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2013年12月21日土曜日

余白のある人間

曜日の朝、何気なくテレビを見ていると二十代の男性三名の座談会が行われていた。ひとりは映画やドラマで大活躍のイケメン俳優、もう一人はこれまたテレビでもよくコメントをしている東大大学院の社会学者、そして三人目は史上最年少の直木賞作家である。
そんな若い三人の話題が「説得力のある人の何か」という話題になった。本当にそうかは別としてこの人が言っているのだから間違いはないだろうと思える、その何かとは何なのかということである。すると最年少直木賞作家は「余白」じゃないかなとストレートな答え。一同納得。しかしながら私にはその作家が3人の中で一番余白がなく見えた。そして俳優の彼が一番余白があるように。

幼い頃から私はこの余白が持てなかった。いや、余白があればどれほど楽だったろうと恨めしくさえ思う。いくら勉強して一生懸命説明してもこの余白が無ければ中々人を説得することは難しい。反面、余白を持った人は一言二言話すだけで、話題の中心にのぼり人々は彼の話を高説とばかり、固唾を呑んで聞く。
とある飲料メーカーの就職活動をしている時に4人が横に並んでいた。三人目まではごく普通の面接だった。しかし4人目は違った。前の人の面接が終わるとその男はすっと立ち上がり、袋から取り出した空き瓶を面接官に見せた。それはそのメーカーの販売している飲料瓶のとても古いものだった。ごく当たり前の面接はその男の行為によって様相が変わり、どちらが面接官か分からないほどその場は盛り上がり、その男は見事内定を獲得していた。
前述の例を出すまでもなく、こうした場を作る要素としての余白が世間では持てはやされている。多くの人はそのことを知らない。たとえ知っていたとしてもそれが自然に出来るというのはもはや才能以外にないと思わせるフシがあるので諦めている。
しかし考えていただきたい。余白のある人間は確かに説得力がある。でもその説得力の効用はずっと続くのだろうか。もちろんきちんとした知見と教養に裏打ちされたものなら問題はなかろうが、単なる余白だけとなると風船の空気がしぼむ如くあっという間に消えてなくなってしまう。そう、単なる余白なわけですから。

そうこう考えると、余白がなくても精一杯情報を吐露し、説得しようとした愚かしい行為のせめてもの慰めになればと思うのである。