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2013年12月12日木曜日

舌の表現者 平松洋子

この通りの健啖家であるからして食に関するエッセイを読むというより、片っ端から貪り食うている感がある。断っておくが決して美食家などではない、ただの食いしん坊それだけである。
売れっ子のK.Mさんという女流作家も食に関する文章を書くが、私には腑に落ちない。無理やり好きなふりをして書いているように感じるからだ。彼女は食より飲に興味があるのではないかしらんと思ってしまう。その女流作家が開高健氏のエッセイをべた褒めする。確かに氏のものは迫力もあり、氏の食に対する興味がヒシヒシと伝わってくるし、その博覧強記ぶりは知識の獲得という面では大層役に立つ。ロマネ・コンティ1935なんて飲んでいなくてもその素晴らしさがじわじわと伝わってくる。しかし、氏はゲテモノまで食の対象としているため、気とお腹の弱い私などはたじろいでしまう。
そこへいくと平松洋子さんのエッセイは庶民的だ。アマゾンやメコン川まで行ってナマズを食べるわけではない。神保町や須守坂で用が足りる。用が足りるからと言って彼女の食のアンテナが凡庸かと言うと違う。大変デリケートで敏感である。我が家では「寝る前の平松洋子」という決まり事がある。私同様食べることが大好きな息子は平松洋子の食のエッセイを読んでベッドに入ると何か幸せな気分になれるのだと言う。だから彼女のエッセイはすべて持っている。このところ食に関するエッセイ以外に本や物に関するものを書いていたが、最近また食に関するエッセイを発表した。題名は「ひさしぶりの海苔弁」である。挿絵は安西水丸氏。表紙一面の漆黒のイラストが興味をひき起こす。へそ曲がりで理屈屋の息子ではあるが仕方あるまい。中学生の頃より、ラカンやドゥルーズ、デリダ、西田幾多郎、和辻哲郎などを読んでいた早成であるからして、彼の真贋を見抜く目はこの老人をしても慧眼と言ざる得ない。村上春樹氏の小説も首を傾げる息子も、このエッセイは黙って二階に持っていき、彼のベットサイドに鎮座することになるであろうと密かに期待をしている。それにしてもヨウコさんというのはどうして食いしん坊で美食家で料理上手なのだろう。偶然とはいえ恐れ入谷の鬼子母神である。