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2013年4月9日火曜日

成熟した街


成熟した街

暫く前になるが事務所の近くの古書店で辻静雄氏の初版本の著書を購入した。辻静雄氏はご存知のように日本のフランス料理の黎明期に活躍した人物である。今も関西に彼の名を冠した料理学校があるので名は人口に膾炙していると思う。
其の書の題名は「パリのビストロ」だった。すぐさま悪食大食漢の私は読了しパリの街角の美味しさと楽しさを目で味わったものだ。
ある日、私の中の調べ虫が騒ぎだし突然その本に掲載された店が今もあるものかと興味を持った。インターネットの発達する昨今ではこうした検索は事欠かず可能である。するとどうだろう、恐らく7割近い店が現存するのである。もちろんオーナーが代替わりし、経営が別の人に渡ったものもあろうが、そこに掲載されている店名は存在するのだ。
彼がこの本を出版したのは1971年ということだから、ざっと42年前である。その店がパリには現存するとは驚きである。
一方、日本はどうだろう。昔から食べ物と曲者には興味のあった私は多くのこの類の本を読んだ。読んだと言えばおこがましいので卑下して言えば眺めた程度であるが、その走りはなんと言ってもグルマンこと山本益博氏だった。彼は80年代に多くの著作(共著も含めて)出版している。私はまだ駆け出しのサラリーマンで氏の著作を読みながら多くの飲食店を行脚した。山本氏は私より一回り年上である。その先輩が経験した貴重な情報を得て、なるほど、ほうほうとしたり顔で面相していたのである。
当時の氏はかなり辛辣な評価をしていた。ところが最近の彼はめっきりそれを奥にしまって毀誉褒貶の前段はしなくなった。彼に言わせると幾ら指摘したところで店主の志が変わらなければその店は変わらないというのは尤である。私もそれ以来、師の教えに従い毀誉はすれど褒貶はしないと決めている。
これもまた古書店から取り寄せたわけだが、彼の1980年代の彼の著作を取り寄せた。以前、愛読していた本であるが、多くの書籍同様行方不明になってしまったものだ。その著作には当時、氏がこれはと思った店が数多く評価されている。懐かしい名前が見受けられる。
そう私も良くかよった青山のキハチも出ていた。青山墓地地の手前のあの店は懐かしい。熊谷氏の料理は私の大のお気に入りでワタリガニや甲殻類と相性抜群のキハチスパイスは今となっては私の料理のDNAに取り込まれている。
ところがどうだろうそこに掲載している店で現存する店が少ない。よほどの名店であっても今はその姿を残さない店が多いのだ。前述の辻氏の著作に登場するパリの名店と比べてその無くなった店の多い事が分かる。
食べると言う事は人間の基本的要求であると同時に文化の成熟度を表す鏡だと思う。父や母から伝えられた食と言う文化を自らの子孫に繋ぐ行為は文化的行為であり、多くの先進国ではその指標は高い。されど日本は国民の多くが新しいもの、珍しいものに飛び付く。正当なものを供していてもすぐ飽きられてしまう。すると店の方も手を変え品を変え客に媚びを売り、その結果、築き上げた信用と歴史を台無しにしてしまう。
こういうと店が悪いように聞こえるが、その大罪の大方は客である私達にある。山本氏の敬愛する京都の「千花」で氏が大将と交わした鯛の刺身に対しての食べ方はそのまま客側の食に対する啓蒙の欠如という危機感として現れている。
私はユニクロが嫌いである。妻はそう公言する私をユニクロで買っている人の事を非難しているようだと詰め寄るが、嫌いな物は嫌いなのである。人の批判ではなく私の問題である。洋服も食べ物も安いから、人が買っているからという発想自体が嫌いなのだ。何を食べるか、何を着るかはその人の価値観の表意であるからそのような事を一事が万事として扱う事は私には出来ないのだ。
私がユニクロを嫌いな理由は、その商品に思想が感じられないからだ。
飲食店でも全く同じ。作り手の思想が感じられない店には行く気がしない。
先日、家の近くの中華料理店にいった。お世辞にもお金を掛けたとは言い難い、前の店舗(和食店)の内装をほとんどそのまま使った店であったが、その料理には思想が感じられた。某有名中華料理店の調理人がその三分の一程度の値段で同じ味を提供している。恐らく彼は旧元でもっと安く多くの人にその味を提供したいと思ったのだろう。
全ての料理にそれが感じられた。おそらくその店が続く限り私は通う事になるだろう。
世の中、流れに掉さしていただけでは疲れるし風当たりも強いのは分かる。長い物にまかれるというのも世の常であろう。だけど、そんな世の中だからこそ、食べ物と着るものくらい自分の拘り持っていいのではないだろうか。こんな頑固おやじが一人くらいいても世の中悪くないと思うのだが如何であろう。山本氏のフェイスブックを覗くとまだまだ食に対する興味と関心がかの年をしても窺える。先日もナパのフレンチランドリーにっ行った記事が掲載されていた。全米一、予約の獲れづらい名店は同時にしっかりとした思想を持っているのだ。
昨年、京都のイルギォットーネに行った。娘が嫁ぐ前日である。多くの客が薦められるコースメニューを頼む中、私はアルカルトで注文した。すると店の奥から別の女性が現れ一品ずつ調理法を私に相談した。もちろんその全ては私を満足させた。恐らく私の気持ちがホールの人に伝わり、そしてその気持ちが調理人に伝わり、それが料理となってブーメランのように戻ってきたようだった。翌日、老眼鏡を忘れた私に心のこもった文章が添えられその老眼鏡は戻ってきた。以心伝心。