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2013年6月6日木曜日

袖すりあうも

袖すりあうも

飲食店をやっていた頃、一日の売り上げが一定額以上に達すると大入り袋を配った。大した額ではないが目標を達成したという喜びを共有できた。そのような時には従業員を連れて夜食を食べに出掛けた。近場の恵比寿周辺が多かったが、私がお酒を飲まない日には車で多少の遠出もした。
その一つが青山墓地の入り口にあった台湾ラーメンを出す「かおたんラーメン
」だった。今もこの店は続いている。当時と同じように壊れそうな木造のバラックの建物のままだ。
焦がした葱の匂いが食欲を呼び起こす。飲食店をやっていたが二足のわらじで翌朝はサラリーマンと同じ時間に出社した。睡眠時間は4時間くらいだった。
毎朝、胃が疲れていた。当たり前だ、眠る前にラーメンを食べているのだから、でも無性に食べたくなる味だった。
その店がどうか分からないが、巷では人口調味料を使う中華料理店は目の敵にされているらしい。理由は体に良くないとのことだが、私は全然気にしない。高校生の時、友人の家の近くで食べていた店はおたまでその白い粉をすくって投入していたから今更言われても困る。
かおたんラーメンはそんな若き日の走り続けていた時の思い出だ。
この場所は西麻布も近く、お店をはねた飲食店に勤める女性客も見かける。あるときそれと思しき見ず知らずの隣り合わせの女性の酔客にもう一軒行こうと誘われた。足元も覚束ないその女性はシャネル風の黄色のスーツを着ていた。横顔をよくみるとうっすら口の周りに黒いものが・・・・そしてその体つきはなんとなくゴツゴツしている。私は目の据わったその「女性」にやんわり断りを入れ、後ろを振り返らず恵比寿に戻った。

出店 青山「かおたんラーメン」



家畜化と幼児成熟

家畜化と幼児成熟

しばらく前にジャレド・ダイアモンドの「銃、病原菌、鉄」という本を読んだ。その中で家畜化する定義をいくつか指し示していたが、私の一番気になったのは成長の速度が速くなるという点であった。豚や牛を見れば、いかに人間にとって都合が良く速く合理的な成長が求められ、その方向に向かっていることが容易に理解できよう。他方では人間は自らを文明の檻に閉じ込めて家畜化を推進しているともいえる。平日の朝の電車はまるで家畜を運ぶトラックそのものだ。こうした家畜化は人間が文明を手に入れた事の裏返しであるなら、避けて通れないのかもしれない。

家畜化されるとイノシシの顔は潰れ、耳は下がってくるという。オオカミが犬になったときも同様だった。こうした家畜化される動物の寿命は短い。
友人がタトゥーを平気で入れる若者に対して、「体髪膚これを親に受く 敢えて毀傷せざるは、考の始めなり」と故事を引用していたが、そこまででないにしても自らの体に傷を付けるということは野生の動物ではまずない。あるとすれば家畜化された動物がストレスにより自虐する行為と一致する。

本来入れ墨は犯罪者を一般の人間と区別するために用いられた。流人のそれである。それが後世になって使い方は同様にある特殊な集団の印として高い意味を持った。その印こそ、私はアンダーグラウンドな人間であると他者にメッセージを発していた。
ところが近年の入れ墨はその点に置いても異質である。若者のファションの一部と言われているが誠に理解に苦しむ。いや、百歩譲って個人の自由と言う事はある程度理解できるが、それが問題なのは若年のうちにその行為に及ぶ事である。これは前出した家畜化の定義とも一致する。

幼児成熟ということばがある。これも家畜化の一面である。動物が若くして生殖能力を得て、大人子供のようになることだ。テレビに映るアイドルを見れば分かる。
特徴は顎が細く手足が長い。彼ら、彼女らは若くしてテレビや映画の影響を受けて、自分もそうなりたいと願う。願うだけならまだしもそうしてみたいと自らの行動起こす。本来なら我が子の事を一番心配して止めなければならない親たちも家畜化された生活のせいで判断力は鈍り、子供の事を考える余裕もない。そして子供はさらに家畜化されていく。彼女、彼らには時間の概念が無い。これも家畜化された動物に共通する。テレビのコマーシャルで塾の講師が「今でしょ」と嘯く。人間は50年以上の長い成長過程を歩まなければならない。今は一瞬、そのあとに膨大な時間の滓が付いてくる。


家畜化は運命だとしても五感を研ぎ澄まし、物事の本質を見る癖をつけなければ人間は豚や牛以下になってしまう。左腕に太陽のタトゥーをしていたあの女の子は自分の子供にそれを聞かれたら何と答えるのだろう、いやはやそんなことも聞かない子供で一緒にタトゥーをいれるのだろうか・・