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2013年11月8日金曜日

テロワール

ロワール

その男は湖を眼下に見下ろす暖炉の前でイームズのラウンジチェアに脚を組みながら一人ワインを飲んでいた。指先を少し広げたチューリップの形をした大ぶりのグラスにそのワインは注がれていた。
ボトルには擦り切れたラベルにVosne-Romanee 1er Cre Cros-Parantoux 1979と書かれている。グラスに注がれたワインは縁に雫を残しながら底に落ちていく。沈む太陽を見送るようにわずかに残った青空に映しだされたその液体はすみれ色に染まりながらゆっくりと溜飲される。
男はこのワインのアペラシオンを見学したことがある。ブルゴーニュでは土壌、気候、ぶどう品種を総じて=テロワールと呼ぶ。そしてそのことが特に大切にされる。前年にどんなに良いワインを作ったとしても天候不順でその力量を伴わない年には生産されない場合もある。もっともこれは地理的な特徴が大きく、ブルゴーニュがボルドーと比べてより北にあり夏の日照時間こそ変わらないものの、夏暑く、冬寒い大陸性気候が南部より顕著でしかも春の降水量が多く、収穫期の秋に少ないというワインにとっての最高の条件が重なるからだ。そして結果的により敏感で繊細なワインを作ることになる。
ブルゴーニュの土地の特徴は石灰質だという人がいる。間違ってはいないが正しい表現ではない。白ワインに有名なMONTRACHETがある。これは禿山と言う意味である。この言葉が表すようにブルゴーニュの土地の多くは母岩の上に薄い表土が重なり、一般的には山の頂に近いほど表土が薄くなる。だからMONTRACHETになる。
ブルゴーニュの母岩は一般的にバジョシアンとバトニアンというジュラ紀のものである。つまり石灰岩が主岩である。たからひとくくりに石灰岩質と呼ばれる事が多い。この母岩により土地に自然な起伏が生まれ、斜面上部は表土が薄く、小石が目立ち、下部は泥灰岩層が入る。平坦部の表土は酸化鉄の多く含んだ粘土質が多くなり赤っぽくみえる。
このワインは数年前までアンリ・ジャイエという著名な醸造家によって創りだされていた。残念ながら彼は他界し現在では親戚筋にあたる人物が代わりに作っている。人は変わったが現在でも先代の醸造法を頑なに守っているようだ。
クロ・パラントゥーが生産されるのはリュシュブールの斜面に位置する。馬の背に近く北東を向いているため特に冷涼である。小石が多く粘土石灰岩質にさらに泥土が混ざっている。男はその畑が特に赤っぽく見えたことをぼんやり思い出していた。
男は昨日、日本から戻ってきたばかりだった。男はジュネーブ空港で着ていたカシミアのコートを車のトランクに放り込み、迎えに来ていた運転手にアヌシーの街に行くように告げた。空港から市街まで20分ほど掛かる。程なくして真っ白なベントレーは滑るように酒屋に横付けされ、運転手がドアを開ける間もなく男は早足で店内に入っていった。
男は日本に行く前に酒屋の店主にあるワインを探してくれるように頼んでいた。男はもし手に入るならば相場の三倍を出すと店主に約束した。店主は知り合いのワイン商やレストランのコック達に片っ端からこのワインがあるか聞いて回ったが、そんなものあるわけないといった反応がほとんどで誰も店主の話を真面目に聞こうとはしなかった。もっとも年代物のワインというものは特に当たり年のワインは値が張るがまだ市場に存在する場合がある。しかし、当たり年でないものはさっさと市場から消えてしまうからだ。
男が日本に着いてから5日目の日だった。酒屋の店主から男に電話が入った。リヨンにある小さな知り合いのレストランで1本だけこのワインがあるという。それも石造りのセラー内で定温貯蔵されていた状態のよいものだった。それをレストランでは譲っても良いという話だった。男は値段を聞くまでもなく、店主にこのワインを買うように伝えた。
男は早速酒屋の主人に代金を払い、ワインについてあれこれ説明しようとする店主の口を塞ぐようにさらに手の中にチップをネジこんだ。店主は何も言えず笑みを浮かべただその男が乗る白いルールスロイスを見えなくなるまで見ていた。
男はそのワインボトルを労るように隣のベージュ色のコノリーレザーのシートの上に寝かせ、上から小さなドキュメンケースをボトルが揺れ落ちないように被せ、運転手に注意して運転するように指示してから目を閉じた。
車はつづれ折りの山道をゆっくりと駆け上がり、雪を頂いたモンブランが遠くに見える頃にはアヌシー湖は眼下に小さくなっていた。



-つづく-



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