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2013年12月2日月曜日

クラス会


大学のクラス会というのは色々な人に聞いてみるが中々珍しいらしい。確かに新入生の頃最初クラスに振り分けられるが共通する授業は幾つかにとどまり、あとは各人が好きな授業をとっていく。さらに上級に進めばゼミや各人専門が分かれ一緒に集うことは少なくなるからだ。

ところが昨年辺りから有志が立ち上がりこのクラス会が開催されるようになった。
ある作家が面白いことを言っていたのを思い出した。高校卒業が最終学歴のその作家が言うには友達と呼べる友達は高校まで一人も居なかったというのである。今いる友だちはそれ以降つまり社会に出てからなのだと。確かに一理あると思った。私も考えてみると中学までの友達で今でも付き合っている人はいない。高校で数人、大学ではその倍以上になる。そして社会人になってからの友人のほうが圧倒的に多い。その理由は簡単である。義務教育という好き嫌い関係なく押し込まれた箱の中で私達は友達ごっこをしていた。しかしあくまでそれは「ごっこ」であり、実際の友達ではない。私達はそこまで成長していないからだ。そしてその枠がなくなればその友達との音信は無くなる。
高校や大学の場合、決められた箱は同じだが、社会的階層が近しい人が多い。つまりその後の社会に出ても同じようなステージで出会う機会も多くなる。だからその一部の人と繋がっていられるのだろうと推測する。

ところが社会に出てからの友達というのは決められた箱のなかで選ぶわけではない。子供の学校だったり、共通の趣味だったり、自らがその箱自身を選ぶことが出来る。そこには共通の話題が存在する。ここが肝要である。この共通の話題が無いまたは少ない場合、友達との関係は疎遠になっていくからだ。私も一度だけ中学の同窓会に参加したことがある。苦労をして幹事をされた方には申し訳ないのだが出席していること自体苦痛だった。共通の話題が全く無いのである。

話を大学のクラス会に戻そう。今回で3回目であるがどうしてなかなか楽しい。もちろん会社の肩書やその規模で人を判断する年齢ではなくなったということもあるのだろうが、話題を見つけやすい。その理由は合う前にお互いの概況を確認できるということが大きいのではと思う。そうフェイスブックやブログを読めば今どんな仕事をしているとか、どんな趣味なのかといったことは悠々に理解できるからだ。このことは前と比べて大きな変化だと思う。中には会社の重職のためこうしたソーシャルネットワークに情報の発信をすることの出来ない人もいる。そうした人でも相手の情報は読み取れるわけだ。私は4年前にこのリスクとメリットをよく考えた上で友人からやってみればと勧められた。お陰で今では色々な友達との会話がしやすくなった。
時々、妻より早く私が昼食に食べたものを知っている輩もいるがそれはご愛嬌。だから悪い事や嘘はこのSNSでは出来ない。情報というのはものすごい速さで正誤性の合わないものに収斂していくという法則があるからだ。それ以外ならとても使いやすくハッピーな道具なのだが。