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2014年2月28日金曜日

平和な宗教

我が家もそうではあるが大方の日本人は宗教にさほど染まってないのではあるまいか。いや、熱心な信者の方には申し訳ないが、ある国のように未だダーウィンの進化論を否定する宗教を国民が信奉する国ではないと言いたいのだ。
結婚式はキリスト教、葬儀は仏式、初詣に神社にお参りする。これが平均的日本人であると思う。彼の国に言わせれば節操もないということになってしまうがこれが平均的日本人なのだから仕方あるまい。
我が国の歴史を見れば分かる通り、八百万の神、つまり多神教国家だった。これは日本だけでなく古代ギリシャもそうであったように、土着の風習が年月によって生成されたものだ。その後、中国から仏教がもたらされた。仏教は当時の権力者によって利用され急速に拡大した。明治政府が廃仏毀釈を行うまでこの土着の宗教と仏教は併存した。
号令を発したまでは良かったもののすでに拡大してしまった仏教は国民の中に定着し、権力者の自由にはならず結局容認し、そのまま看過され今のような形を作ることになった。
いま世界は宗教的イデオロギーが経済や貧困と結びついて、あちこちで軋轢を生んでいる。キリスト教とイスラム教だけでなく、それぞれの宗教内にも反目と敵対が生じている。
一神教が悪いといっているのではないが、他を容認しない限り平穏は訪れない。そのままではハンチントンの文明の衝突そのものになってしまう。
私はそんな一神教同士の対立をこの日本が仲裁できるのではと密かに期待している。何故なら大方の日本人は多神教であり、他の選択を容認しているからだ。イスラム教もキリスト教も認められる懐の深さを持っている。
ところが最近嫌な事件が起こっている。図書館にあるアンネフランクの書籍を誰かが毀損したのだ。全くもって卑劣な行為である。自らの主張のため他人の事由を奪う情けない行為である。
もっともどこぞの国の首相は隣国が行わないでくれと嫌がっている行為を行い、まるで英雄気取りである。首相というのは国民の最大の幸福のために国民の板塀となって働くものだと石橋湛山も言っていたが、それとはかけ離れた愚挙である。
誰かがいっていた、国が手詰まりになると国民は極右と極左に走ると。









2014年2月27日木曜日

読書のすすめ

子供が生まれてすぐ、ある人から言われたことがあった。子供に本を好きにさせるコツは強制的に読ませないことだと。学校で夏休みの宿題としての読書感想文など戦前の思想教育そのままで子供の自発性を育てない悪癖だとも言っていた。今は昔のように全員が同じ本を強制的に読むのではなく、何冊かのうちから選ぶという幾分選択の幅が広がったもののその考える根っこは同じである。
その人は子供にとって良い本を与える必要はないと言っていた。大人が本を読みその本を片付けずにテーブルでも机でもどこでも良いから子供が手にすることの出来る場所に置いておくことが肝要なのだと。読む、読まないは子供の自発性に任せれば良い。
植物も水を与えすぎれば根腐れする。自分で成長するためには適量の水、それもやや少ない位の水を与えるだけで植物の生命力を生かすことは、子供の教育にも当てはまる。
私は自分がそういう環境でなかったから、一層そのことの重要性が分かった。もっとも私の方は水が多すぎたわけではなくほとんど与えられなかった方なのだが。
息子が中学の時、一度先生の面談に行ったことがある。教員室の書庫を見て大学の研究室かと見間違えるほどその蔵書は充実していた。
あるときウォーラーステインの世界経済システムについて中学になったばかりの息子に嵩をくくって息子に聞くと、するするとそのオリエンタリズムの問題点まで検証した答えが帰ってきた。これには驚いた。
知らず知らずのうちに読んでいるのだ。親が何も言わなくても、目の前にある本は知識の原石だ。それを見過ごすことが出来なかったのだ。だから私は雑多な本の中に他の大人が青臭というようなものも進んで読んできた。
Ç P スノウが二つの文化の中で文系の学問と理系の学問が乖離し、ともに接合点を持たないと悲観したが、そうでもあるまい。
サンデルやハイティントンの理論の問題点、センの思想的体系を理解し、その上で理系分野の学問を習得できないとは限るまい。そのためにもやはり読書は第一歩だと思うのだが。




2014年2月26日水曜日

鯊釣道楽

子供の頃は河がすぐ近くだったがまともな釣り道具など持っていなかった。もっぱら手づかみがその頃の近所の子供達の習わしだった。運悪く刺のある魚を掴むと2.3日腫れが引かなかった。
大人になって釣りに誘われても船に弱い私は船に乗らず、漁港近くの寿司屋で帰船まで時間を過ごしていた。
その人は釣りが好きだった。当時は好きというより、そうでもしなければ自分の居場所が無かったのではないだろうか。その人は専門書の出版の仕事をしていてそれなりに名のしれた会社だったが書籍離れの世間の逆風はそのままで、所有する資産の担保を条件に社長に推された。結局、職を辞し家に戻った。家では母親が寝ていた。癌で助からないと知りながら日めくりカレンダーの紙を剥がすごとく死へのカウントダウンを数えなければならなかった。あるとき私がその人の様子を見に行くと、本人は釣りに行って留守にしていると家人が言う。場所は大体想像がついた。運河沿いのその場所につくとその人は寂しそうに背中を丸めて釣り糸を垂らしていた。私は何も言わずその人の横に座り、知らぬ間に竿を伸ばしていた。それが私の最初の鯊釣だった。
その人とはその後何回も鯊釣に出かけた。私が船に乗れないことを知ってかいつも鯊釣だった。
鯊釣の仕掛けはとても単純なものだった。延べ竿という、するすると中から筒が伸びていく和竿の先につり糸を括りつけ、天秤にハリスを仕掛ける。
その針先に餌のジャリメをちょこんと付けて海の中に放り込めば良い。
ところがこの鯊釣も奥が深い。鯊が深みに行ってしまえばこの竿では釣れない。陸から釣をするのは限られた時期だけになる。そしてその日の海の状況によって全く釣れないこともある。
いつだったかお台場の先でバケツいっぱい鯊が連れたので、翌日も大漁とばかり息せきこんで出かけたは良かったが全く釣れないこともあった。
小坪の漁港でもよく釣った。私が逗留していると今から行くと電話が入る。東京から原付バイクで乗り付けて一緒に釣りをした。
ここの鯊は東京湾の鯊とは種類が違う。幾分、小さく色が薄い。地元では岩鯊と言っていた。
考えてみると小坪と葉山はすぐ隣り合わせである。葉山では御方がこの鯊の研究をしていたくらいだからさぞ種類も豊富だったのだろう。
その人は釣った魚を無駄にしなかった。小指ほどの鯊でも天麩羅にして食べた。大きな鯊が釣れれば、刺し身にして、その肝も和えて食した。
その人が亡くなって一年がたつ。もう一緒に釣りはできないが、その人への感謝気持ちで今年の夏は釣り糸を垂らしてみようか。いや、もう少し大きくなったら孫に鯊釣を教えてやろう。釣りは老人から学ぶのが粋なのだから。






2014年2月25日火曜日

不平不満で世の中は変わらない

先日、国会前を車で通り過ぎた時に赤信号を無視して大挙して車道を横断する群衆に遭遇した。警察官の指示に従わず彼らの行動は暴挙という他ない。どうやら、左翼系の集会の最中らしい。
話は変わるが、和食がユネスコで無形文化遺産に登録されたという。日本以外で和食を体験されたことのある人ならお分かりだと思うが、ニューヨーク、パリ、ロンドン世界中に和食店は存在するが、どれをとっても日本のそれには敵わない。敵わないという表現ではなく、もう一つ下層の類なのだ。そうレベルが違うのだ。日本の老舗うなぎ店がパリに出店している。ここの味も本家とは別物であったことは前にも記したと思うが、ウォルドルフ・アストリア近くの和食店も和食といえば和食かもしれないが、チェーン店の居酒屋と変わらなかった。こうした理由を職人さんに聞いたことがある。理由は現地の食材では日本の本家の味は出ないというのだ。野菜や肉類はまだいい、刺し身にするような鮮魚が鮮魚ではないといっていた。彼らはその事を知ってはいるがどうしようもない事として看過して料理を作っているのだ。
そんな折、銀座で和食店を営む奥田氏がパリで和食店を開店させたと聞いた。御存知の通り彼の料理には妥協はない。そんな彼がパリに鮮魚店をオープンさせるつもりでやっていくと雑誌で語っていた。大いに注目である。海外の和食店の壁を乗り越えてほしいと願うばかりだ。
ところがそんな記事に中傷する輩がいる。アフリカでは餓死する子供がいる中でそのような高級和食は必要ないというのだ。アホらしくて普段なら取り合わないところであるがデモの群衆の件もあるのでここで断っておきたい。
その御仁はボランティアの語源が「志願兵」であるということはご存知であろうか、そもそも政治的理由が源なのだ。政治的、宗教的個人の思想は暴力や強制で押し付けるべきではない。そうしたならばナチスドイツや旧態日本軍国主義者と何ら変わらないからだ。
デモに参加することを否定しているわけではない。ただ、彼らは家の前にうずたかく積み上げられた雪の山を10歳の少年が何も言わず黙々とスコップで片付けていた事を知っているのだろうか。不平不満で世の中は変えられないのだ。





2014年2月24日月曜日

「らしさ」とは

広く人口に膾炙している「何々らしさ」という言葉を聞くと、私の中の天邪鬼の虫が騒ぎ出すから言うわけではないが、何か違和感を覚える。

例えば日本人らしさと言うと、多くの人は控えめで、勤勉で実直であるなどと表現される。本当にすべての日本人がそのような筈はないのに強制的にタグを付けられている気がする。

家守の仕事は街と直結している。その街の中で仕事をするのだから当たり前といえば当たり前なのだが、ここでも「らしさ」が顔を出す。「銀座らしさ」「渋谷らしさ」とは何だろう。高級でハイセンスなことが銀座らしさなのだろうか。109に代表される若者のファッションが渋谷らしさなのだろうか。

「らしさ」がひとり歩きした街を一つだけ知っている。原宿の竹下通りである。まさにあの街は「らしさ」の凝縮である。どこをとっても金太郎飴のように同じ「らしさ」が顔を出す。

私の働く中目黒も20年前には飲食店も物品販売店も無かった。目黒川沿いには小規模な工場や倉庫が軒を並べていた。20年前の中目黒らしさはそんな光景だった。
もちろん「らしさ」を全否定するつもりはない。ある漫画家が自分の好きな家を建てると言って奇抜な家を建てようとして住民から非難されたように、あまりに場違いなものは敬遠される。

あるボストン在住の都市計画の専門家と東京について話をしたことがある。彼は東京はニューヨーク、ロンドン、パリとも違う特異な街だと言っていた。私がニューヨークやパリのように長い年月を掛けて熟成されるような街づくりを手本とするべきではないかとの意見にきっぱりノーと言い放った。東京こそスクラップ&ビルドを続けなければならないと。そうしなければこの街は衰退していく運命にあると続けた。

飲食店のまね事をしているときに15年いやそれ以上続けて老舗にしたいと思っていた。後になってその考えが誤っていたことに気がついた。老舗とは変わらず立ち止まっている訳ではない。絶えず社会の変化を受け変質している。ただ、その変質を最小限に止めようと莫大な労力を使っているのだ。

「らしさ」とは時代を映す鏡である。あまりに「らしさ」を追求すると流行を追いかけるのと同様、流れている川の水をひと掬いするのに等しい。そして流れは私たちを置いていく。

先般もとある建物の企画でこの「らしさ」をという言葉を耳にした。もちろん悪気はないし、前述した街と乖離しない程度の常識的「らしさ」を指してのことであろうが、やはり私には「らしさ」を必要とするのは幼児化した頭と功利に目が眩んだ商人だけだと思うのだが如何であろうか。

建物にもいつの時代でも残るかっこよさは必ず存在する。いや、そう思いたいとの願望でもあるのだ。








ネットワークの情報特性

グーグル・マップを使っていて意外なことを経験した人は多いのではないか。東京や横浜で利用している際には道路の混雑状況がリアルタイムに表示されるのに、地方に行くとそうでない。過日も同様のことを経験した。軽井沢から高崎までの道路情報を見ると(グーグル・マップ)ところどころに渋滞マークはあるもののそんなに酷い渋滞ではない。よしと車を進めたものの今度はビッシリ車が道路を埋め尽くして身動きがとれない。これが分かっていれば別の道を考えただけにくやしさがにじみ出る。

食べログを見ていても登録者数の少ない店の評価は極端に顕れる。登録者の多い店はそれなりに適意な評価となるが、少ないとなると首を傾げたくなる場合も多い。

考えてみればサンプル数が少なければ結果は大きく現実と乖離してしまう可能性が高い一方、サンプル数が多ければ極端なものは除外される。学内テストの成績の標準分布と同じ事なのにその特性を理解せずに使ってしまう。くれぐれもその性格お忘れなきよう。



2014年2月23日日曜日

あるがままを受け入れる

先日の私は軽井沢に3日間閉じ込められた。記録的な大雪で全ての交通網が遮断された。もっとも、鉄道に関しては2日後には復旧したが、四足の家族二人と一緒となると車をおいて電車では戻れない。結局、予定より3日間多く滞在することになった。
私が逗留していたのは一戸建てのログハウスだったので孤立感は倍増された。玄関からホテルに続く道は完全に雪で封鎖され、朝食をとるためにラッセルして道を作った。朝食前の良い運動にはなった。

こういうときに大方の人は事態を受け入れている。自然の前では人間の力など無力であることを理解している。ところが、一部の人は口角泡を飛ばしホテルの従業員に文句を言っている。自分はどうしても帰らなければならないといい静止するのも振り切り車に乗り込み出て行ってしまった。案の定、車が途中でスタックしてホテルの救援要請の電話が入った。今度はホテルの従業員の車もスタックして余計に事態を悪化させてしまった。そして、本人お礼も言わず部屋に消えていってしまった。
レット・イット・ビー、そう人生は思うようにならない。なるようになるさ。この歌詞を思い出す。

ところが3日もすると何やらそうとばかり言っていられない悶々とした気持ちになる。一つは情報が錯綜していることだ、これによって多くの人が被害を受けた。前日まで正常運転の予定としていた新幹線は完全に運転中止、運転再開するとのアナウンスも結局再開できず多くの人が立ち往生し、駅は人でごった返した。

立ち往生で言えば、碓氷バイパスに立ち往生した300台近い車両にも情報が届いていない。もっと手前で道路管理者が警告をするべきだった。

そして自治体も慣れていないを言い訳にひどい対応だった。軽井沢町は3日経っても南側道路は一車線しか通行できず、北口の駅前は雪が残り車の通行に支障をきたしていた。除雪されているのは警察署の前だけ。笑えるジョークだ。除雪の下手くそさは軽井沢に限ったことではなく、安中市や前橋市も同様だった。道路の真ん中に雪を積み上げるので右折や左折の車線が封鎖され大渋滞を巻き起こしていた。

昔、新潟県の豪雪で有名な小さな町に行った時にあまりに整然と除雪されていたので宿の主人に理由を聞いたことがある。すると主人は町の人達が除雪のある取り決めをしていてそれが長年のルールになっているというのだ。なるほど自衛隊の手を借りなくても、こんな小さな集団で事前に準備することで災害になることを最小にとどめていると感心した。
あるがままを受け入れる。大切なことだ。ただし、一方で人間は考える葦でもある。同じような過ちを犯さぬよう学習する動物でもあるのだ。






2014年2月21日金曜日

スキーのすすめ

このところ艾年を境にスキーをまた始めた。回数は多くはないが行ける時に行こうと出不精な私がスキーに行く。

雪山は全てを覆い尽くすから好きだ。真っ白な雪が実社会の様々な軋轢や問題を覆い隠すかのようだ。
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スキーをするなら断然自前の道具を揃えられることをお勧めする。もちろん財布と細君の許しの範囲ではあるが。
 道具に関しては決して高い道具でなくても良い。自分が好きだと思える道具であれば良い。滑走面のテクスチャーを考えたり、雪質に合わせてワックスを選んだりする。これもまた楽しい。自分が調整した道具が上手くいった時はさらに楽しいからだ。
 
リフトに一人で乗るのも思考の整理に役立ち宜しいが、隣り合わせた見ず知らずの人と会話することも楽しい。インターネットの仮想空間に慣れた私たちには、相手のことを知らない全くの他人との会話をほとんどしなくなったからだ。

先日も日帰りでスキーに来ていた20代の若者と会話した。やはりスキーは楽しいと。そしてストレスの解消になると言っていた。リフトを降りるまでの束の間の会話、それがまた簡潔で宜しい。





2014年2月20日木曜日

マスコミの凋落

夕方テレビを付けると顔を異様にひっぱり若作りをしている女性キャスターが出ていた。私はこの人が嫌いである。過日は我慢して聞いていた。航空会社のマイルが不正に使われたニュースだった。最後に「マイルは現金とは別だとお考えください」と締めた。

馬鹿じゃなかろうか。全く、マイルの実体を調べていないだけでなく、法律のほの字でも教えてやりたくなる。マイル不正はいけない。犯罪だから。しかし、日本航空は他の航空会社と比べてもマイルが使いやすい。それよりもマイルを現金と同じように使えると宣伝しておきながら目に見えないブラックアウトをする航空会社が如何に多いことか

。それらは政治的、地勢的バリケードをうずたかく積み上げ、日本の法律を反故にする。消費者契約法もその前ではかたなしだ。マスコミに流れるニュースはその程度のうわべのものなのかと失望する。もはやニュースは報道番組ではなく、グルメとゴシップ芸能情報誌のようである。





2014年2月19日水曜日

言葉の問題

村上春樹氏の新作「ドライブ・マイ・カー」での文章の一部が問題になっているという。私も読んでみた、確かに北海道の実在する町の名前を記している。そしてその女性に向かって「***町ならみんなタバコを道に捨てているだろう」と書かれている。これを見て一部の町民が目くじらを立てたわけだ。私たちはそんな公共のルールを守らない人間ではないと。彼らは文章全体を読んで作者の意図を理解しているのだろうか。
例えば私のことを家人の誰かが「北関東の辺境の人間が魚を食べて美味しいとか、美味しくないとか、ホザイている事自体馬鹿馬鹿しい」と言ったとする。だからといってこれが本当に北関東の人全てを馬鹿にしているわけではない。私のことを特定して揶揄しているだけだ。私個人の特定にはディレクトリが役立つ、これはよく私たちも使う。関西人だからとか、関東の人はなど頻繁に使う。つまりすべての人がそうだと言っていないし、悪意もない。あるのはその女性に対する怒りや失望だ。
こんな事を抗議する町議たちは今のマスコミにも似ている。重箱の隅をつついて全体を見ない。
そう考えると小説家というのは大変な職業である。そういえばこんな事があって筆を折った人がいた。村上氏にはそうなってほしくないと願うのである。






2014年2月16日日曜日

違和感

四谷にある学校とアパートの往復で四谷界隈を歩くことはほとんどなかった。ところがどうしたことかその日はパチンコ屋のすぐ先の路地を歩いてみたくなった。パチンコで負けたせいか、今でも理由はわからない。
路地は坂になっていて下っている。丁度新宿通を背にして南側に行く道だ。道はうねうねと曲がりながら途中幾つも道は分岐していた。
坂の途中まで下ると右手が崖になっていた。雨水と苔に覆われた無機質のコンクリートの壁が獣の皮膚の表面に出来た潰瘍のように小さく無数に盛り上がっていた。
人気のない木造の家屋化の窓が開け放たれていた。猫がこちらを睨む。夏の日差しも落ち気温が下がっているはずなのに一向に涼しくならない。谷地になっているからなのか風が通らない。身体に汗がべトッとまとわりつく。
臭気が漂ってきた。下水道の匂いだ。どこかに臭気の原因の入り口があるのだろうが見つからない。
振り返ると大きな黒い動物が横切った。猫にしては大きい。ヤツデの葉の陰に隠れてしまった。目だけが光ってこちらを見ていたが、居なくなってしまった。
通りに出て時計に目をやると8時を回っていた。こんな狭い空間に2時間もいたことになる。
後になってその辺り一帯が鮫河橋と言われる東京でも三指にあたる貧民街であったことをしる。谷にくるといつも違和感を覚えるのはあの日の既視感かそれとも風のいたずらか。

2014年2月15日土曜日

労災病院

私は毎朝、父が息を引き取った病院の前を通って会社に通っている。理由は高速道路の出口に位置しているためその場所を通らなければならないのだ。その病院は最近建て替えられたばかりで当時の汚くて消毒薬臭い病院の姿は何処にも見付けられないが、何故か私はそこを凝視できない。
父が危篤でこの病院に運ばれたとの知らせを受けた時、私は岐阜に赴任していた。父は元気なとき一度だけ岐阜を訪ねてきたことがある。妻が好物の料理を作って何日でも泊まっていって下さいと言ったのに翌日にはもう出掛けていた。それ以来、父には会っていない。
父と私が特別に不仲だった訳ではない。私は自分の生活に精一杯だった。母と父は既にその頃離婚していて父は一人暮らしだった。
父は台湾によく出掛けていた。あちらで陶芸の指導もしていたようである。私に台湾の友人から貰ったという手紙を見せてくれたことがある。父は得意そうに便箋に書かれた先生という文字を誇らしげに私に見せたが、台湾では普通の敬称で誰にでも付けることは知っていたが、父には話さなかった。
父は夢を見ていた。アムール川のほとりで岩陰に隠れているのだろうか、細身のルガー拳銃を手にしている。父はあの頃体験した馬賊と一戦を思い出していたのかもしれない。
人は死ぬ前に自分が一番輝いていた時を夢見るそうである。死と隣り合わせの瞬間ほど輝かしいものはないから。私はどんな夢を見るのか今から不安である。




2014年2月14日金曜日

中田さん

青年が10号通りの中華屋を出る頃には雨はあがっていた。商店街のモザイク模様の歩道は街路灯の冷たい光と月明かりを反射している。
商店街を抜けると青年の住んでいるアパートはすぐそこだ。築50年以上の木造二階建てのアパートは贔屓目に見ても綺麗とは言いがたい。水道道路に面して建っているため大きな車が通るたびに激しく揺れた。
開け放しの玄関から中に入ると細長い廊下が続く。天井にはいくつかの裸電球がついているが半分くらいは切れていて光を放っていない。どの光も弱々しく、そのまわりを夥しい夏の虫が飛び回っている。
階段を登ったすぐ左側が青年の部屋だった。階段を一歩一歩ゆっくりと上がる。それでもギシギシと音がしてしまう。階段の踏面はコンクリートで塗り固められていてそれがすり減って手前に傾斜している。後ろから誰かに引っ張られているそんな重さを感じる階段だ。
ここに住んでいるのはほとんど老人だった。いや、青年は誰一人正確には入居者の歳など分からなかったが勝手に独居老人と決めつけていた。
何故なら廊下で出会う誰もの目が精気を失っていたからだ。人生に疲れたのか、病み上がりなのか分からないが、とにかく老人たちを凝視してはいけない気がした。
青年の部屋は四畳半で赤茶色をした隣の建物の壁が窓を塞いでいた。トイレも台所もないからっぽな部屋だった。
緑色のナイロンの安いプリントカーテンの隙間からガラスに止まっていた蛾が見える。蛾の羽には目玉のような大きな円が描かれていた。どうして蛾はこんなに気持ち悪いのだろう。毛が生えた触覚、寸胴の身体、地味な色彩、どれをとっても同じような昆虫の蝶とは違う、全ての不幸と引き換えに手に入れたようなその体を蛾は何故受け入れてきたのだろう。
青年はカーテンで蛾が見えないように塞いだ。
ドアがノックする。居留守を決め込もうとしたが、先程の足音とドアが開く音でわかったのだろう。このアパートの管理人だ。青年はこの管理人が苦手だった。
管理人の名前は中田さんといった。恐らくこのアパートでは青年の次に若い女性だった。若いと言っても五十歳にはなっている。この中田さんも独身だった。
中田さんは悪い人ではない。どちらかと言えばいい人だ。青年には優しかった。しかし、その優しさとは別の顔を持っていた。彼女はよく人を観察する。人知れず観察するのではなく、足の先から頭まで舐めるように観察し、自分の仕入れていた知識と合致させ少しでもそぐわないと感じると質問をしてくる。その質問は容赦なく、拷問のように感じる。
青年は一度本当に大学に通っているのか質問をされたことがある。良家の子供が多く通う大学と青年の姿が一致しなかったようだ。青年は学生証を見せた。すると中田さんは「へえーえ」と言って。金歯を見せて笑った。青年は何故この人に学生証を見せなければならないのか、行き場のない怒りを覚えた。それ以来、中田さんのことが苦手になった。
蛾が窓から居なくなった。蛾は街路灯の周りにうつり、他の虫達と一緒にうろうろ飛んでいた。
青年はドアを開け、預けられた小包を中田さんから受け取った。小包は開けた跡があった。小包は実家の母からの貰い物のお菓子だった。青年はそのまま中田さんに菓子箱を渡した。中田さんは「エヘヘ、悪いねえ」と言って部屋をもう一度ぐるっと見回しドアを閉めて帰っていった。青年がそのアパートを出たのは二か月後のことだった。

※注意、本文は架空の話です。登場するは人物も架空のものです。




2014年2月13日木曜日

陰影のない時代

フリードマンのフラット化する社会を読んだのは随分昔になるが、現代(イマ)は彼が宣言していたように国境さえ意味を持たなくなる平滑化されつつある世界である。これによって情報の非対称性はなくなり、人々は平等に共通の情報を保有する。一方で平滑化は陰影を持たない。知っているか、知らないかそのどちらかである。
私はSNSを暫く前から試みている。情報は瞬時に誰かに届けられ閲覧した人はその情報を廃棄する。見事なまでに己に都合のいい情報が集まる。SNSをやると言うこと(覚悟して)つまりその事を甘受していなければならない。自分の情報を開示しない閉じたコミュニティに安住したいならばSNSはやらない方がいい。自分が隠しておきたい情報がなくても微妙な人間の陰影さえも失われるからだ。
では何故続けるのか、それは利便性に他ならない。他社に情報をネットワーク経由で伝達することで直接の強さを軽減できる。さらに、プライベートでは珠にしか会わない友人にも近況を伝えられる。確かに便利だ。
ある米国の学者がFACEBOOKはこれから衰退すると言っていた。今の状況は熱病のようなもので、多くの人は我に返ると。閉鎖的な日本人ならともかくあちらの学者がそう言っている。
何だか分かるような気がする。確かに便利ではあるが全く陰影のない世界は案外面白くない。例え利便性を手放したとしてもそちらを選ぶかもしれない。いずれにしても世界は変わったのだと。




2014年2月12日水曜日

小說考

男性女性を問わず様々な小説が世に送り出され消費されてゆく。このところ女性の作家に優れた作品が多いように感じる。
小說にはマクロ的に読ませる小說とミクロ的に細部に拘り、深く潜行して表現される小說がある。もちろんこの二つの混在型もあるが、多くの作品は何となくぼやけてしまっている感じがする。
前者の小說は全体が劇のようでもあり始まりと終りがある。そして作品中に抑揚が付けてあり、読み終えると一定の満足感を覚える。歴史小説のたぐいの多くはこちらである。
一方、後者は何気ない日常の表現の中に様々な要素を織り交ぜる。文中に出てくる人間の感情や感性、日常的時間軸の中における非日常性などを散りばめる。
こうした表現はやはり女性が得意なのかもしれない。私の好きな作家は見事にそれを表現する。時折、そんな作家のブログを読む。すると作家の空気感のようなものを感じられる。益々、その作家の作品が読みたくなる。何故なら彼らは文章の達人であって、たとえブログの中でも陰影を忘れないのだ。



もし参考になればと私のよく読む山崎ナオコーラ女史のブログとHPである。






2014年2月7日金曜日

絵画教室

母は素っ頓狂なところがある。貧乏で食べるのもやっとなのに小学校に上るや否や絵画教室に通わせた。家からだいぶ離れた場所にあったその教室は6.7人の生徒に絵画を教えていた。先生は年齢にして30才前後、どこかの学校で教えていて、副業をしていると言うわけではなく、東京の美術大学を出て理由は分からないが実家に戻ってきてこうして子供たちに教えるようになったそうである。

私には赤ん坊の時に死んでしまった叔父がいる。中学生の頃より肺結核を患い若くして他界した。私が幼かったこともあり、離れた山里の療養所で生活していた。覚えているはずもないのだが、優しい口調で絵本を読んでくれたその膝の感覚。先生はその叔父に似ていた。

先生は生徒のやりたいように描かせた。時折、相談に来る生徒には一言二言付け加えるだけで決して生徒の絵を否定しなかった。

私が一番年端のいかぬ生徒であったが心から楽しかった。
絵画教室の行き帰りも楽しい。すぐ近くにパン屋さんがあって中にレーズンが入っていてくるくる渦巻きになった砂糖でコーティングされたパンがあった。初めてそれをデニッシュというのだと知った。そのパンを母に一つ買ってもらうのが楽しみだった。
何ヶ月か通ううちに家計が苦しくなった。私はそんな内情を察してか知らずか、自分から行きたくないと母に告げた。本当に行きたくない訳ではなかった。その月で絵画教室を辞めた。

その後も絵を書くことは好きだった。ところが中学校に入って。美術の先生は型にはめた絵を描かせようと生徒たちに強いた。線がどうの、遠近がどうのと煩かった。一度、あまりに頭にきたのである有名な写真家の一枚を模して提出した。するとその時だけは二重丸の評価にあがった。馬鹿らしくなって絵を描くことも嫌になった。

今でもレーズン入りのデニッシュを見ると、あの時の絵画教室のことを思い出す。小さな家だったが庭には色とりどりの花と実をつける木が植えられていて、近くの山から野鳥が飛んできた。

そんな声を聞きながら無心で絵を描いた。あの光景はずっと今も心の奥に座ったままだ。




2014年2月6日木曜日

ハンバーガーとの和解

私と同じ年齢の人でも東京や大阪など都会に住んでいた人と北関東の外郭の街に住んでいた私のような人間とでは年月にして6.7年、時間にして6万時間も遅く現代(イマ)がやってくる。流行語にもなった「今でしょう」だってシンコペーションのように一呼吸置いてやってくる。どうりで福島生まれの細君の祖母と話があうわけである。だが、こうして現代とズレた人間を一般には田舎っぺというそうだ。この歳になれば田舎っぺ大いに結構、それだけ昔の時間を長く体験させてもらったのだから有難いというべきだ。

私の家が水洗トイレになったのは小学校の高学年であったし、薪の五右衛門風呂がガス式に変わったのは中学生になる頃だった。よく雀が煙突に間違って巣を作ってひなが落っこちてきた。洗濯機が自動になったのはもっと後のことで、ハンドルを回してクシャクシャの洗濯物を干すのも一苦労だった。
ファションにして都会で流行っている垢抜けた洒落感を出そうと思っても、田舎の質実剛健、長持ちが一番が顔を出す。何かしら都会のそれとは違う。
食べ物だってそうだ。ハンバーガーと初めて邂逅したのはミミズクという高校の正門近くにあった自販機だった。サラミソーセージのような薄っぺらな肉が中途半端暖められたフニャフニャベトベトのパンの中に見えないように入っていた。ただ、有無を言わさず辛子だけが異様に沢山入っていた。

こんな風にハンバーガーとの出会いが悲劇的だったから、その後もハンバーガーとの相克は続いた。何故、美味しいのか分からない。だから、上京してからもハンバーガーショップには目もくれず、ひたすらガツン系の食堂に足が運んだ。

ハンバーガーと和解したのは結婚して2.3年後だった。娘を始めて海外に連れて行ったグァムでのことだった。タモンビーチにバドワイザーのロゴをでかでかと車体に入れたトラックがハンバーガーを売りに来ていた。数枚のドル紙幣でハンバーガーを2つ買った。お腹が空いていた事もあるのだが、牛肉に変な手を入れずただ炭火で焼いたシンプルなそれは太平洋の夕陽のように私のお腹を満足させてくれた。

それ以来、ハンバーガーとの仲は不仲ではなくなった。時折、何千円もするハンバーガーなのに美味しくないものに遭遇することがある。そんなときはあのミミズクのハンバーガーの霊が財布の淵当たりにうろついているような気がする・・




2014年2月5日水曜日

書評 大竹昭子

「図鑑少年」というこの作者の本を読んだ。ごくありふれた日常の描写なのだがその精緻で綿密な企みに惑わされた。筆者の目は文学者の目ではなく観察者のそれであり、マクロ写真のようでもある。文章に描かれた玄関横のヤツデや中が歪んで見えないようなガラスブロックは私の頭のなかで勝手に近くの「有村医院」に仕立てられる。

彼女は写真もとる。撮るというような表現よりむしろ風景を剥ぎ取ると形容したい。乱暴なまでの描写は性別を超え、人種も超える。ニューヨークの犬さえも喋り出す。
そんな彼女が永井荷風へのオマージュとして散歩を薦めている。荷風は東京の崖の上を散歩した。崖は二つの世界をつくる。下の世界と上の世界。崖の端でしかこの二つの異界を感じることが出来ない。

本郷台地の端から見る東京はオレンジ色の靄の中にある魔界都市か。いや、崖の上こそ魔界なのかもしれない。
湯島の怪しげなネオンが霞んで見える立春。





2014年2月4日火曜日

二葉の年賀状

毎年戴く年賀状の中で特に楽しみにしている年賀状が二葉ある。一葉は顧問の弁護士先生からの年賀状である。先生とはお付き合いしてもう十年になるであろうか。
そしてもう一葉は私より一回り先輩から戴くのものである。

この二葉はとても似ている。年賀状に絵や図柄のかわりに極小の文字で、今自分が考えていることや体感していること、そうした事が丁寧に綴られている。読む方は虫眼鏡必須であるがこれがとても楽しい。

そんな文章の中に二十年前の昔の自分と今の自分が和解したというくだりが書かれていた。時代は違うのに私にはとても共感できた。誰もが学生時代の自分は愚かでちっぽけで青臭いと背を向け生きてきたのではないか。ところが艾年も過ぎるとその根っこはあの頃のものとちっとも変わっていないと気づく。友人は和解したそうだが、私は和解どころか今なお二つの自分がせめぎ合っている始末だ。誰かに調停をお願いしようかと考えたくもなる。

そうそう、偶然にもこの二人共淡青の大学の同じ学部の卒業生でもある。