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2013年7月12日金曜日

チャーハン・チャーハン・チャーハン

チャーハン・チャーハン・チャーハン

チャーハンの美味しさの秘訣は何だろう。ある人に言わせるとあのご飯のパラパラ具合だという。また、ある人にいわせれば艶やかな油にコーティングされた米の旨さだという。つまりこの二つとも要はご飯なのである。ご飯が旨いかどうかが決め手となるのは間違いないだろう。
ところが一人、何万円もする高級店で出されたチャーハンは感心しなかった。いや、きちんと調理されていたのだが美味しいと感じなかったのである。
話しは変わるが、クリントイーストウッドの「グラントリノ」という映画がある。古いアメ車のネーミングから題名をとったこの映画の中で、主人公のイースウッドが道路に面した質素なデッキでビールを飲んでいるシーンがある。彼が飲んでいたのはブルーリボンと言うアメリカではポピュラーなビールである。このシーンで、もし彼が東海岸のサミュエルアダムか何かを飲んでいたとしたら、興醒め、つまらないシーンとなってしまうだろう。つまりここでブルーリボンビールはブルーカラーの象徴であって、気取ったビールでは駄目なのだ。
実はチャーハンもこれに似ている気がする。私が高級店で美味しくないと感じたのは、その場所がチャーハンには似つかわしくなかったと感じたからだ。
私が今まで一番美味しいとと感じたチャーハンは30年近く前になる。叔父の建築現場の下働きの手伝いをした夏の暑い日だった。塀の基礎を打つためにスコップで15メートルほど土やガラを取り除いた作業の後だった。手は日焼けし、汗はシャツをびっしょり、Tシャツはびしょ濡れになるが、強い日差しですぐまた乾いてしまうそんな日だった。叔父が近くの中華店で昼食をご馳走してくれた。メニューを見ずに私はチャーハンとラーメンと餃子を注文した。料理が出てくるまでに、冷水器から自分で蛇口をひねり、水を立て続けに4.5杯は飲んだ。テレビの下にはスポーツ新聞とページの折れた週刊誌が無造作に積み上げられていた。連載漫画の一つを読みおえた頃、まずギョーザが運ばれてきた。小皿ではなく、五個ある餃子の皿の上から醤油と御酢、ラー油を掛けて次々に口に運び一皿目を平らげた。次に運ばれてきたのはラーメンとチャーハン。みるからに普通のチャーハンとラーメンである。チャーハンには別にスープが付いている。申し訳程度に切られ透けて見えるような薄いチャーシューの乗ったラーメンから食べ始める。スープは飲まない。そして次にチャーハンに移る。チャーハンにもほとんど何も入っていない。肉なのか何か分からないほど小さくなった茶色い物体、ピンクの片鱗から辛うじて分かるナルト、そして葱がご飯に絡まっている。レンゲでそれらを大きく掬い口に放り込む。先程、別の職人が器用に運転していたユンボを連想した。途中、レンゲで葱の浮いたスープで口を湿らしてから、またご飯を掬う。最後にラーメンのスープを飲みほして昼食終了である。
ラーメンのスープと同じものを出している中華店に時々出会う。あれはいけない、チャーハンのスープはラーメンのスープより濃くなければいけない。とまあ、偉そうに言ったものの、要するにチャーハンはお腹が空いて、労働をして、そして汗を一杯かいて、食べるものが最良と言う事になる。それ以外はどうでもよいのかもしれない。チャーハン・チャーハン・チャーハン、この響きはどうも私の食欲中枢を刺激するらしい。今日も普通の、本当にごく普通のチャーハンを食べにいこう。普通が最良、チャーハンに限っては








息子は似るもの

息子は似るもの

息子が帰ってきて、ソファに座りながら世間の出来事やニュースの話題を会話する。息子は口数が少ない方ではないし、色々と自分の事も話す。といっても25歳を過ぎた息子である。私はその年の頃にはとっくに社会に出ていたのだから大人と言えば大人なのであるが、ぼんやりと彼の説を聞いている。

この頃、その物言いが笑ってしまうほど、私に似て来たと思う。マスコミの意見でも簡単には靡かない。いや、そうしたポピュリズムを警戒する節があるのか、中々辛辣な意見を言う。ただし、見習う点もある。知らない事はすぐ調べる。今はリテラシーさえ持っていればインターネットという便利な道具がある。

昨日もツールドフランスに出場している選手の国旗が分からなかった。私などスロバニアとスロベキアの区別さえつかないのだから仕方ないのだが、白と赤と青の下地に紋章が描かれていた。名前からすると東欧系の名前である。結局、彼はスロバキヤの選手だった。私の知識はチェコスロバキアで停止していたのだ。

その直後彼の体質は普通の人より3倍は早く乳酸を除去できるらしいと言ったのがまずかった。すかさず息子に白い目で見られた。彼の目には(本当にそうなら珍しい体質だね。それを証明する科学的根拠のあるデータがないと何とも言えない。原爆と原発を混同して、放射線の特性も理解せず声高に危ない危ないと言っている人達の理論と同じで空虚である・・・とまで言ったかは分からないがそんな具合だと思う)

彼は小さなときから自分の事を「わたくし」といっていた。今も同じ。俺でも僕でもない、わたくしである。

このところ知らない間に美術館巡りをしている。先日も休みなのにふらっといなくなったら横浜美術館に行っていた。ロスにいるときも私達の行かなかったロサンゼルス郡の美術館に出掛けていた。観光は嫌いだけど文化的施設を見るのは好きだという。全く笑ってしまった。これも同じである。

息子がバスクの料理はどうだったと聞く。素直に普通だったと答えた。バスク語を勉強している彼は得意満面の笑顔で、だから言ったでしょ、普通だって。

それでも自分で確認しないと済まないのだから、これもまた同じなのである。



他の人から見れば焼いても煮ても食えない男に見えるのだろうな。それでも息子は息子である。目に入れられない大きさであるが、やはり可愛いのだ。