このブログを検索

2013年5月9日木曜日

結婚とは


結婚とは

ジャレド・ダイアモンドという人が良い事を言っている。結婚について一番大切な事は「結婚における一番大事な物を探さないこと」だと。

つまり結婚には様々な要素がうまく機能しなければならず(例えば性生活、子供、経済、社会性などなど)ひとつに絞り込めないからだと。

なるほど人生に置いて最も大切な事が「人生とは何ぞや」と自分探しをしてはいけないということに似ているかもしれない。

彼はそういう半面、同時に文明はたったひとつの要素で崩壊する事もあると著書の中で述べている。例えばカルタゴのローマ、イースター島の森林伐採のようにたったひとつの事が文明を崩壊させると前述とは全く反対の意見を述べているのだ。

結婚においてもどちらかのたった一つの事で全てを崩壊させる場合もある。それが言葉なのか、行動なのかそれは人によって千差万別である。

知り合いの中にもそうした離婚経験者がいる。多くは子供もおらず性格の不一致により離婚したケースが多いが、中には何十年連れ添って子供が成長したのを機に分かれた人もいる。彼ら、彼女らにとって「別れた」方が、その後の人生に置いて意味があると思ったのだろう。
考えてみると結婚とは全くの別人格の二人が同じ屋根の下で暮らすようになる事である。親と子供とは訳が違う。血縁ではない。

そんな二人がひとつずつ自分たちのアルバムを築いてきた訳である。昔が良かったなどと思うのは少し勝手すぎるような気がする。そうした経験全てを通じて今の結婚生活があるわけだし、もう一度、あのときのようにと思っても出来るはずがない。猪突猛進に若気の至りとばかりに壁にぶつかりそれでも突き進んだ若き日々、子育てに人間関係に悩み忸怩たる思いの中年、子供が成長し手の掛らなくなった分、寂しさと達成感の入り混ざる壮年から老年。私達はひとつずつ、こうしたアルバムを作ってきたのだ。だから、今の自分をもう一度作りなおすなんてことは出来ない。リセットするにしても過去の人生はリセットできないのだから。

女性は丁度子供が自立するころに色々な不調が襲ってくる。これは男性も同じ。自律神経が旨く機能しなくなったり、メランコリックになる。女性も男性もそうしたときにはいつも以上に感情的になる私も妻に止めてほしいと思う癖はあるが、そんな些細な事は、本当はどうでも良いことなのだ。私はそうした全人格的に見た彼女に今もこれからも居て欲しいと思うし、この先の人生が「別れた」方が良いと思えないのだ。

人間というのは過去の記憶をすぐに横に追いやる。私だって忘れてしまうような事もある。でも、そんな時こそアルバムを見返すと良い。そこには懸命だった若い頃の自分たちが写っており、その歴史を裏切れないから。

もっともそう思っているのは世の男性の方で、女性は今に見ていろと手ぐすね引いて別れのタイミングを見計らっているかもしれない。

今日もそうならないよう深く寝息を立てている我が家の守護聖人にそっと手を合わせるのである。
どうか私より先に死なないでください。私の死に水をとって下さい。その後の人生はあなたの好きなようにしていいから、棺桶に入った私の亡きがらを3人で身送ってほしいと心に願うのである。




フライング アジフライ


フライング アジフライ

アジフライが美味しいと感じるようになったのは鎌倉に通うようになってからの事だった。

それまで私が食べていたアジフライは固い、魚臭い、不味いという悪の三拍子の揃ったそれはそれは酷いものだったからだ。
前にも申し上げたように私の生まれたKという北関東の街は内陸にあり、とにかく魚が少ない。ご多分にもれずアジフライに使われたアジは干物のような食感で薄くてどうにもならない代物だった。

東京に出てきても定食屋でアジフライを注文することは無かった。どうせ美味しくないという刷り込みのせいだろう。他人に美味しいと薦められても無難なコロッケやハンバーグを頼んでいた。鎌倉に行くようにならなければ一生アジフライの美味しさに出会う事はなかったと思う。

前飼っていたゴールデンレトリバーはメスでジーニーという名前だった。私達の家族に文字通り幸せを運んだ魔法の犬だった。この犬と夏休みは鎌倉で過ごした。子供達も幼く、毎日のようにプールに通い(当時はフリーパス券があった)真っ黒に日焼けした子供たちの隣にはいつもジーニーがいた。
犬を飼うと良い事がある。私のような風体でも犬を飼っていると言うことだけで色々な人が話しかけてくる。鎌倉ではよそ者なのに犬のお陰で友達も出来た。そんな中にUさんという地元の人がいた。その人は黒のラブラドールを飼っており、その犬はジーニーより2.3歳若いやんちゃ盛りのオス犬だった。気難しいジーニーも年下の子供には打ち解け、二人でよく遊んでいた。

当時の私達はまだ鎌倉周辺の事にも疎く、魚は角のMという店で買っていた。ここは雑誌にも紹介され観光客も多く来ていた。ある朝の散歩の時、Uさんが魚を食べるなら魚佐次が旨いよと教えてくれたので、少しずつこの店に通うようになった。
そんなある日、いつも買っていた魚屋が発泡スチロールのケースからアジの干物を店先に並べていた。箱の横には沼津漁協と書かれていた。どうやら私達は小坪産と書かれた沼津産干物を食べていたようだった。

魚佐次はどんな魚も外れはない。刺身ならばヒラメ、タイ、カンパチ、シマアジ、アオリイカなどどれを食べても魚の旨みが凝縮している。そして切り方がまた良い。鯛の刺身は薄すぎると弾力が感じられず、厚すぎると食感が悪い。絶妙な大きさ厚さである。

刺身を食べる事が多いのだが、贅沢な話で、毎日となると少し別の物が食べたくなる。
Uさんがアジフライも旨いよと教えてくれていたが、件の折り、旨いアジフライに出会ったことの無い性か今まで頼んだ事はなかったが、この日はたっぷりと波乗りをした後だったので猛烈にお腹が空いていてシマアジの定食だけでは少し足りない気がした。そこでアジフライを1枚だけ注文する事にした。

小さなお皿に尻尾がはみ出るような大きさのアジが真ん中に置かれて出て来た。衣はこんがりキツネ色に揚がっていた。アツアツの衣にウスターソースをかけるとじゅっとソースが滲みこむ音がした。口に入れたそれは私が今まで毛嫌いしていたアジフライとは全くの別物。魚の生臭さは全くしないどころか、良い香りがする。そして身は今まで生きていましたよと言っているように弾力があり、それでいて柔らかい。水分も丁度いい。私は瞬く間に一枚を平らげ急いで二枚を注文したのだった。シマアジ定食に3枚のアジフライが私の胃袋に収まった事になる。それ以来、アジフライは私の大好物になった。
目黒のさんまという話がある。私の場合は魚佐次のアジフライである。ここでしか注文しないスペシャリテな訳である。

このアジフライが時々山を越えて富岡まで出張することがある。まさにフライング、アジフライである。友人との美味しい一杯のためこのアジフライは飛ぶのだ。ジーニーが魔法使いだったのはどうやら本当らしい。