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2013年8月17日土曜日

劇場化する日本 大衆迎合とポプュリズム

日本という国が劇場化しつつあるということは今に始まった訳ではなく、その一翼をマスコミが担っているという事実も既知のことではあるがあまりに嘆かわしいのでつい筆を執った次第である。

昨日、日本を代表するような企業の人事担当者20人が、マスコミのアンケートに答えるという形式で次のような質問に答えていた。

その質問は東京ドームで一番ビールを売ったアルバイトを経験した人と大学の授業でオール優を取った人でどちらを選ぶかという質問に18社の人事担当者が前者を採用したいと答えたのだ。

私が勤めていた会社ならともかく、日本を代表するような企業の担当者が本当にそう答えたとしたらもはや嘆かわしいを通り越して、日本の行く末が心配である。

何故このような傾向になったのであろうか。

日本という国が鎖国から積極的に西欧文明を吸収し、富国強兵、殖産興業に励んだのはご存知の通り、そして帝国主義的政策から開戦し、今度は焦土と化すまでとことん焼きつくされた訳である。戦後の日本はアメリカ化と呼べるほど戦勝国アメリカに追随し、復興を遂げたわけである。

しかし考えてみると明治のころからにわか西欧化しているものの、西欧文明の本質は全く無視してきた。いや、あえて都合の悪いところは見て見ぬふりをしてきたとも呼べるのではないか。

西欧文明にはその体制維持のためにも、正なる番人が必要だった。膨大な植民地をいちいち一人が見る訳にはいかないからだ、そこで正なる番人が必要となる。欧米ではそれをプレッピースクールが社会装置として機能し、真のジェントルマンを輩出し、その制度を維持してきた訳である。

ノブレスオブリージとはそうした土台があって初めて機能するのである。

日本はどうだろう。多くの人が日本人は勤勉で、真面目で、集団的だと思っているだろうが、本当だろうか。

私はそうすることがただ単に都合が良かった(その社会体制において)からだと思う。

何故なら、騎士道精神やジェントルマンは個人的ではなく、その社会において相互交換的装置として機能し、より体制的であるからだ。

一方日本人のそれは己にとって都合が良い、集団の排除理論(自分たちと異質な物を嫌悪する)としての集団を形成するのだ。

だから、トヨタの奥田氏がそろそろ嫉妬や妬みでなく、良いものを賞賛する社会にならないだろうかといったとしてもそう簡単にはこの日本人気質は変わらないのだと思う。

Sパパが企業の人事担当者のレベルの低さを嘆いていたが、人事担当者の方には申し訳ないが、確かにそういう側面も歪めない。

トップに「こんなに面白い人がいる」と言ったほうが受けがいいのである。「こんな優秀なひとがいる」より確実に自分に返ってくる不確実性のリスクも軽減できるからだ。

ものづくり大国も、集団性も幻想である。その社会に都合のよいシュプレキコールであり、詭弁なのだ。

その証拠にどのくらいの人が後者を選ぶのであろうか。自問してみるべきである。

境界のないこの国の自由は堕落と平均化のしっぺ返しでもあるのだ。