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2013年6月28日金曜日

三十五年の不覚

三十五年の不覚

一生の不覚という言葉があるが、私の場合、生まれてから今日まででは少し無理があるので、味が分かるようになった十七、十八歳から今日までの三十五年間の不覚としておく。まあ一生の不覚でないだけましと自分に言い聞かせる事にするが私の中で大きくとんかつの基準が変わったと申し上げる。まるで北半球と南半球が逆さまになった位、青天の霹靂の出来事である。
とんかつは目黒に限るなどと大言壮語して今までヒレカツしか食べて来なかった私が武蔵小山の「たいよう」のロースカツを食べてノックアウトしたのだ。いや魂消た。
今まではどこのとんかつ屋でロースカツを食べても、必ず脂や筋が口に残り、飲みこむのに苦労した。それが何回も続くうちに結局ロースカツを頼まなくなった。そしてヒレカツばかりを注文していた。
実は食の雑文を一応きりの良いところまで書きあげたので、自分への御褒美として武蔵小山のたいように出掛けたのだが、それが衝撃の体験となったのだ。
私が出掛けたのは平日の11時15分、九席の小さなカウンターは既に満席だった。予約客が四名いるのでその後になりますと言われたが先頭だったので待つ事にした。数人の来客があったが予約で満席と書かれた看板を見て残念そうに帰って行った。待っている間に女性が注文を伺いに来た。
我が社の同伴したスタッフがこの店のようにランチで予約をとると席の空白が出来て効率が悪いと言っていたが、私には分かるような気がする。マスコミが美味しいと騒ぎ出すと、猫も杓子も詰めかけ常連が入れなくなってしまう。そして潮が引くように詰めかけた客は去り、残った店は台無しになってしまうからだ。自分の領分を弁え丁寧な仕事をする。それこそがこの店の店主の目指すところなのではないだろうか。そのあたりは中華そばの名店、多賀野とも似ている。
今日は自分への御褒美であると同時に、失敗しても良いと自分に言い聞かせロースカツを注文する事にしていたのだ。とカッコの良い事を言ったが、実はネットのコメントはあまり信用しない、あくまで参考程度、それより信頼する舌を持つ山本益博氏が高い評価をしていたのでそちらを信頼していたのだ。
私がランチのロースカツと普通のメニューのロースカツの違いを聞くと、肉質は全く同じで厚さが違うという。一方は百グラム、もう一方は百五十グラムである。迷うことなく百五十グラムを選択した。
お茶を出され待っている間に店主の動きに目をやった。口数少なく、控えめな店主の動きをみると、肉のたたき、衣づけ、揚げ、そして最後の包丁までとても丁寧にしかも的確に動いている。丁寧さは赤子を扱う如くである。いや、私が孫を風呂に入れるときよりも丁寧かもしれない。出来上がりの頃会いを見て、おしんこ、ご飯、豚汁が出され間もなくして大盛りのキャベツが乗った皿にトンカツが運ばれてくる。
はじめに右側の脂身の多い小さな肉片を何もつけずに食べた。口に入れた瞬間、脂が溶け噛んでも筋が無い。その脂身は臭いどころか甘さを感じる、そしてすっと口の中に消えていった。左に進むにつれ脂身は少なくなっていくが、そもそも脂身の付き方大変上品であるのでそのくどさは微塵も感じられない。脂身でない肉もきちんと火が入っているのに柔らかいだけでなく、しっとりしている。ご飯も美味しい。少し硬めのご飯であったがお米は立っているし甘みも感じる。豚汁もいい。味が濃いと言っていた人がいたが、そんなことはない。丁度いい濃さだと思う。おしんこも古漬けだが酸っぱくなっていない。箸やすめにはうってつけだと思う。そしてキャベツ、そう私はキャベツにうるさいのだ。その私からしてこの店のきゃべつは旨い。細さもさることながら、水揚げのタイミングが良いからなのかシャキシャキしてトンカツと一緒に口に入れると肉の甘みが一段強く感じられた。
百五十グラムのロースカツをペロッと平らげてしまった。いや、艾年を超えてもまだまだ知らない事が多い。自分の経験が如何に狭了で無知なのか思い知らされたのである。
やはり舌の記憶は更新されなければならない。今日からまた知らない味へのチャレンジが続く。だって言うでしょ。食べてみなければ分からないと。


出店 武蔵小山「たいよう」 






2013年6月27日木曜日

至福の炭水化物

至福の炭水化物

この歳になると池波正太郎氏が書いていたように、健痰家でも食が細くなってくる。私も以前なら大盛りを注文していたものが、残念ながらこの頃は控えめにしている。何だかこんなことで歳を感じるとは寂しい限りだ。
私の東京の入り口が浅草で、その次がお茶ノ水だということは既に書いたと思うが、十代の喰い盛りの若者はこの界隈の食堂の盛りの良さに助けてもらった。私達は出来るだけ腹もちのよいメニューを選んだ。カロリーなんてもちろん考えない。いや、むしろカロリーの高い食べ物を選んでいた。
すずらん通りのパチンコ屋で一番見た目の若い同級生が交番のお巡りさんの職務質問によりそこに居合わせた一道一派全員が補導されたのは若気の至りであるが、あの界隈には腹ペコの学生を満足させる店が多かった。
すずらん通りの裏手にその中華料理店はある。もちろん大盛りを謳い文句にするだけでは駄目である。しっかりとその全てが旨くなくてはならない。その点この店は問題ない。全て合格点以上の料理を出す。その店は神保町にある徳満殿と言う店だ。私が頼むのはチャーハンである。チャーハンというものはシンプルであるがゆえに難しい。私も時折作るが、油が少なすぎてもパラパラ、ボソボソと旨くない。もちろん油がべとついたチャーハンは論外である。
具材はその時々の気分で変えてもいいが、油と卵の黄金律は変えられない。これがチャーハンの肝となるからだ。
あの頃はこの店の大盛りチャーハンをぺろりと平らげていた。別名、ヘルメットチャーハン。そうアメリカ軍のヘルメットのような形に丸く押しつけられた大盛りのチャーハン。
それをレンゲで一口運べば、至福のごはんの旨さが広がる。どうして炭水化物というのは旨いのだろう。そしてスープを続けて口に運び、またご飯を掬う。この反芻的行為はお腹を満足させると同時に幸福感をもたらす。久々にチャレンジしてみようか、幸いな事にベルトの穴はまだ残っているから。

出店 神保町「徳満殿」





2013年6月26日水曜日

思い出のハイボール

思い出のハイボール

数日前に銀座にあるハイボールの美味しいバーに行った。根魚と言うなんともキテレツな名前のそのバーのハイボールは氷が入っていない。とても繊細で美味しいハイボールだったが、私の探しているハイボールはそれではなかった。
私が学生の頃、遊び場では肩身の狭い思いをした。当時、文武両道の早稲田や慶応は早慶戦の時などそれぞれの学生達が意気揚々とそれぞれの場所で青春を謳歌する。慶応は六本木、早稲田は新宿で大いに盛り上がった。私達の学校の運動部はからきしだめで、六大学にはとうに及ばず、東都大学リーグでも辛酸をなめていた。それでも早慶戦に関係なくお酒を飲みたいと言う欲求は抑えられず、そろりそろりと酒場に向かうのが常だった。
私達は地元の四谷を除けば、新宿と渋谷で飲んだ。これは二つ年上の先輩の実家が代官山にあり、新宿で高校時代を過ごしたこともあり、この二つの盛り場に明るかったからだ。
渋谷は風林会館にある酒場だった。確かオールドを飲んでいた記憶があるので高級な感じがした。もう一件は新宿だった。あの頃、盛り場にはコンパと呼ばれる安く飲めるカウンターバーがあった。私達がよく行ったのは歌舞伎町にあるコンパエアーラインという店だった。店内は広く、いくつかのブースに分かれていて、それぞれが各国の航空会社の名前になっている。カウンターにはその航空会社の制服を着た若い女性が一人いてお酒を作ってくれる。これだけ書くと秋葉原や神田にあるイケナイコスプレバーを連想される方もいるかもしれないが、至って真面目、女性はただお酒を造るのである。そしてなによりとても安かった。先輩がボトルキープしているので千円以下で飲めた。
私はいつもハイボールを頼んだ。氷の入ったグラスにウィスキーを注ぎ、ホースのようなもので炭酸水を満たす。そして軽くステアして出す。出されたそれは薄く、かすかにウィスキーの味がする程度だった。それでも楽しく飲んでいた。
私が(先輩が)好きだったのはSASと書かれたブースだった。ご存知の通り北欧の航空会社である。今こんな事をしたら商標やらなんやらでとんでもない自体が予想されるが、当時は鷹揚だった。誰もそんな事を気にしなかった。
この店のカウンターの女性はほとんどがアルバイトだった。私達と同じような学生が多く、このカウンターの女性は多くても二名がいて、いつもは一人で切り盛りしていた。
一人の子は中央線の某有名女子大学に在籍中だと言っていた。もうひとりは最後まで素性を明かさなかった。
女子大に通うその子はストレートのショートカットで笑顔の可愛い子だった。出身は愛媛県と言っていたが、みかんが嫌いだとも言っていた。小さい頃に食べすぎて体が真黄色になったからとも教えてくれた。地方から出て来た者同士、私もその子と話をすると何故か落ち着けた。彼女はその店のアルバイト以外にも色々なアルバイトで学費を稼いでいた。家はあまり裕福でなく入学金も何とか工面してもらったようだった。私達はどちらが多くのアルバイトをしているか競い合った。私が家庭教師を筆頭に、駅前のティシュ配り、新聞の配送、土方手伝い、プールの監視員と言えば、相手も負けてない。この店のほかにあと二店、そして添削のアルバイトと張り合った。彼女の別の店のアルバイトは知り合いの女性が病気になり急遽頼まれてするようになったと言っていたが、あまり乗り気ではなかった。時給は他のバイト三倍するものの接客しなければならない。常連客がほとんどなので滅多に酷い客はいないのだが、中には酩酊して時々困る客もいると話していた。
それでもすぐに笑い顔を取り戻して薄いハイボールを作ってくれた彼女だった。
最初の夏が終わり秋に差し掛かる頃、彼女はその店を辞めていた。風の噂で聞いたところによると病気をして実家に戻ったと言う。何の病気なのかそれ以上誰も口にしなかったが、休学ではなかった。
今でも私のハイボールはあの店で飲んだ薄いハイボールを思い出す。彼女の可愛い笑顔と共に。

出店 新宿「コンパエアーライン」





2013年6月25日火曜日

鯛の鯛

鯛の鯛
鯛の鯛をご存知の方は多いと思うが、鯛のエラに近い骨が鯛の形に似ていることからそう呼ばれる骨の事である。少し大きめの鯛なら容易に見付ける事が出来る。
私の生まれ育った街がいかに新鮮な魚介類が当時は手に入りにくかったか既に何度も訴えているのであるが、辛うじてこの鯛は食べた事がある。父親が結婚式の引き出物として家に持ち帰ってきたからだ。私の家は通称サンブン=産分(産業文化会館)の近くだった。ここには結婚式を挙げられる披露宴会場があり、周りの町村の人もここで結婚式を行うのが常だった。当時の引き出物は赤飯と鯛の塩焼きの尾頭付きが定番だった。赤飯は塩胡麻を振りかけて食べるのだが、もう一方の鯛がいけなかった。まるで煮干しのようにカチカチに硬くなってしまって、身をほぐそうとしても箸さえ受け付けない。やっとのことで身に箸が届くが塩辛くて食べられない。子供心に何で鯛が重用されるのか全く持って不思議だった。
上京して生の魚を食べるようになった。お寿司屋さんで鯛の握りを食べた時にこれが今まで塩焼きで食べていた同じ魚なのかと驚いた。それ以来、寿司ネタの鯛は好きになったが、進んで鯛の塩焼きにまで手が伸びる事は無かった。
魚好きの恩師にこの話をすると、それはもったいないと好相した。鯛は捨てるところの無い魚、腐っても鯛、つまりどんな調理法をしても美味しいというのである。
機会があって大阪に行く事になった。いつもは日帰りなのに今回は大阪で一泊する。妻たちとユニバーサルスタジオに来ていた息子と合流して、私達が先に帰るという女性たちに大変都合のよいスケジュールだった。そこでその策略に乗ったふりをして、何か旨いものを息子と食べに出掛けようと決めたが、そんな助べえ根性の時は大外れする。それではまずいと心して店を選定した。六本木に鯛めしの専門店があったことを思い出した。確かにその店の本店は大阪だった。もし失敗しても私の鯛に対する印象が変わる事にはならないし、恩師にも言いわけがつく。しかも、ここからならそう遠くない。よし決めた。電話をしてみると空いているとのことである。私達二人はタクシーでその店に向かった。
その店は「与太郎」という。私達は白木のカウンターに通され、鯛飯のコースを注文した。しばらくして突き出しや前菜が運ばれてきた。どれもシンプルだが丁寧に作ってある。明石の蛸を使った酢味噌和えも、蛸は適度に弾力がありながら歯でさっと噛み切れ、きゅうりがみずみずしくそれでいて全体は水っぽくならずに美味しかった。
そして真打ちの鯛飯が登場した。サワラのお櫃に丸ごと一尾の鯛が蒸されている。表面にうっすら焦げ目があるので、焼いて入れたのであろう。職人が慣れた手つきで鯛の身をほぐしご飯と混ぜ合せた。出来あがったご飯に好みで山椒を振りかける。旨い。ご飯と鯛の甘みが旨く重なり、最後にすうっと磯の香りがする。旨みが凝縮されていた。二人で三杯近くお代わりしたがそれでも余ってしまった。余ったものはプラスチックの容器に入れてくれたので私達はホテルに持ち帰った。
翌朝、息子と冷たくなった鯛ご飯を食べた。ん!!美味しい!!昨日の炊き立ての鯛飯も美味しかったが、冷たくなっても美味しい。味が複雑に変化している。二日目のカレーと恩師の言葉を思い出した。最後にこのとき息子は小学五年生だったことを付け加えておく。

出店  大阪「与太郎」





2013年6月24日月曜日

西陽のとんぺい焼き

西陽のとんぺい焼き
材木座に通うようになって20年が過ぎる。それは同時に犬を飼い始めて同じ年月が経ったと言う事だ。
我が家に最初にやってきた犬はゴールデンレトリバーで、女の子なのに家族に幸せを運ぶ魔法使いのようになって欲しいからとジーニーと言う男の子の名前を付けられてしまった。その犬とはよく材木座海岸を散歩した。聞きわけの良い子はノーリードでも大丈夫で、つねに私の目を見て行動していた。
子供達も幼かったが、ジーニーを連れて食べられる店しか入らなかった。それでも子供達は満足していた。
材木座海岸の中ほどに「かたつむり」という広島風お好み焼きを食べさせてくれる店があった。水色の建物が特徴で裏手には倉庫があり、そのすぐ近くに犬小屋があった。
目のくりっとしたキングチャールズスパニエルと大きな体躯のゴールデンリトリバーの男の子がいた。
その店につくと最初にその子たちを撫でて挨拶をしてから店に入った。私達は海が見える戸外のデッキに席を取り、思い思いの食べ物と飲み物を頼んだ。
この店の主人と思しき女性は、私達より幾分年上であったが、その凛とした表情や立ち振る舞いから、銀幕で活躍した女優のようでもあった。いや、きっと若き日はそれに近くお仕事をされた方だと推憶する。二人の娘さんは私達より幾分若く、その美形ぶりに驚く、すらっと長く延びた手足は母親譲りなのか、日本人離れした小顔で切れ長の目をしていた。
最初は姉にあたる人が調理をしていたが、何かの理由で姉が厨房に立てないようになり、妹が今度は調理を担当した。
私は必ずとんぺい焼きを注文した。とんぺい焼きというのは豚のバラ肉の上に生の卵と沢山の葱を散らしたあれである。ところがこのとんぺい焼きが微妙に違うのだ。いや、微妙ではない、はっきりと違うのである。
どちらが旨いと言う事を書くと、国際問題にも発展しかねない懸案なので明言は避けるが、この店のものより美味しいものを食べた事が無い。それほど美味なのである。
とんぺい焼きはバラ肉の歯触りと卵の焼き加減が肝要である。肉はカリカリとした食感でありながら、柔らかさも残さなければならない。卵も生ではいけないが、火の入りすぎには最も気をつけなければならない。
このとんぺい焼きを食べながら富士山の横に沈む夕日を見て麦酒を飲む。横には妻と娘や息子たちとジーニーがいる。これ以上の幸せはなかった。心満ち足りた時間はあっと言う間に過ぎてしまう。
店は数年前に売り渡され暫く閉店していたが、新しいオーナーが水色からアイボリーに壁を塗り替え、新しく店を始めた。その店の名前は「リプレイ」という。オーナーは元俳優と言うから、何かしらの縁があるのかもしれない。
とんぺい焼きはなくなってしまったけれど、デッキはまだある。ジーニーは亡くなり、娘が嫁ぎ、息子も多忙で中々一緒に散歩をする機会も少なくなったが、妻もそして2匹の犬も元気でいる。今年の夏には2匹の犬に妻と娘と娘の旦那そして孫も連れて来てみよう。西陽と麦酒は変わらないのだから。


出店 材木座「かたつむり 閉店」「リプレイ」







2013年6月20日木曜日

権太坂とハンバーグ

権太坂とハンバーグ

正月の箱根駅伝の保土ヶ谷中継所の映像を見ると大学生の時に起こした事故の事を思い出す。真冬のサーフィンを終えての帰り道、西日を浴びた権太坂のすぐ近くの短い坂道を色の褪せた友人のポンコツセリカで登っていた。
その車は今考えると笑っちゃうほどダサかった。群馬ナンバーの上、シガーソケットには真っ赤な提灯のライトが付けられ、ハンドルには安いビニール製のカラフルなカバーが取りつけてあった。極めつけは左墓天と書かれた大きなステッカーがリアガラスに貼ってあった。断っておくが決して私の趣味ではない。断じて違うのでお間違いなく。
話を事故の時に戻そう。私達は春先の冷たい海でのサーフィンと分厚い5ミリのふるスーツが体を邪魔し体力を消耗していた。そこに急に暖かい車内に入り顔が紅潮し、二人ともウトウトしてしまった。信号機の無い交差点で事故は起こった。ドスンという鈍い音とともにボンネットが大きくひしゃげて体が衝撃を受けた。はっと我に返ると道路の三分の一くらいのところで路線バスに車は衝突して止まっていた。バスのほうはバンパーが少しへこんだ程度で乗客にも怪我人はいなかった。警察の事情聴取も終わり、バス会社の渉外担当がやってきた。その男がいうには幸い怪我人もなくパンパーの傷もすぐ直る程度なのでバスは私達の対物保険で直してくれればいい。ただし、そちらが悪いのでそちらの損害は賠償しないというものだった。着の身着のまま東京に戻り、叔父に相談したが、職人でそうした手合いの話には苦手の事もあって、結局、相手の条件を呑むしかなかった。
今になって考えれば、例え車両保険を掛けてなくても相手にも責任がある。私達は初めて大人の汚い手口を思い知らされた日だった。
その時、夕焼け空に見た事のあるハンバーグ店のサインボードがうっすらと点灯した。
その道を使った理由は横浜新道が渋滞していたこともあるが、ついそのあたりの裏道を知ったかぶりをして走ったのが原因だった。何故知っていたかと言うと当時付き合っていたガールフレンドの一人がこの近くに住んでいたからだ。原宿の交差点から程近い場所に彼女の家はあった。銀行員の父親を持つ彼女の家庭は厳格だが明るく自由だった。彼女を家に送り届けたある日、その父親が近くのハンバーグ店に連れて行ってくれた。それがこの看板の店「ハングリータイガー」である。
ここで「ハングリータイガー」について少し補足しておこう。神奈川在住の人なら知っている人も多いと思うが、出店が地域で限定されているため全国的には馴染みは薄い。
この店がオープンしたのは一九六九年である。私が十歳の時だ。もちろん東京から遠く離れた北関東の街ではその店がオープンした事など知らなかったが、その最初の店がこの保土ヶ谷店である。その店に私が連れてこられたのがその九年後ということだから一九七八年となる。当時は写真付きのメニューはなかった。名物の直火焼きハンバーグはもとより、飲み物も赤ワインを始め、オールドーパー、カンパリなどファミリーレストランとはかなり趣を異にしていた。
店は大きな窓から緑が写り込み、茶色のソファーシートがゆったりとしたテーブルを囲むように配されている。木製の高い天井から吊り下げられた大きなシェードのランプからは暖かな光がテーブルを照らしていた。私はいっぺんで好きになった。
ハンバーグが運ばれてくると客は一斉に紙ナプキンを高く持ち上げて洋服にソースが飛ばないような格好を取る。皆が皆同じ格好をするのでまるで儀式の様でもあり、中々笑える。
ハンバーグはしっかり肉の味がした。焼き方のせいか余分な油はほとんど落ちて外側は香ばしく焼かれ、ナイフをいれると美味しいミディアムレアの赤身が顔を出していた。
ソースは決して強くない。肉の味を引き出すために余計な事をしないように作られているようだ。
付け合わせもシンプル、皮つきのポテトとエンドウ豆だった。今はどうかしらないが、ハンバーグの付け合わせはこれに限る。私のお薦めである。
そんなハングリータイガーも数年前、食中毒事件を起こした。マスコミは一斉に管理体制が不十分とか、社員教育のまずさを書きたてたが、私はその後数回訪れていたが一度もそのような事を感じなかったので食べ続けたが、世間の客足はやはり大幅に減ったようで閉店する店が相次ぎ、神奈川に店はなくなってしまったようだ。
その事故の後、彼女とは細い蜘蛛の糸が雨に濡れ、すうっと千切れてしまったように連絡を取る事もなくなってしまった。その後、歯科衛生士になり、結婚して幸せな家庭を築いたと風の噂に聞いたものの今となっては彼女の顔さえ思い出せない。いつも真っ黒に日焼けしたスレンダーな手足と、彼女の着ていた黄色のOPのシャツだけが残像として瞼に残っている。それでもあの時の舌の記憶は残っている。

追記

料理と食べ物にまつわる私のつたない記憶と心に残った事を書き始めて96000文字になる。これほどまでに食いしん坊だったのかと自分でも驚くとともに、今日の昼ご飯を何を食べようかと朝から考えている自分の性を隠しようがない。


出店 保土ヶ谷「ハングリータイガー本店」





2013年6月19日水曜日

気持ちの良い店

気持ちの良い店
旨い料理を作る店はあるが、帰った後もその味の余韻とサービスで満足させてくれる店は以外と少ない。星のついた、ある鮨店など常連客以外は客でないような扱いをするし、人前で従業員を怒鳴りつける。また、究極のラーメン作りを謳ってテレビにもよく登場するあのラーメン店では子供はお断りである。カップルの客も別々に座らされ大層肩身の狭い思いをして食べなければならない。もちろんそんな店はこちらの方から払い下げで、気持ちがよくなるはずがない。
昨年、娘が嫁ぐ前に親子三人で京都に一泊した。娘の好きなイタリアンの八坂にある「イルギォツトーネ」に出掛けた。東京にも進出している有名店であったが、私は初めてだった。
コースもあったが、いろいろなものを食べてみたいと食い意地が先立ち、アラカルトで頼む事にした。給仕の女性が細かく焼き加減や嫌いな食材が無いか確認したうえで供された料理はどれも端正で、品があった。イタリアンと言うとニンニクの香りでどの皿も似たような味わいになってしまうところが多い中、京野菜を中心にした素材を生かした味付けで野菜はきちんと自分を主張し、チーズやニンニンクに力負けしていなかった。
薦められたワインも秀逸で、ワインが勝ちすぎる事も、また料理が勝ちすぎる事もなかった。
食事をしてホテルに戻り老眼鏡がないことに気付いた。レストランに忘れた事は分かっていたので、東京に戻ってから連絡しようと翌朝は名古屋に向かった。娘を送り届けて自宅に戻ると小包が届いていた。開けてみると「イルギオットーネ」から老眼鏡と短いメッセージが添えられていた。そこには大切な日に店を選んでくれた事の御礼が書き込まれていた。何たるタイミングであろうか。そしてカードの文面から素晴らしい心のこもったおもてなしを感じたのだった。今でも娘が嫁いだ日の記念としてこのカードは大切に取ってある。是非、八坂の同店に行かれて確かめられる事をお薦めする。もちろん予約が取れればの話ではあるが。
もう一店、駿河台に古くから「土桜」という老舗レストランがある。このレストランは客に阿吽の呼吸で料理をサービスしたいと言う気持ちからこの店名にしたそうである。これでニオウと読む。日本語とはやっかいなものであるがこの意味を知り置けば読み方は後から付いてくる。
私はランチタイムに入店した。鎌倉の「ルコンドル」以来のシャリアピンステーキを食べようと決めていた。カウンターに通されるや、白い太くて長いアスパラガスが目に入った。ランチでは無理だろうとシェフに窺うと調理を快諾してくれた。昨年はアスパラが不作でとても出せるような代物ではなかったが、今年は良いと言う。シェフは早速、ホワイトアスパラガスのプレゼを作り始めた。アスパラの季節の最終章、ブルターニュ産のアスパラだった。もちろんフランスの国営航空会社で空輸されたもので、正真正銘ジェットセッターである。少しだけニンニクの香りを付けても良いかシェフが聞くので、ご自由にやってほしいと答えた。
出来あがったそれはゆっくり煮た、くたくたのアスパラとは対照的にシャキシャキとした食感が心地よく、それでいて筋は口の中に少しも残らない。浅く出汁を吸わせたアスパラとニンニンクの相性は抜群だった。前菜のようにぺろりと2本のホワイトアスパラを食べ終えると本日のメインエベント、シャリアピンステーキが供された。ここのステーキはマリナードをしない。脂の乗った和牛をさっと焼いてたっぷりの玉ねぎを乗せてあるだけだ。しかし、今時こういう形のサラマンドルを使う店は少なくなった。ステーキは鉄板やフライパンで焼かれるため油が落ちないし、焼き色が薄くなる。そこへいくと、このサラマンドルはしっかりと焼き色も付き油は下へ流れる。この表面の香ばしさと玉ねぎがとてもマッチしている。
そしてご飯、味噌汁、おしんこの三点はこのステーキに外せない。これほど白いご飯と合うステーキも少ないからだ。20センチ以上あろうかというステーキを平らげて最後にアイスクリームのデザートである。ラム酒にバニラビーンズを入れてゆっくりバニラの香りを抽出したラムがアイスクリームに練り込んであり、シャーベットのようにすっきりしている。なるほど、このステーキ後にこのアイスクリームを出すとは中々手が込んでいる。恐れ入谷の鬼子母神である。
そしてこの店にはもう一つの続きがある。私達のアスパラの根元の部分は普通捨ててしまうところだが、隣に座っていた老紳士一人と若い女性二人に同じようにプレゼして供したのである。別の席ならまだしも同じカウンターの隣同士、一緒に食べていて、みんなで味を共有してほしいというシェフの気持ちの現れである。
その方々は私達に礼を言い、美味しい美味しいと口々にアスパラの話題を話しながら店を出て行った。
誰です。私達のアスパラが少なくなったとケチな事を考えている方。そんな考えでは美味しいものが逃げて行きますぞ。

出店 八坂「イルギオットーネ」 駿河台「土桜」







人生の選択

人生の選択

昨日若い二人のあまりにも噛み合わない会話を聞いていて可笑しくて、ぷっと吹き出してしまいそうになったのでここに披露させてもらいます。
一人の男性はトラックの運転手をしているようで、その運送会社の作業服でした。もう一人の男性は白いワイシャツにノーネクタイでグレーのサマーウールのパンツを履いていました。二人は同級生らしく、偶然再会したようです。
トラックの運転手は「またスピード違反で切符を切られた上に罰金だよ。今回はオービスに引っかかって20キロオーバー、もう少しで免停だよ。免停になったらくびだよ」と苦々しく、少しも悪びれるでもなく煙草を吸いながらそう言いました。
もう一人は「僕はオービスにつかまった事はないよ。だって、オービスのあるところには病院があるから静かに走行するのが普通だよ。僕が入院していた時に静かに走行する車とそうでない車がどの位病人にとって悪影響なのか分かったからね」
その言葉を聞いた運転手は「そうか病院のあるところにはオービスがあると思えば良いんだ。なるほどそうすれば用心できる、勉強になったよ」と煙草を排水溝に投げ入れて足早に車に戻って行きました。
残された男は走り去る男を目で追ったがそれ以上言葉は出ませんでした。
この話ではありませんが、私達は絶えず選択を迫られています。日々、選択の連続と言っても良いでしょう。若い時はどうしても早急に結果を望みます。今しなければならない事を忘れて先を急ぎます。この話を環境のせいであるとか、学歴の違いだと言って簡単に済ませるのはちと早計です。人間は変われるのです。
この運転手はその機会を得ているのに少しも変わっていないのです。それさえ気付かないのです。おそらくこの先変われる機会は何百回、何千回とあるでしょう。しかしこれだけの猶予があっても気付かない人間には神は容赦しません。(キリスト教徒でもイスラム教徒でもないのでひとつの象徴としての神です)
こんな話をするのはこの歳になって、私よりずっと年上の人でもこのことを理解しない、理解しようとしない人が多くいるからです。いつもはそうじゃない人とお付き合いしているのでほとんど感じた事はありませんが、世の中には本当に多くこの事を分からずにただ歳を重ねて行く人の多い事に驚くとともに情けなさを感じます。「情けは人のためならず」なのに・・







2013年6月18日火曜日

開高健とクジラ屋

開高健とクジラ屋

どうしても忘れられない味と言うものがある。私は学生時代に生活費を稼がなければならずアルバイトに明け暮れた。友人のお陰で何とか大学の単位こそ取れたものの、読書などする暇もお金も無かった。
私が読書するようになったのは35歳を過ぎてからだ。子供が小学校高学年に差し掛かり、時間的にも精神的にも少しだけ余裕が生まれた頃だ。
受験に出るような日本文学の古典や海外の超有名どころの本は一応読んでいたが、トルーマンカポーティやヘミングウェイなど比較的近年のロストジェネレーションと呼ばれる作家のものは皆無に等しかった。そこで最初にヘミングウェイの「海流の中の島々」をお茶ノ水の三省堂で購入して読み始めた。

読み進めて行くうちにヘミングウェイのカジキや海に関するに対する圧倒する知識と筆致の素晴らしさに舌を巻いた。好きこそ物の上手なりと言う言葉があるように、その件になると我前、色彩が付いてくる。それまで白黒だった映画が急に天然食を纏い、3Dの立体映画のように迫りくる。なるほどこれがヘミングウェイの真骨頂かと遅まきながら感じたことを覚えている。これに調子を良くした私は自らをニックアダムスと呼んで良い気になっていた事は恥ずかしながら事実である。

そして次に手にしたのが開高健だった。最初に購入したのは小説ではなくエッセイだった。ヘミングウェイの影響から、釣りや魚に関して興味を持っていたからだ。大学の出版会から出されていた分厚い魚類図鑑を見ながら、氏の釣りあげる魚の正体を確認していた。氏の書くこれらのエッセイは旅行記としても面白いし、魚類の生態学としても楽しめた。そしてそれに続いて現れる彼の食への表現には驚いた。
いや、これほどまでに食に関して情熱的に書かれた文章に出会った事が無かった私はその博覧強記の知識と言葉による説明に生唾を飲んだ。そしてその感動を感じた場所こそが渋谷の元祖くじら屋だったのだ。

今でもあのとき食べたくじらのからあげの味を忘れない。

ここで断っておくが、私の生まれた頃には代用食としてのくじら肉の時代は終わっていた。普通にスーパーに行けば缶詰の大和煮は売っていたが、硬くて甘い肉を敢えて買う事はなかった。
偶然、その時に食べていたものが竜田揚げだった訳である。ただ単にそれだけである。

それから、擦り切れるほどヘミングウェイも開高健も読んだ。船に乗れない私なので生命と対峙する釣りの醍醐味は分からず仕舞だが、何となく美味しいものへの執念のようなものがふつふつと心の奥に湧いて来たような気がするのだ。だから辛うじて氏の天国の家の門柱にしがみ付く蟻程になってきたと思うのであるが、一方で氏は次のような事も書いていたのを思い出す。

「言葉を扱うものにとって、美味しさを表現する時に筆舌に尽くしがたいとか、言葉に表現的ない美味しさなどと書いては駄目だ。筆舌を尽くすのだ。そして言葉を選び、選びぬいて表現するのだ」と。
果たして蟻程に成長できたかやはり不安ではあるのだが。

出店 渋谷「くじら屋」



2013年6月15日土曜日

癖になる味

癖になる味

このところ昼飯時になると事務所を飛び出し、山手通り沿いの「香家」に入ってしまう。
目的は汁なし坦々麺である。今までも数回色々な店でこの手の坦々麺を食べたが気に入ったものは無かった。結論、どの店も中庸。
この「香家」の汁なし坦々麺は最初食べるとその鮮烈な山椒の辛さと、唐辛子を練り込んだ麺のダブルパンチで口がしびれて味が分からなくなる。
2回目に食べると、多少耐性が出来たのか唐辛子の甘みのようなものが感じられる。
そして3回食べると不思議な事に辛さに慣れてくる。
この店はいつも直球勝負なのだ。変化球など投げてこない。ずはっとインハイをついてくる。そこまで辛いものは駄目だと言う人にも、ちゃんと中速や低速のボールも用意してある。ただ、私は三振してもインハイの高速球を思いっきり振り切りたいので一番辛いものにさらに香菜をタブルで頼む。全てを器の中で良くかき混ぜて混然一体となった麺を口に入れる。間違っても啜っては駄目だ。辛さが喉にはりついてしまうから。梅雨の晴れ間の続く今日、また飛び出してインハイの直球を振りに出かけるか・・・


出店 中目黒「香家」



考えるということ

考えると言う事

以前から日本人のメディアリテラシーの弱さを訴えてきた。新聞を始めとするマスコミの多くの情報に流される。尤、明治以降土着の宗教心は悉く分解され再構築されているのだから仕方がないと言えば仕方がないのだが、もう少しましにならないか心配になる。
イトイさんがとても良い事を言っていた。何かを調べようとするとき、その筋の専門家には聞いてはいけないということである。これはその通りだと思う。最初に聞いたその専門家の意見がベースになってしまう。そうするとスタートの時点で左右上下の座標軸が動いてしまう。調整しようとしても中々上手くいかず、結局公正な判断にならないからだ。
そしてもうひとつそうして実感として手に入れたものでない知識は役に立たないことだ。
暗中模索、手探りで壁にぶつかりながら、方向を変え、様々なアンテナを働かして何かを得る知識は例え、専門家のそれとは違っていてもその道程が意味を持つ。
考えるとはそういうことだと思う。
インターネットの出現によって解消されるのかと言えば、答えは否である。解消どころかインターネットによって玉石混交の情報はさらに分離、独立し系統性を失う。ひとつのジャンルの情報だけではもはや関係性を見出す事は不可能なのである。
では何が必要なのだろうか。ひとえに多くの情報を俯瞰して見抜く目である。そう鷹が上空高くから、獲物とそうでないものを見抜くように、人間も情報の詰まったカプセルを瞬時に見抜き、関連させていく作業の事である。
なあに難しそうに見えるが慣れれば簡単な事である。どの情報とどの情報が関連しているのかパズルを解くように分かる。これを勝手に脳が判断していく。
例えば、アベノミクス、株安、円高、長期金利の上昇、米中対話、トルコのデモ、こうした情報を脳の篩にかけて再構築する。そう全ては密接に繋がっているからだ。この世の中関係の無いことなど実はないのだ。ひとつのゆらぎが宇宙を作ったように、この世に実在する現象の全ては関係性を持つ。
ある専門家が株価は2万円になると言っていた。それはそれでいい。その専門家はそう思っているのだから。
しかし、そこで私は考える。情報のカプセルを俯瞰して、そうなることの必然性を探して見るが、見当たらない。そう考えるとはそうした作業の繰り返し、積み重ねなのである。




2013年6月13日木曜日

ワインの話 舌の記憶

ワインの話

私がワインを多少齧るようになったのはロサンゼルスから帰国した友人とその後に続いたドクトルの影響が大である。ドクトルは持ち前の好奇心と財力、知力、機動力にものを言わせて、あれよ、あれよという間にワインの一家言となった。
それからドクトルは自分と同じ年のロートンムートシルトを楽しむ会を開くなど、美味しいワインは皆で飲むのあっぱれ騎士道精神を披露目、幸いにも私達はその精神に便乗し、ご相伴にあずかった。知力財力とも及ばぬ私は安いワインをほうぼうから取り寄せ少しずつワインの勉強を始めた。ワインの勉強と言えば聞こえはいいが、要するに色々なワインを飲む事である。舌の記憶以上に確かなものは無いと思っているからである。
ワインを勉強するうちに次第にワインと合う食事についても考えるようになった。ワインにも個性がある。その個性を際立たせるものが料理である。赤ワインは偉大なDRCをはじめ、ボルドーの4大シャトー、ペトリュスと上を見たらきりが無い。確かに、冬のシビエのような料理には赤ワインが欲しくなる。ペトリュスのビロードのような舌触りに、鴨のサルミソースが合わない訳は無い。
一方、普段飲むワインは白ワインが多い。モンラッシをはじめ、白ワインもピンからキリまであるが赤に比べると守備範囲はぐっと狭まってくるが、高ければ必ず美味しいというものでもないし、その地方独特のぶどう品種を知る事も楽しみである。
昨年はケヴュルツストラミネールという舌をかみそうな葡萄の品種のものを集中して飲んだ記憶がある。価格的にも手頃でそれでいて後味が良くケースで購入していた。その前の年にはヴィオニエという南フランスで主に栽培されている力強い白を飲んでいた。これなど鶏肉の料理とも大変相性が良かった。
そして今年はトロンテスというアルゼンチンの白だ。先日、ワインショップに行ったときチリワインが高くなっている事に驚いた。それに比べればアルゼンチンはまだマイナーなので高くない。それでいて、もこの価格では飲めない高品質のものが多い。はるかアンデスの山並みを望むメンドゥーサの乾燥した冷涼な気候がきっと功奏しているのだろう。
ずっと前の話になるが、駒沢公園の屋台でチョミパン(たぶん)というケバブのようなそれでいて、もっと野菜が多く、太いチョリソが入っているサンドウィッチのようなものを食べた事がある。アルゼンチンの屋台ではごく普通に売られているらしいが、中々の味だったと記憶している。
もうひとつ、これは都内のアルゼンチン料理店で食べられるかもしれないが、ロクロという地方色の強い煮込み料理がある。豆やトウモロコシを水で戻して、野菜と肉、臓物、チョリソを入れ、ことこと長時間煮込んで作る料理だ。日本のもつ煮込みと思ってもらえばいい。
こんな事を想像するだけでマーベックの赤にするか、トロンテスの白にするか考えている。いやはや酒飲みとは厄介なものだと自分ながら笑ってしまう。
代々木上原に前出のチョミパンの店が出来たと雑誌に書いてあった。チョミパンの味を確認して、週末にはチョミパンと白ワインとブランチを作ることにしよう。


追記

舌の記憶
頭の方の記憶はこのところすっかり抜け落ちて、つい最近の事でも思い出せないことがある。ハリウッドスターが相貌失認と告白したが、私などずっと前から電話番号と名前は覚えられないので諦めている。
ところがどうだろう舌の記憶と言うものは案外と忘れないものだ。
つい最近も20年前に駒沢公園で食べたチョリパンの事を思い出していた。何故あの時公園でアルゼンチンのソウルフードなるものが売られていたのか仔細は不明だが、あの味は忘れられない。
そうこうしているうちに代々木上原にこのチョリパンの専門店が出来たと雑誌に出ていた。店主はアルゼンチンで食べたその味が忘れられなくて、本場に戻り修業をしたと聞く。これは中々期待が出来る。
私はアルゼンチンには行った事が無い。メキシコより南に行った事が無いのだから仕方がないが、ブエノスアイレスには何故か興味がある。恐らく写真で見た街の風景がそう想わせるのか、それともピアソラのバンドネオンの音色がそうさせるのか郷愁を感じる。街の面白さはその街の表の顔と裏の顔を見る事にある。ディズニーランドのようなテーマパークのような薄っぺらな街はそれも出来ないが、ブエノスアイレスのような街では観察者として目を凝らせば、表でも裏が見えるし、逆もまたしかりである。そんな街かどの屋台でファストフードとして売られているのがチョリパンだ。
チョリパンの一番大切なところはチョリソである。もちろんこれを取り巻く、ソースやパンも大切だが、チョリソが不味くては駄目である。このチョリソはメキシコのチョリソとは違う。メキシコのように辛くない。しかし、噛めばしっかりと大地と肉の味がする。
 食べ方はアンデスの草原でガウチョが肉を食べるように大きな口で齧り付くのがいい。
以前、トロンテスの白が良いと思っていたが、食べてみるとこれには圧倒的にビールが合うと気が変わった。キルメスというブルーと白のアルゼンチンビールがいいだろう。スペイン語でビールの事をla cervezaと呼ぶらしい。こちらは女の子である。