る鳥たちと楽しんでいる。





2013年1月30日水曜日

カレー 芭蕉 桐生

カレー 芭蕉 桐生

これは旨かったとか、素材うんぬんという手合いの話でないことをまずお伝えする。何故ならこの店は私の遠い記憶の産物だからだ。それでも昔と変わらず現存しているという。

2年前にテレビで取材されていたところを私は偶然目にした。土壁の中に棟方志功氏の直筆の絵が発見されたと言うニュースだった。そもそもこの店にはよく父親に連れて行かれた。私はその近くに合った中華店か市内に唯一あったデパートの大食堂に行きたかったが、父親がここにすると一人で決めていたから従うしかなかった。父親とここの店主が懇意だったようである。父親はその当時作陶に没頭していた頃である。当時の父は益子焼きに代表されるような人の手のぬくもりのあるような所謂民芸に代表されるような作品を作っていた。今でもこの店の食器はそういった風合いのものを使っている。おそらこの時も数点買い上げて戴いたのではないか。

この店は土蔵を改装して店にしてある。蔦のからまる外観は相変わらずだ。店内は薄暗く店主の好きな物が至る所に置かれていた。子供心にお化け屋敷だと思っていた。父が注文するのが決まってそこのカレーである。私もそのカレーを食べるわけだが、はっきりいって5歳にも満たない子供にはここのカレーはスパイシー過ぎた。家で作るカレーとは全くの別物だった。今の辛い物好きはこの時から始まったのかもしれない。

父も当時NHKの取材を受けていた。その音声はダフネ版として残っている。その中でバーナードリーチ先生から薫陶を受けたと言っていた。私は幼い頃、親の職業欄に窯業と書かれるのが恥ずかしくてたまらなかった。みんなのように会社員ならどれほどほっとしていられたか、それに窯業を説明するのがとても難しかったから尚更だった。

今の私も家守という訳のわからない職業である。歳を取ると似るのかそれとも刻み込まれたDNAにその残滓があるのか定かではないが。
 
 


映画と私



私が物心ついて初めて父親に連れて行かれた映画はマカロニウェスタンの代表作「夕陽のガンマン」である。同年齢の子供が親に連れられて観ていた東映映画祭りとは大違いであった。
父はウェスタンが好きだった。誰か特定の俳優が好きと言うのではなく、馬に跨り拳銃を持って荒野を颯爽と走る姿を観るのが好きだった。恐らく過去の自分とだぶらせていたのかもしれない。
父は遅くして母と結婚した。2度目だった。母と結婚した頃の父は一人で焼き物の釉薬の研究しながら器や置物をつくる物静かな男だった。だが彼の輝かしい歴史はそこには無かった。朽木寒三氏の馬族戦記という小説がある。父は朽木氏に依頼され、戦前から戦中に至る中国北東部の様子を詳しく話していたらしい。私も成人してその本を読んだが、当時の日本人は中国のこんな奥地でかなり際どい行動をしていたと唖然となったものだった。
その時の父はポケットから半券を見つけられた母にどうして子供にこの映画を見せたのか暫く詰問されていた。今なら年齢制限ということで入ることは出来ないが、当時はそんなことは関係なかった。それからも父は数回その手の映画に私を連れて行った。ただし、帰ったらこの子供用の映画を観てきたと父と口裏を合わせなければならなかった。それでもこっちの方がずっと楽しかった。それ以来漫画をあまり観ない子に育った。
大学の時にヌーベルバーグに興味を持った。すでに時代遅れのそれだったが妙な新鮮さとカッコよさを感じた。トリュフォーやゴダールが名画座にかかると必ず観に行った。当時はまだ都内にそんな小さな名画座があって、安い料金で楽しむことが出来た。当時のそうした情報はまだピアではなく、新聞の片隅にちょこっと掲載されている場合が多かったが、茫洋とした記憶で劇場に足を運ぶとすでに上演は終了し、妖艶な女性が手書きで書かれたポスターのピンク映画になっていた事もあった。
フランス映画ばかり観ていた訳ではない。当時隆盛を極めていたハリウッド映画も見た。本数は少ないが、何しろ時間は膨大にある。問題は財布の中身だった。だからどの映画に行くのか迷いに迷った。それが駄作だった時には偉く腹を立てたものだった。
最近、初めて3D映画を観た。この手の映画には全く興味はなかったのだが、その劇場しか空いてなかった。あれはどうも宜しくない。まるで子供の頃に流行った立体絵本みたいで、平面な人間が絵の前面に立っているようで少しも感動しない。
それと感動した映画だったのに2度目を観るとそうでもない事がある。恵比寿にガーデンシネマがあった頃には良く通っていた。確かそこで上映されたのを観たのが「モーターサイクルズダイアリー」だった。チェ・ゲバラがアルゼンチン人と知ったのもこの映画だった。その映画が深夜テレビで放送されていた。よく観てみると感動したはずの美しい映像はかなり意図的に構図されている。いや、構図されるのが映画かもしれないが、その意図が丸見えなのだ。そうなると何となく説教めいて嫌になる。さらに労働者対資本家という善と悪の2項対立の構図もつまらない。あの川幅を喘息の男が泳いで渡るシーンなどあり得ないし、過度に最後を盛り上げようとする力の入りすぎた感じがした。何故、この映画が不快になったのか。それはこの映画が俗に言うロードムービーだからだ。旅と言う行為において人間の本質的な変化や成長を視覚的に映像化する映画ほど2回目の鑑賞に堪えがたいものはないのではないか。つまり変化する時間の中ですでにその記録は同一なのに観る方の主体は変化している。4年前に観た私と今の私とすでに相当な変化が生じているのだろう。それともう一つこの映画はドキュメンタリーではない。史実に基づき作成されたかもしれないがそれは映画である。小説が全てのものが私小説であっても現実でないように、それは虚構なのだ。
前の会社が渋谷に映画館をつくった。その時に来賓でお招きした淀長さんとほんの少しお話をする機会があった。どんな映画を観たらよいか尋ねた私に「何でもいいのよ。好きな物適当に観れば」と言われた事が今よみがえる。適当とは観る側にとって大切な要素なのだ。
つい先日観てなかった「クレアモントホテル」という映画を観た。これは良かった。残念ながらDVDだったが、小さな劇場で観たらさらに良かったのではないかと思う。
これからも適当に色々な映画を観て楽しむことにする。


自分史としての写真

若いお父様、お母様方に申し上げる。子供が小さな頃に一生懸命に写真やビデオを撮っている方も多いと思われますが、間違っても子供のためになんて思ってはなりませぬぞ。

これらは皆様の自己満足のためのものであって子供は欲しがりませんし、子供達はそれぞれの自分史を作る訳ですから無用の産物と思って下さい。

私はそうした自分史としての写真を今整理しています。きっかけはアナログからデジタルへの変換です。アナログのデータは取ってありますが殆ど見ることなどありませんから。

私が死んだ時に子供達が処分に困らないようにする意味もあります。(笑)

そこでネガポジを整理し始めたのです。もちろんデジタル化するためです。

一人目の方が写真が多いと一般的には言われますが、我が家の場合そうでもないのです。

二人目の方が多いかと言うのではなく、ある時期の写真が極端に少ないのです。

丁度私達が横浜に引っ越す前後の時期です。考えてみるとあの当時はとにかく子育てに仕事に格闘していたのです。写真を撮るようなイベントも余裕も無かったのかもしれません。

その後、横浜に移ってからは海外旅行の写真や愛犬との散歩の写真など多くが見られるようになりますが、この時期は本当に極端に少ないのです。

私達親は過渡期の一時期として今は見られますが、子供(特に上の子供)にとっては大切な時期

にあまり手を掛けてあげられなかったのですから当時はどんな思いだったのか胸が痛くなります。

たまには過去を振り返り、自分の歩いてきた道を振り返ると決して平坦ではなかった事に気づくとともに、よくまあ今があるなと感慨深くもあります。

娘は今春より新しいページを開く予定です。二人が三人に、三人が四人に家族と言う人生のある一時期を一緒に過ごす大切な共同体のリーダーとしてやっていかねばならないのですから・・・

2013年1月29日火曜日

ひな鳥 とよ田 自由が丘


ひな鳥 とよ田 自由が丘

岐阜でカシワ(親鶏)の旨さに開眼したとは言ったが、ひな鶏が不味いわけではない。関東ではもっともこちらを好むようである。確かに親鳥特有の鶏臭さはない。身は白く柔らかい。
私が自由が丘のひな鶏専門店、とよ田を訪ねたのは20年近く前になる。地元に住む知人に誘われて訪問した。
当時私は三田に住んでいた。三田と言っても慶応大学のある港区の三田ではなく、目黒のさんまで御馴染の茶屋のあった場所の近くだった。もっとも三田の地名は縁があるようで、慶応の横にある春日神社の分祀もあった。当時私は飲食店の雇われマスターもしていたので色々な店を食べ歩いた。東にカレーの美味しい店があれば出向き、西に焼き肉の美味しい店があれば足を運ぶ、まさに東奔西走の毎日だった。そんなことをしているのだから当然体重は増加し、足元もおぼつかず、まずいことになった。
そんな理由から自由が丘にあるスポーツクラブに通うことにした。私は柔道で発症した腰痛もあって筋肉トレーニングはご法度だった。だからもっぱら取り組むのは水泳だった。当時は1日1キロ近く泳いでいた。あのスポーツクラブには有名人も多かった。
NHKの大河ドラマの秀吉の主演が決まったTN氏や、女優のMH氏も良く来ていた。
そんな有名人を傍目に黙々と泳ぐ。1年近くは続いたと思うが、最後は決まって中耳炎になり、ドクターストップとなる。どうも私の耳は中耳炎になりやすいらしい。これは今も変わらない。
とよ田では鶏の部位に分けて供される。手羽、もも、ネック、手羽元、どれもその揚げ方が極上である。私は鳥だけにとりわけ??砂肝が好きである。いくつでも食べられてしまう。外側はカリッとしていて、火は通っているものの中はジューシーである。これがビールと合わないわけがない。鶏肉とビールを交互に口に運べばもう天国の心地よさだ。
それから何回通ったことか。横浜に来てからはその回数はぐっと減ったが、暫くぶりにここの鶏を食べたくなった。手羽先は名古屋が有名と聞いて数店有名どころで食した事があるが、はっきりいってこことよ田の方が数段旨い。もし東京で旨い唐揚げが食べたいなら迷わずここをお薦めする。そうそう、締めで頼む鶏スープも鶏の滋味が出ていてくせになる美味しさだ。





とんび岩


太一ことターボーの家と良平の家は直線距離にして500メートルしか離れていなかった。二人は学校から帰るとランドセルを放り投げるようにしていつも真っ暗になるまで遊んでいた。そんな二人のクラスに鈴木勝男が転校してきたのは小学校5年のときだった。
鈴木勝男は背が高くひょろっとしている。背が低いターボーとは対照的だ。勝男は浦和から転校してきた、父親の仕事関係とか言っていたが、そもそもこの街の小学校で転校生は珍しい。小学校、中学校と学校は変わるが、生徒のメンツは変わらない。
クラスの担任が勝男の紹介を終えると、勝男を良平の席の隣に座らせた。先生は良平に宜しく頼むとポンと肩に手をおき、くるりと反転し黒板に向かった。良平はそう先生に言われたことが少し誇らしかった。
それから3か月が過ぎた。勝男は体育の授業では球技はあまり得意ではなかったが、駆足だけは早かった。今までクラスで一番早かった男子と競争した時も大差で勝利した。
勝男は痩せていたことでスイッチョンという渾名をもらった。この地方ではクツワムシに似た、ウマオイのことをスイッチョンと呼ぶ。ただし、勝男のそれはその駆け足の早さから「スイッチ・オン」をもじった名でもあった。
3人は土曜日の午後、とんび岩に行く約束をした。とんび岩はその街の西に位置していた。周囲を山に囲まれているその街はどこへ出掛けて行っても山がすぐ追いつく。とんび岩はその山の中腹にあり、とんびが羽根を畳んでひょんと留まっている姿に似ているからつけられたようだ。良平は街を睥睨するようにその場所にあるその岩が好きだった。
3人とも小さなナイロンのナップサックを背負っていた。この街のはずれにある競艇場の開場20周年の記念に貰ったものだった。
途中の駄菓子屋で3人は飲み物を調達した。良平とターボーはグレープ味のチェリオを買った。勝男は透明のスプライトにした。
途中まで道は舗装されていたので3人は自転車で登り口に位置するその小さな公園まで行った。公園に着くころには背中にびっしょりと汗をかいていた。山の稜線にそって3人は登り始めた。
途中、地表に飛びだした木の根っこの上を土と同化した落ち葉が重なり、足を取られそうになったが何とか半分辺りまでたどり着いた。さらに進もうと良平が二人を振り返ると、勝男が「変な虫がいる」と地面を指差した。ターボーがその虫を見る。それはオケラだった。勝男はオケラを見たことが無かったのだ。虫の好きなターボーがそのオケラを捕まえて、ビニールの袋に入れようとした。良平はターボーをたしなめるように、「オケラは明るいところにいると死んでしまう。目が見えない彼らは太陽の光をとても嫌うんだ。だから、持ち帰っても死んでしまう」ターボーは残念そうに袋からオケラを取り出し草むらに放した。
太陽が西の山に近づいたころ3人はとんび岩にたどり着いた。3人とも汗だくで疲れていた。岩は2段になっていて、丁度段と段の繋ぎ目が平らになっていた。そこに3人は腰を下し、持ってきた飲み物を飲んだ。眼下に自分たちの学校が見える。とても小さなその建物は模型を見ているみたいだった。こうして街を見てみるとあれだけ大きく広いと思っていた街も案外小さいものだと思った。この街から離れたことのない二人はこの街の外のことが気になった。どんな街があって、どこに続いているのか。漠然とした少年の気持ちはその後の二人の人生におおきく影響を与えることになる。




2013年1月25日金曜日

ホワイトアスパラガス 旧 ジョエル 青山 現 キュイジーヌ フランセーズ JJ


ホワイトアスパラガス 旧青山ジョエル キュイジーヌ フランセーズ JJ

大分前になる。ワインを覚えたての頃だったと思う。妻と本場のホワイトアスパラガスを食べてみたいと青山に出掛けた。丁度、ゴールデンウイークの前後だったような気がする。
近くでブルースウェーバーの写真展をやっていた。我が家にもゴールデンがいるのでこの写真展を観た記憶がある。大きなニューファンドランドのポスターが特別に売られていた。10万円という価格を聞いて尻込みした。買っておけばよかったと今更ながら後悔する。その足で入ったのが「ジョエル」だった。
私は今はやりのフレンチはあまり好きではない。どことは言わないが懐石料理の様に少しずつ凝った演出で供されるそれは何を食べているのか分からない。私は正真正銘古いフレンチが好きだ。フランスも大きな国で地方によって使う食材や味付けが違う。当然旬の時期も違うし、素材もまちまちだ。その一つがホワイトアスパラガスである。私は国産のアスパラガスを何回と食べても、いつも繊維が口に残り後味の悪さを感じていた。本場はどうなのだろうという興味があった。この店では採れる季節により2つの別の地方の物をフランスから空輸しているそうだ。確かこの時はブルターニュ産と言っていた。
運ばれてきたそれは柔らかすぎず、硬すぎず絶妙な火入れだった。上に掛けられたウイユ(卵)ソースも微かな酸味と濃厚な黄身が旨くバランスが取れている。ナイフでアスパラを切るとすっと無駄な抵抗なくナイフが入っていく。口に運んでみるとほんとうに口の中でとろける。そして繊維を全く感じなかった。これは旨い。おそらく相当大きなアスパラを丁寧に下処理しているのであろう。脱帽した。
その後、この店は東京ミッドタウンに居を移した。名前もキュイジーヌ・フランセーズ・JJと変わったが、その後の再訪でも同様にホワイトアスパラガスを注文したが味は変わっていなかった。そうそう、この店のもう一つの名物は鱸のパイ包み焼きである。相談すれば料理してくれるようである。このアスパラにしても後段の鱸の料理にしてもとびきり白ワインと相性が良い。そろそろ暑くなる季節の変わり目にこんな料理を食べてワインを飲む。最高の時間である。ワインもローヌのヴィオニエに代表される力強い白となるとコンドリューあたりか・・・そう考えると今からこの季節の楽しみだ。




面従腹背と目先の利益




面従腹背という言葉をご存知ですよね。表面的には服従するように見せて内心では従わない事をさすのですが、丁度、インフレターゲット2%を突き付けられた日銀の総裁のコメントをよくよく分析するとこんな感じかと思います(笑 当の本人は違いますというでしょうが)
何故、こうなるのか?その原因は従わせようとさせている人間と従わなければならない人間の知見の差があるからではないでしょうか。ただし、一方で力の差が逆転している訳です。
私達の周りではこうしたことが日常のあらゆる場面で生じています。例えば大手のメーカーと下請けの関係、クライアントとの関係、先生と生徒の関係などです。もっとも知見も力も上ならば仕方ありません。どちらかが異なる時にこの面従腹背は起きやすいのです。
そしてその事に気づかずに進めて行くと、最後にはしっぺ返しを食うわけです。
この事は自戒として考えなければなりません。私達はついお金を払うと言う事で力の関係を強調したがります。お金を払ったからと言って力の関係はイーブンなのです。ここを大きく勘違いしてしまう。逆に知見が乏しいのに相手の事を理解せず物事を進めて行く人もいます。ビジネスの上で話をすると「普通はこうだから」と言う人がいます。普通って何でしょう。その人にとっての普通と私にとっての普通は全く違うのにステレオタイプに断言してしまう。つい先日もロマンティックなインテリアを好むクライアントを理解せず先走りそうになりましたが、ちゃんとそういった自分にとって「普通でないもの」も理解して取り組まなければなりません。幸い一緒にやっている設計士の先生が柔軟だったので助かったのですが、要はそういう事です。私もすぐに図書館に走りました(笑)
一方、こんな事もありました。私が壁紙を選んでいると業者は指定したカタログだけを用意してありました。これでは50点です。普通カタログというのは無料です。またはインターネットで簡単に取ることが出来ます。ところが和紙のカタログは有料なのです。目先の事を考えれば有料のカタログをいくつ揃えてもすぐに仕事に生かせるわけではないし、出費も痛いでしょう。でもそれは自己投資と同じではないでしょうか。目先の利益ばかり追求して自分の知見を高めなければそれ以上の仕事は回ってこないのです。もし私が業者だったら日本全国の和紙のカタログを購入してそれぞれの特色を理解して、その事を武器にします。ただし、ここで注意するのは前述した力の関係です。私が一刀両断にすれば相手は面従腹背するでしょうが、それでは困るのです。どうするか?私がカタログを無償で提供して相手に使ってもらう。そうです、自己投資のための本を相手に渡し出来る限り同じステージでやってもらいたいからなのです。



2013年1月24日木曜日

甘鯛の酒焼き お雑煮 京都 なかむら


甘鯛の酒焼き お雑煮 京都 なかむら

この店は言わずと知れた名店である。様々なガイド本にも紹介され、星さえ付いていたと記憶する。私は星には全くもって無関心なのであるが。まあそれはさておき、この店のルーツは魚屋である。若狭湾で取れたぐじ(甘鯛)を馴染みの料亭に卸していたと言う。それがいつしか仕出し屋をやるようになり、最後は料亭となったようだ。
この店の名物はなんと言っても一子相伝で受け継がれるこのぐじの酒焼きである。ここで
甘鯛について補足しておく。読んで字のごとく身が柔らかく仄かな甘みを感じる美味しい魚であるが、日本近海には4種類ほどあるらしい。その中でもアカとシロが主に食用とされるわけであるが漁獲量はアカが多く、味となるとシロに軍配が上がる。
この魚は鱗が柔らかくその鱗も食べることが出来る。つまり身が柔らかいのだ。この手の魚は新鮮か新鮮でないか直ぐわかる。時間がたつと魚にぬめりが出てくるからだ。
ここで使われている甘鯛はもちろん極上のものである。新鮮さもさることながら大きさが丁度いい。魚と言うのは大きさによって味が違う事はご存知であろうか。例えば10キロと4キロの鰤とでは味が全く違うのだ。ここの魚はこの手の料理法として最適な大きさという意味である。ゆっくりと時間を掛けて焼きあげられるのだろう。表面の皮が美味しい。
香ばしくて海の豊饒さを一気に口の中に感じさせてくる。そして身を綺麗に食べ終えたらその骨にお湯を掛けて戴く。骨と骨の間にある旨みが広がり素晴らしいスープになるのだ。
そしてもうひとつこの店の名物料理が雑煮である。京風の雑煮は白みそ仕立てが定番であるが、店により麩を使うところと丸餅を使うところがある。ここは丸餅だった。
ここの雑煮は一切出汁を使わないのだ。ただ自分の家で湧き出る水を使い、白みそだけで味付けする。究極の料理法である。ワインを嗜むご仁ならテロワールという言葉を聞いたことがあると思うが、まさにそれである。京都は至る所に湧水がある。しかし、それぞれの場所で味が異なるのだ。これはワインの土壌と似ている。そういえばぐじの焼き方もじっくり時間を掛けて火入れするそれはフランス料理の手法にもあったような気がした。
もっとも懐石料理に慣れていない私達は運ばれる料理をあっという間に完食し、次の料理が運ばれるまで長い合間を持て余していたのが一番印象的であったと告白する。





鯊釣り


鯊釣り

子供のころにはよく釣りをした。もっとも家のすぐ裏手に川が流れていて竿をもってちょつと出掛ければ済むような塩梅だった。近くに釣り具店はあったが餌のみみずを購入した事はなかった。その裏手の川で釣れる魚は「ハヤ」だった。東京ではこれを鯎(うぐい)というらしい。婚姻色になるとお腹にオレンジの縞模様が顕れる。もっともこのハヤを釣り竿で釣るようになったのはずっと大人になってからだった。小学生の頃は、半ズボンにシャツを捲りあげて両手を石の穴に突っ込み、むんずとつかみ取る。時折、ギギという毒の背びれをもった魚をつかんだ時にはひどい痛みと腫れに悩まされた。
鯊釣りをするようになったのはKさんの誘いだった。一昔前まで鯊は江戸前の海には沢山いて、庶民の台所を楽しませた。ところが江戸前の天麩羅の鯊は姿を消し、キスにとってかわられた。時折、ねずっぽという風体の悪い魚が供されるがあれはネズミゴチという別の魚である。もっともキスよりこちらの方が美味しいと私は思うが。
鯊釣りにはのべ竿がいい。リールなんていらない。水深に応じて2.3本用意するが出来れば鯊の感触が手に伝わるような柔らかく鋭敏な竿がよい。それにジャリメをちょんと引っかけて鯊の鼻先に垂らすのだ。鯊が小さい時にはイソメでは食べない。このジャリメの方が断然食いが良い。鯊は実は多種多様な魚である。先の陛下が研究されていたように日本近海だけでも相当の種類が確認されている。
小坪の港で釣り糸を垂らすと、真鯊は滅多に釣れない。替わりに岩鯊といわれる少し薄い色のこぶりの鯊が釣れる。真鯊には負けるが天麩羅にするとこれも上手い。
秋谷海岸で釣り糸を垂らした時には、鯊の代わりに黄色と黒の縞模様のはっきりした、キヌバリという魚が釣れた。あのときはバケツいっぱいほど釣れたが、その色から食べられそうもないので全て海に戻した。
鯊で一番美味しいところは、実は肝である。夏場に餌を十分に蓄えて大きくなった鯊の肝ほど美味しいものはない。そのさっぱりとした味わいに醤油をまぶして淡泊な鯊の身を戴く、最高のぜいたくである。カワハギより上品かつ貴重であると偏見を交えて申し上げる。


PM 6:50



 美佐子の息子は浩一郎の息子の勧めもあって塾に通い始めた。もともと成績は悪くなかったので試しにテストを受けさせてみたらかなりの高得点をとりそのまま特待生となった。特待生は授業料が掛らない。美佐子にとってはありがたかった。

 それと同時に息子へのいじめは影を潜めた。一緒の塾に通うTやHが息子をかばうようになったのだ。庇うようになったといより、むしろ今までいじめていた方といじめられていた立場は逆転した。
 息子は大きいお兄ちゃんとの約束を守っていた。「もし友達が出来て、相手より優位な立場になったとしても、仕返しをしてはならない。そうすることがいじめには一番良くないことだから。それをいじめの連鎖という。君はいじめている子になってはいけないから。そう、いじめの連鎖は断ち切らなくてはならない」

 息子の顔が前より柔和になった。そして何より勉強という集中できるものがあることで、精神的に一回り大きくなったような気がした。今までは読まなかった新聞も目を通すようになった。
 どうして難しい漢字が読めるようになったのか不思議な思いで見ていると、分からない漢字を辞書で一生懸命に調べていた。分からない事はそのままにしない。自分で調べるといった事を実践しているようだった。浩一郎の息子から貰った辞書の一番最後のページに息子の名前が書いてあった。そしてその横に「君なら出来る」と書かれていた。美佐子嬉しくて目頭が熱くなった。





2013年1月23日水曜日

1981年のゴーストライダー Capter3 Ⅰ


Capter3

 優子は目の前の黒い巨大な建物を見上げていた。その建物は竹橋の交差点にある新聞社の隣にあった。優子はこの新聞社に見覚えがある。
 それは洋一が就職する以前のことだった。洋一の友人が新聞配達のアルバイトをしていた。新聞配達のアルバイトと言っても早朝にオートバイや自転車で各戸に新聞を届けるものではない。それは新聞販売店に直接新聞を運ぶ仕事だった。
 用賀にあるトラックに乗り竹橋のこの新聞社でインクの匂いが強烈な印刷したての新聞を受取り、二ノ宮や国府津の販売店まで運ぶ仕事だった。
 ある時その友人が体調を壊して洋一にピンチヒッターを依頼したのだ。優子はその内容が楽しそうなので洋一のピンチヒッターについていったことがあったのだ。仕事を終えると帰り道の大磯港でトラックの荷台に隠してあったアイパのツインフィンとモスのコンケープの深く入ったダブルフィンのボードを使って形の良いショルダー程のレギュラーの波を2時間半ほど楽しんだ。
 優子はそんな楽しさとは裏腹に今、目の前の建物を見つめていた。
その建物は石張りで、窓ガラスはピカピカに拭きあげられ、誰の目からもお金が掛ったものであることはわかった。
 建物が持つ威圧感とは結局中で働く人間の弱さの代償の様な気がしていた。それに石張りの建物は墓石を連想させていた。
 湿った石積みの階段を上がると、入口には制服を着た警備員が入館者のチェックをしていた。濃紺のスーツを着た優子は建物の窓ガラスに映り込む青空を一瞬見つめ、それからすうっと深呼吸した。警備員に要件を伝え足早にエレベーターホールに向かった。

 その会社は子供から老人まで名前の知らない人はいないような、名の通った商社だった。本店を関西に置くその商社は財務内容が堅実で、石橋を叩いても渡らないと比喩されていた。優子はそんなことはどうでも良かった。早く面接を済ませて表に出たいという気持ちだった。この慇懃な建物を心底嫌悪していたから。

 思いのほか面接は順調に進んだ。優子は余計な事を言わなかった。ただひとつ日焼けしていることで何かスポーツをしているのか尋ねられた時に、父と一緒にゴルフをしていると嘘をついた。相手の面接官が左手にグローブの跡がないことを尋ねられたが、その跡が嫌なので手袋をしないでプレーしていると嘘を重ねた。
 ひとりの面接官はまだ優子とさほど歳の離れていない若者だった。もう一人の面接官は年の頃にして40代前半といった感じだが頭が後退し観た目はもっと老けて見えた。お腹のあたりに脂肪がたまり、着ているワイシャツも妙に窮屈みえた。面接が終わると優子は足早に入ってきた玄関を目指した。優子は表に出ると同時に大きく深呼吸した。まるで嫌な物を吐き出すように。




2013年1月22日火曜日

シャリアピンステーキ 鎌倉 コアンドル


シャリアピンステーキ 鎌倉 コアンドル

あれはまだ夏の熱気が残る秋のことだった。雨が降り始め掘り出し物の古書をパーカーで覆い隠すように傘をさしながら、近くに雨宿りとワインでも飲める店はないかと探していた。昨晩、イタリアンだったので今日はフレンチが良いと小町通りの看板を縦に追っていたところ、蔦のからまった一軒家が目に入った。歴史を感じさせるその佇まいは私の経験からするととびきり最高かそれとも全くの外れかどちらかである。ましてや小町通りである。少し心配になった私をよそに妻はさっさと入っていってしまった。
タータンチェックのベストを着たそのオーナーと思しき男性に奥の席に案内された。
妻の名誉のために断っておくが、妻は英米文学の専攻だったので、日本の純文学というものには詳しくない。おそらく英文の原書はそうとうな量を読んだであろうと推察する。
メニューを開いてみると、フレンチというよりは上等な洋食屋のそれである。その中に
「大仏次郎先生が好きだったシャリアピンステーキ」とあった。
ご存知の方も多いと思うが、このシャリアピンとは女性の名前である。この女性音楽家が来日したときに当時のオークラだったか帝国ホテルだったか忘れたが特別にお依頼して作ってもらったレシピと記憶している。ところが世の中のシャリアピンの多くは、ジンジャーソテーである。あれは違う。ただ、玉ねぎと生姜がのっているだけのそれはシャリアピンもどきである。シャリアピンはしっかりとマリネされなければならない。それにより肉は柔らかくなり、芳しい香りをまとうのだ。それにこのステーキはご飯と抜群に合う。
私はオーナーの薦めるワインをグラスで頼み、迷わずこのシャリアピンステーキを注文した。妻も同じものを注文した。ただし妻が発したのは「ダイブツジロウセンセイノスキダッタシャリアピンステーキ」だった。
オーナーはピクリと目を動かしたが何も言わず奥に消えて行った。おそらく厨房では笑いの渦となり、料理を作るどころではなかったのではないか。出されたそれは丁寧な仕事をしたもので、肉は柔らかく厚さも丁度良い。そしてソースが抜群にうまい。満足した事は言うまでもない。あれ以来妻に誘ってみるが中々応じようとしない。今年の夏あたりにもう一回チャレンジしてみよう。ほとぼりは冷めてますから・・




2013年1月21日月曜日

いも羊羹 舟和


いも羊羹 舟和

私は甘いものが苦手である。どちらかというと進んで手を伸ばさない。そんな私でも無性に懐かしくなる甘味がある。それが舟和のいも羊羹である。
当時東京に住んでいた祖母は私のところに来るときに必ずこのいも羊羹とあんこ玉をお土産に買ってきてくれた。あの頃の私にとって東京の玄関口は浅草だった。東武線の急行に乗り浅草が近づくにつれ曳舟、鐘ヶ淵、北千住の寂しい駅を通り過ぎる。カーブで電車の車輪が軋む音が聞こえたら東京は近い。緊張で胸の鼓動が速くなる。
私の東京の一歩はいつも浅草だった。そのまま銀座線で渋谷まで小一時間地下鉄にのる。
駅につく前に一瞬車内の照明が消える。あれはつかの間のタイムスリップだった。
そして井の頭線に乗り換えて叔父の住む杉並に行く。
当時の私の家は裕福ではなくそうそう東京に行く旅費を出すことは出来なかった。だから祖母がやってくるのを心待ちにしていた。来ると分かってからはカレンダーにその日を書き入れ、指折り数えて待っていた。その日は授業が終わるや否や一目散に家に戻ったものだ。
そんな祖母が他界してからずいぶんと年月がたつ。祖母は叔父や母を連れて満州から引き揚げてきた。夫はシベリアの強制収容所で病死した。祖母はその労苦のためか脚が悪かった。その後女手一つで子供3人を育て上げた。残念ながら長兄は結核で若くして命を落としたが、二人を育あげた。晩年の祖母は経済的にも恵まれ多くの孫たちに囲まれて暮らした。
今でも不思議な事がある。いも羊羹とは別に祖母が買ってくるものがあった。私達が食べないから買わないように釘をさしていたにもかかわらず買ってくるのだ。それは浅草のデパートの地下で売っているお好み焼きだった。そのお好み焼きは粉っぽくて、卵はカラカラに乾燥して、キャベツはぼそぼそするとても美味しいとは言えない代物だった。しかし毎回買ってくるのだ。今思うと祖母にはお好み焼きに何か特別な思い入れがあったのかもしれない。今ではそれも聞くことは出来ないが、誰でも美味しいとか不味いとか、好きとか嫌いとか、そういうことではない心の中の特別な食べ物が存在するのだから、祖母だってあったのだろう。私にとってのいも羊羹のように。



テルアビブの闇


 その生き物は人々が眠りに就こうとする頃にうごき始める。

テレビでは選挙結果をくだらないコメンテーターの分析と一緒に流している。世の中にはこうしたどうでもいいことを自分がさも超能力者か預言者のように振舞い、それ見たことかと衆人を愚弄することでお金をもらい生活している人が居る。彼らもまた闇の住人か。

昨夜から降り続いた雨はあがった。道路の陥没は小さな水たまりとなって、黒い涙のように光り輝いている。東に延びる道路は湿っていて、まるで爬虫類の皮膚のようにぬめぬめしている。

街路灯の灯りがその表面を照らす。初冬だと言うのに空気は暖かい。

雨は全てを洗い流すといわれる。昨日の雨はそれとは違う。地表の襞にすこしづつ湿り気を浸透させている。天から潤いを受けたその体は少し重そうだ。

遠くで梟が啼く。とっくに南へ行ってしまった燕の巣が軒先に所在なさそうに残っている。

アマルガムを飲み込んだ蛙はもう鳴かない。不倶戴天、ルサンチマンの憎しみは風をとめた。油断してはいけない。この時間の闇は大きく深いから。