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2013年1月16日水曜日

お好み焼き 大阪 ゆかり


お好み焼き 大阪 ゆかり

数年前、某金融機関に勤めるご仁が私の会社でこのゆかりをやらないかとの話があった。
幸い場所は貸すほどある。15年続けてきた飲食の経験もある。無いのは金とやる気だけ。そんな訳で食べに行ったがやらなかった。その内に秋葉原に出店し、横浜にもお店が出来た。私の関東1号店計画は泡沫した。
私は関東人である。息子に言わせればそれも東北に近い辺境人である。富士川より西には行ってはならないとされた蛮人なのだそうだ。であるからお好み焼きについて、どこの店が旨いとか不味いとかその基準自体曖昧である。道頓堀にある建物全体がお好み焼きの店に行ったことがある。お好み焼きは粉っぽいし、脂っこい。全くもって何故流行るのか理解できなかった。
ゆかりに行ったのは夙川に所用で行った帰りだった。某金融機関君の紹介するその店は梅田の地下街にあった。お世辞にも綺麗とは言えないその店は3時近くになるのに満席だった。しばらくして席に通され座ってまずビールを注文した。
暑い夏の時期、一仕事終えた後のビールは格別である。ほどなくしてお好み焼きが運ばれてきた。見た目はごく普通のお好み焼きである。一口入れただけでこの店の実力が分かった。軽いのである。見た目とは裏腹にしつこくない。中の野菜とそれをつなぐ生地はふわふわしていて粉っぽくない。これなら食べられる。2杯目のビールを飲みおえると同時にお好み焼きも完食した。
実は私はお好み焼きを食べていてつい飽きてしまうのだ。大体、三分の二くらい食べるともういいとなってしまう。ところが珍しくここは完食したのだ。それ以来、大阪に行くとここでお好みきを食べる。蛮人ではあるが富士川を超えて何とかここのお好み焼きを食べるために西に行くこの頃である。



AM3:50


AM 3:50

 美佐子の息子の学校は歩いて10分程の場所にある。幹線道路から一歩入ったところにあるその学校はとても静かで都内では珍しく土の広い校庭がある。このあたりは元々陸軍の練習所があった場所で、終戦後はその土地は分割され国の色々な施設に名前を変えた。近くには何の変哲もないグレーのコンクリートの建物が数多く存在する。それらはすべて官舎だった。この小学校にもこれらの官舎から通学する子供が多くいる。彼らの両親は有名大学を卒業し、国家公務員試験をパスしたいわゆる官僚と呼ばれる人種である。彼らの子供の多くは中学受験をして、別の中学に進む。美佐子の息子のクラスも3分の一の子供は中学受験をする。

 いじめが始まったのは今から半年前になる。美佐子は自分の息子に片親だと言う気持ちが強くならないように出来る限り、こざっぱりした綺麗な洋服を着せていた。若い子の間で流行っているようなダボダボのジーパンやトレーナーのようなストリートファッションはご法度だった。美佐子に言われた通りシャツはズボンの中にしまって、襟近くまでボタンをきちんと留めてその上にトレーナーを着ていた。ただズボンをベルトではなくサスペンダーで吊っていたのだった。

 体育の授業で着替える時だった。誰かがそのサスペンダーを指差して、へんなやつと言い始めた。その時は数人が冷やかし半分にそんな事を言っていたが、体育の授業が始まりみな授業に集中した。問題が起こったのは体育授業が終わって着替える時である。
Nと数人がサスペンダーを反対に付けて、息子が着替える時に困惑した顔を嘲笑したのだ。

 それ以来事あるごとにNと数人のいじめが始まった。ほんの些細なことをきっかけにいじめは陰湿さを増した。机の中にひどい言葉を書いた手紙と虫の死骸が入れられていたこともあった。下駄箱の靴に砂が入れられることもあった。息子もそんな現場を見て犯人を追い詰めようとしたが、まるで蜘蛛の子を散らすように要領よく逃げ去ってしまう。

 いじめの中心はNだった。彼は中学受験組だった。その中では成績はあまりぱっとしない方でなんとか辛うじて幾分名の通った私立中学の数校を目標にしていたが、塾で名前が張り出されるようなことはなかった。Nの両親は共働きだった。父親は大手製薬会社に勤務していたが休日は接待ゴルフで家には寝に帰るようなものだった。母親は父親と同じ大学の薬学部の後輩で卒業と同時に薬剤師の免許を取った。このところ色々な店で薬を扱うようになり、この資格はとても重宝がられ、週5日は家の近くの働きに出ていた。

 実を言うと美佐子の息子はNとほとんど接点がなかったのだ。遊んだこともなければ、何かのサークルで一緒だったと言うこともない。それなのに何故その暴力の矛先が向けられたのか誰もその理由を説明できなかった。ただ、いじめの標的がたまたま目の前にあったからだとしか言えない、それほどに無秩序で混沌とした。

 数人が駆け足で校門から出てきた。それからしばらくして美佐子の息子は下を向いたまま重い足取りで玄関から出てきた。周りには友達はいない。ひとりだった。浩一郎の息子は校門の横にそれをただ眺めて立っていた。サイレンの音が近づいては遠ざかっていった。



1981年のゴーストライダー Capter2 Ⅹ



 優子は田園調布の駅前にいた。洋一のアパートではなく別の場所で待ち合わせをしたかったのだ。それにしても時間に厳格な洋一なのに待ち合わせの時間にすでに15分遅刻していた。前日も深夜まで残業をしていたから仕方ないと優子は思ったが、それとは別に洋一を促すような催促の電話をしないと何故か決めていた。

 洋一が現れたのはそれから10分してからだった。洋一の車が優子の横にゴロゴロとディーゼルエンジンの音を鳴らしながら近づいてきた。洋一は優子に車に乗るように窓を開けて促したが、優子は洋一と目線を合わせずそのまま真っ直ぐ歩道を歩き続けていた。洋一はついに根負けして環八に出る直前で車のエンジンを切り、優子の前に両手を広げて立ちはだかった。

 洋一は遅刻したことを優子に詫びたが、優子はそのことを怒っていたのではなかった。久しぶりのデートでしかも駅で折角待ち合わせをしたのに車でやってきた洋一の無神経さに怒っていた。それに洋一の格好はどうみても寝起きのそれである。霜降りのチャンピオンのスエットパンツに黄色いグランドジャンバーをひっかけた格好は洋一の部屋着そのままだ。
 優子は洋一のジャンパー胸に張り付けられたイーグルのワッペンを何も言わず指差した。洋一は優子が何故指差しているのか分からず、何か上着についているのではないかとしきりにワッペンのあたりを触ったが結局それが何だったのか分からぬまま、運転席に戻りエンジンを掛けた。

 車は環八を左折しそのまま走り続けた。休日の環八は特に混雑する。午後になると二子玉川にあるショッピングセンターに向かう車が幹線道路を埋め尽くす。洋一はその手前で左折し第三京浜に入った。洋一の車は三車線ある真ん中をもうこれ以上でないというエンジンの悲鳴とともに走り続けた。右や左から赤や黄色のスポーツカーが洋一の車を追い抜いていく。
 誰かが洋一の車のことをシーラカンスだと言っていたが満更でもなかった。洋一はどうも最新のものにあまり興味が持てない。いくら性能や装備が充実していると言っても自分に似合わないと思っている。洋一は新しいものより使い古されてそれなりに時間を感じさせるものが好きだった。
 洋一はカーラジオのチャンネルをFENにセットした。FENは洋一の部屋ではノイズが多くて聴こえない、第三京浜でも保土ヶ谷を過ぎないと旨く電波を拾うことが出来ないのだ。ラジオからノイズ混じりにレイパーカージュニアの歌うウーマンニーズラブが聞こえて来た。車は警察署を左折し134号線と直角に交わる道を真っ直ぐ走り続けた。窓からは馴染みのサーフショップに並べられた真新しい色とりどりのサーフボードが見える。優子はやっと洋一に向かって「暑い」と一言しゃべった。今日初めての会話だった。