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2013年6月15日土曜日

考えるということ

考えると言う事

以前から日本人のメディアリテラシーの弱さを訴えてきた。新聞を始めとするマスコミの多くの情報に流される。尤、明治以降土着の宗教心は悉く分解され再構築されているのだから仕方がないと言えば仕方がないのだが、もう少しましにならないか心配になる。
イトイさんがとても良い事を言っていた。何かを調べようとするとき、その筋の専門家には聞いてはいけないということである。これはその通りだと思う。最初に聞いたその専門家の意見がベースになってしまう。そうするとスタートの時点で左右上下の座標軸が動いてしまう。調整しようとしても中々上手くいかず、結局公正な判断にならないからだ。
そしてもうひとつそうして実感として手に入れたものでない知識は役に立たないことだ。
暗中模索、手探りで壁にぶつかりながら、方向を変え、様々なアンテナを働かして何かを得る知識は例え、専門家のそれとは違っていてもその道程が意味を持つ。
考えるとはそういうことだと思う。
インターネットの出現によって解消されるのかと言えば、答えは否である。解消どころかインターネットによって玉石混交の情報はさらに分離、独立し系統性を失う。ひとつのジャンルの情報だけではもはや関係性を見出す事は不可能なのである。
では何が必要なのだろうか。ひとえに多くの情報を俯瞰して見抜く目である。そう鷹が上空高くから、獲物とそうでないものを見抜くように、人間も情報の詰まったカプセルを瞬時に見抜き、関連させていく作業の事である。
なあに難しそうに見えるが慣れれば簡単な事である。どの情報とどの情報が関連しているのかパズルを解くように分かる。これを勝手に脳が判断していく。
例えば、アベノミクス、株安、円高、長期金利の上昇、米中対話、トルコのデモ、こうした情報を脳の篩にかけて再構築する。そう全ては密接に繋がっているからだ。この世の中関係の無いことなど実はないのだ。ひとつのゆらぎが宇宙を作ったように、この世に実在する現象の全ては関係性を持つ。
ある専門家が株価は2万円になると言っていた。それはそれでいい。その専門家はそう思っているのだから。
しかし、そこで私は考える。情報のカプセルを俯瞰して、そうなることの必然性を探して見るが、見当たらない。そう考えるとはそうした作業の繰り返し、積み重ねなのである。




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