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2013年3月29日金曜日

エピジェネシス


エピジェネシス

私は大人になるまで大方の大人は私と同じように好きでもない勉強つまり強制された受験勉強を乗り越えて何とか大学に入りそして社会に出る。程度の差こそあれ同じようなコースなのだろうと思っていた。ところが妻の友人の家庭は違っていた。親二人が医師である事もさながら、その父親(祖父)は裁判官、そして二人の子供も全員東大である。東大が偉いと言う訳ではないが、門外漢の私からしても日本の学問の最高府であることは間違いない。私には手の届くどころか志望校とさえ口に出来ない代物だった。確かに二人の子供の優秀さは窺い知ることは出来たので遺伝的要素と言ってしまえばそれまでである。
ダーウィンの親戚フランシス・ゴールトンはその事を「遺伝的天才」と言う本の中で、人間の能力は生まれつき決まっていると書いている。
しかしながら反対の事を言う人もいる。孔子先生は其の書の中で犁牛の例えを説いている。ご存知であろうが犁牛とはまだら牛のことで、その牛でも立派な牛になる事から、人は家柄や身分で決まるのではなく、その後の人生であると言っている。またバラス・スキナーというアメリカの心理学者も人間の能力は教育と環境が全て決定するという同じように学説している。どうなのだろう、どちらが正しくてどちらが間違っているのだろう。
こんな二つの例がある。
一つは経済力、教育環境の優れた家庭にやってきた養子の話。生まれて間もないその子の実父は麻薬中毒で刑務所に入り、母はすでに疾走し、施設に預けられていた。実夫は養育を放棄し、NPOが里親を探していたら、子供の居ない大学教授の夫婦が手をあげもらわれていった。子供は其の夫婦に何不自由なく育ててもらった。物語は残念ながらハッピーエンドではなく、その子は20歳を待たずして、人を殺害し父親と同じ刑務所に入ったという話である。
もうひとつは貧しいニューヨークのスラムの環境に暮らし、乞食同様の生活をしていた子供が独学で勉強し、見事大学に入り輝かしい研究成果をあげて、数学界のノーベル賞と言われるフィールズ賞を受けるという話だ。
極端な話であるがこの話は前述の意見がどちらも正しくかつ間違っていると言う事になる。つまりは遺伝的要素も環境的要素も関係するということになる。
友人の脳外科医に聞いた話だが、脳には可塑性というものがあるらしい。どこか一つが壊れても他の別の場所が補完し、失った能力をカバーしようとする。
それと面白い事を言っていたのは時々脳というのはこの可塑性がオーバーランするらしいのだ。何かを欠いたことで別の何かが特別に強化される。
確かに天才と呼ばれる人の中にはこうした一つの特別な能力が強化された人がいる。他の事は出来ないのに特別の能力を備えた人だ。現代社会になってこうした人は天才と言われるようになったが、昔はどうだったのだろうきっと差別の対象だったのではないだろうか。
話を先の東大の家庭に戻そう。彼らは決して何かが出来ない天才ではない。何でもできる秀才なのだ。そうジェネラリストだ。そうしたジェネラリストの秀才はどうして作られるのか。
ある夏休み、日焼けしてハワイから日本に戻る機内で妻がこんな事を言っていた。あの家庭では夏休みに九州に行くらしいというのだ。何のためかと聞くと、子供に阿蘇の外輪山を見せたいということらしい。さらに、裁判官を定年で退官した祖父母は事あるごとに孫に虫や観天望気の事を細やかに話すそうだった。
私の中でパチンと音がした。決して血管が切れた訳ではない。()そう、環境はやはり大切なのである。もちろんある程度の遺伝的優秀さがなければこれとて旨くはいかない。
エピジェネシス、この言葉は簡単に言ってしまえば環境が遺伝子の発現を制御するという意味だ。この言葉を知った時には溜飲が下がる思いだった。つまり、元々の遺伝的優秀さも何もしなければ100%開花することは難しい。花壇の花のように必要な時に必要な分の水やりが欠かせないということ。つまり環境は遺伝的能力を開花させる触媒のようなもので、細胞内のプロモーターのような役割なのだと。大切なのは時期、方法、強度である。時期を間違えれば根が凍る。やりすぎれば根腐れする。多すぎても同様である。
で結果はどうだったか。それは言わない事にしよう。