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2013年10月30日水曜日

サーフィンが教えてくれたこと

 30代のはじめサーフィンから離れていた時期がありました。離れていたというよりサーフィンをやっていることをあからさまに公言しなくなったのです。子育てや仕事でそれどころではなかったという理由もありますが、サーフィンをやっているというとみんなが怪訝な顔をするからでした。ある年配の人に「そんな若者のスポーツより紳士的なゴルフをやりなさい」と勧められたこともあります。要するにサーフィンは世間の目からすると「そんな若者の」スポーツだったのです。

私が初めてサーフィンを知ったのは19歳の夏でした。正確には初めてその時サーフボードを触ったのです。それから6か月が過ぎた頃、アルバイトで貯めたお金を握りしめて中古のサーフボードを買いました。タウン&カントリーのデーンケアロハモデルのボードはところどころリペアの跡が黄ばんでいてお世辞にも綺麗な板とは言えませんでした。あの頃、日本ではサーフボードがロングからショート変化し、ボード自体にもコンケーブやチャンネル、ツインフィンにトライフィンと新しい性能がどんどん取り入れられていきました。

ノンシャランを気取った自由な学生生活も就職というごく当たり前の工程表の中で忘れ去られていきました。リーのジーンズにTシャツの生活から、紺色のリクルート用の背広に着替え生活は次第に海から離れていきました。
あの頃、なぜ自分が実力もないのにあれほど過信していたのか分かりません。分からないですが絶対に自分は志望企業に受かると思っていました。その世間知らずの確信は一日であっけなく崩れました。

私にとって教職を諦め企業就職を決めてからそれが人生初めての挫折でした。私は折れた心を携えて友人とサーフボードを車に付けて西浜に出かけました。しばらくぶりの海でした。オフショアの風に飛ばされる水飛沫きを見ていて、ちっぽけな自分が何かに固執していることに気がつきました。その固執こそ自分を視野狭窄にしているのだと。それまで企業の就職担当者から志望理由を聞かれて、紋切型に暗記した内容を答えていた自分が馬鹿らしくなりました。それから知名度や売上でなく好きな事に携われる会社を候補に入れました。
おかしなぐらいにこちらはトントン拍子に運んでいきました。そして数社から内定をもらいました。その中でも蓄音機と犬のマークのレコード会社では、何が得意かと聞かれ、謝ることですと伝えると担当部長が大笑いして、「それゃうちに向いているよ、君は洋楽より演歌の方がいい、きっといい仕事をする」とも言われたことがありました。

私のサーフィンは少しも上手くならないのは今に始まったことではありません。当時もショートになってからろくに海に入っておらず、新しく買ったアイパのツインフィンは浮力もなく、時々サーフィンをする鈍った身体には扱える代物ではなかったからです。
それから数年が経って二人目の子供が生まれ、仕事は相変わらず二足のわらじどころか三足のわらじで多忙を極めましたが生活の息苦しさは変わりませんでした。
ちょうどその頃ロングボードが復権し始めていました。ロングボードの最後の時期にサーフィンに触れた私にはこの復権には全く抵抗がありませんでした。

初めて買った新品のロングボードは9フィートの水色のティントの美しいサーフボードハワイのものでした。シングルフィンではなく、小さなフィンが付いていました。それから数本を買い換えているのですが一向に上手くならない。いつになったら大きくて深いボトムターンが出来るのだろうと上手い人を見ると羨ましくなります。それでもサーフィンを続けています。どんなに風で波がぐしゃぐしゃでも、小さくてテイクオフが精一杯な波でも笑顔で楽しむことにしています。海に入った以上嫌な顔でサーフィンをしたくないと思うからです。だって、好きな事をしているのですから。

 海の上から陸を見ると、陸から見える風景とは全く違うものが見えます。ハワイだって海の上からワイキキを見ると自分が違う世界からやってきたと錯覚を覚えます。

 それにしてもこの古い写真はサーフィンを始めた当時のものです。場所は伊豆の大浜です。断っておきますがTシャツをトランクスに入れているのはシャツのコーラが溢れたからでいつもではありません。()いくら田舎者でもその程度は理解しておりました()

そんな昔も懐かしみながらもそれでもいつかはサーフィンもできなくなります。でもそれまで何とかサーフィンを続けたいのです。だから無理は禁物ソローリソローリと様子を伺いながら身体と相談してサーフアップをするのです。ただし、みんなにサーフィンを続けているとこれからはしっかりと公言しながら・・