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2014年3月31日月曜日

生ハムのお話

 家で人をもてなすときに出来る限り食材を探し求めて、私自ら調理することを建前としているので色々なことを勉強しなければならない。ワインもその一つだが生ハムも同様である。

 この所イベリコやハモンといったスペイン産の生ハムを毎年交互に購入して食べてもらっていた。もちろん高級なのはイベリコのベジョータという黒豚のどんぐりのみを食べさせたものであるが、毎年食べていると少し塩辛い気がする。白豚はそれに比べるとあっさりしているがやはり塩気が強いのは変わらない。
世界三大ハム(本当にそう呼ばれているのか不明ではあるが)といえばスペインの生ハムと金華ハムとパルマ・ハムである。このパルマは極力塩気を少なくしてつくる。つまり腐敗との追いかけっこである。当然、開封したら出来る限りはやく食べなければならない。そしてそうした繊細の味のハムとなると厚さと切り口が問題となる。イベリコの時には薄く切れない。切り口もギザギザになってしまう。写真家の西川治氏が十数年前のブルータスでイタリア食材の特集をやっていたのを思い出した。あの写真のハムはどれも薄く、艶やかにしっとりしていた。

となれば今回はシンタマのみを使った幻のハム「フィオッコ」という選択肢もある。因みにパルマ・ハム協会ではスライサーを使うことを薦めている。家人には内緒で業務用のスライサーがもうすぐ家に届くことになるだろう。



2014年3月28日金曜日

台湾料理

 友人が新幹線を彼の地に定着させるべく各企業体の代表選手として数年間台湾で仕事をしていた。その完成と単身で頑張ってきた友人を労うため、仲の良い数家族で台北に旅行したことがある。

 父にとって台湾は第二のふるさとのようなものである。父は晩年を台湾の山奥で陶芸の指導に心骨を捧げていたからだ。父が話すのは北京語だった。不思議な事に台湾は北京語が通じると言っていた。ご存じの方も多いと思うが、台湾では日本統治時代より後になって中国大陸から移住した人を外省人といい、それ以前から住んでいた人を内省人と呼ばれている。現在ではこうした区別は薄れては来ているが年輩者の多くは今でもこの事を意識している者も多い。

 台北に行って驚いた。台湾料理という看板の店は一つもないのである。友人から聞いて膝をたたきなるほどと思ったが、要するに中国全土から色々な料理が持ち込まれ、さらに台湾で昔から食べられていた料理と混血した家庭料理のことを台湾料理と呼ぶことを初めて知った。

 ツバメの巣や熊の手、フカヒレはあまり美味しいとは思わないが、この地で食べる中国料理はとても優しく私の舌に合っていると思った。
そういえば客家は流転の民としても有名だ。その客家が多く住む県が台湾にある。妻の好きな大根餅もその一つだ。父が大陸より台湾が好きだった理由も今は何となく分かる気がする。






2014年3月27日木曜日

昭和の犬

 テレビの事で昭和っぽいと揶揄したが、私が少年時代いつも側にいるのは雑種の犬だった。裏手の河原には野犬がいた。これは危ないので保健所の係の人(私たちは失礼にも犬殺しと呼んでいた)が捕まえて持ち帰っていた。車に積まれいつまで遠吠えをしていた白黒のぶちの犬の目が忘れられない。

 子犬は神社の社の下に段ボールに入れ捨てられていた。やっと目が開いたその犬を段ボールごと抱きかかえ家に持ち帰った。母いつも決まって飼っては駄目というが、私の泣き落としが失敗したことはなく、最後は仕方ないと言って飼うことを許してくれた。最初に飼った犬はコロと名づけた。2.3年生きたが病気で死んでしまった。次の犬はタヌといった。目の周りがぶちになっていた。この犬も2.3年で死んだ。当時の犬小屋は屋外にあり、北側で日の差さない劣悪な場所にあった。父親の手作りの犬小屋は粗末で北風が入り込み、犬は丸くなって寒さを凌ぐしかなかった。

 父親が誰も面倒を見ないと珍しく語気を荒らげて山奥に捨てに行ったことがある。しかし、翌日には何食わぬ顔でその犬は犬小屋で寝ていた。その時キソウホンノウという言葉を知った。

 3匹目はチコといった。高校生の頃だった。暫くすると彼女の足は外側に大きく曲がりはじめた。彼女は動物病院に初めて連れて行った犬だった。病名はくる病。日光不足が災いした。彼女は避妊手術もした。雑種だったが気が強く、食べている時に手を出すと家人の手でも噛み付く。しかし、私だけには従順だった。

 私が進学で上京した年に母が子宮筋腫の手術をした。母は犬の面倒を見ることが出来ず私に黙って保健所に渡した。私が何かの用で実家に帰ると犬小屋にチコの姿が見えない。母を問いただすと渋々本当のことを言い出した。私は急いで車のハンドルを握りアクセルを目一杯吹かして保険所に向かった。保健所の冷たいステンレスの仕切りの一番奥にチコはいた。なんとか間に合った。チコは私を見ると全身で喜びを表し、子犬のように甘えた。私はチコを奪い取り車に載せた。チコにゴメンネといい涙が止まらなかった。取り残された保健所の犬達が哀れだった。
そのチコも母が再婚をすることになり。山奥の農家に預けられた。真偽の程は確かめたことはない。ただ、そう思うことにしている。それから犬は飼わないと心に決めた。
今私の膝の上に11歳になるレオンベルガーのサクラが顔を乗せている。もう一匹の14歳のセプはテーブル下の定位置で夕食の準備を待っている。平成生まれのサクラもセプも、昭和生まれのチコやタヌ、コロも、ただ人のそばに一日でも多く居たいと思っている。これには平成も昭和もないのだ。




2014年3月26日水曜日

あわない奴

 私は人と合うときに先入観に引きずられないように出来るだけその人の良い面を見ようと努力することにしている。学歴や職歴など些細な事は聞かない。なんていうと偉そうに聞こえるがそうではなく、普通の人以上にバイアスに引っ張られる傾向があることを知っているからである。聞くことは一つ今何に熱中しているのか尋ねる。それでも半数以上は熱中しているものがないと答えが帰ってくる。そういう人とはあまり親密にはならない気がするが、これとて長い年月という押し蓋にかかれば馬の合う人となりえるかもしれない。事実、学生時代、こいつとだけはウマが合わないと思っていた男と30年以上付き合い、今では一番の相談者だ。

 なぜあわないと思ってしまうのだろうか。考え方が反対だからとも言えまい。逆に似ているからか、それもそうとは限らない。なぜなのか手繰ってみると、その時々であわないものが違うことに気がつく。例えは難しいが、その時々の自分の価値観の相克とでも呼べば良いのか分からぬが、そうなってはいけないと自分に言い聞かせる心の叫びに似ている。

 あわない奴が嫌いとかそういうのではなく、あわないただそれだけのことだ。カレーやラーメンについて執筆しているIKという人がいる。行ったことはないが横浜にあるカレーミュージアムの初代館長にもなったことがあるようだが、この人とはとにかくあわないのだ。この人が好きとか嫌いとか抜きにしてとにかくあわない。彼がプロデュースするカレーを食べたが違う意味で鳥肌が立った。カレーで食べられないこと自体珍しい。

 その人が絶賛していた湯島の親子丼を食べた。例えあわないと分かっていても乾坤一擲その努力は惜しまないのである。しかし食べてみて何で絶賛していたのかやはり分からない。玉子は極端に硬くなっているか生かどちらかで、鶏肉は塩辛い。丼というのはひとつの宇宙である。宇宙の中ではそれぞれが混ざり合ってひとつの宇宙を作らねばならぬのに、一つ一つがバラバラ別の方向を見ている。これでは丼もの失格である。やはりあわなかった。会わない奴と理解し、調停しようと試みる訳であるがこれがなかなか難しいのである。


2014年3月25日火曜日

昭和ライクな


 私など体の半分が昭和なのだから仕方ないにしても、娘は28歳なので、生まれてからの大半は平成な訳であるが案外その考え方は昭和っぽいのである。

私が幼かった頃、テレビはリビングの中央に恭しく置かれていた。家によっては床の間に置かれていたところもある。テレビには決まってゴブラン織の布が掛けられていて、その布を開けてテレビのスイッチを押し、チャンネルの指導権を持つのは一家の長たる親父だった。白黒からカラーに変わり、ガチャガチャ回すチャンネルもリモコンに変わった。重くて大きな箱から平面で軽い液晶に変わった。

 昭和生まれの人の多くは大きいテレビを欲しがる。出来ればまだ他の家にないような高機能のテレビを欲しがる。ところが平成生まれの人達の中にはテレビに興味が無い人も多い。息子などテレビを情報端末の一つと割り切っている。小さなワンセグのテレビでいいと言う
。これは息子に限ったことではない。息子の友達もテレビはほとんど見ないという。
ところが娘は違う。今建て始めた家には大きなテレビが置かれるという。テレビ台もリビングの中央に置かれ、それはそれは昭和全としているのである。




2014年3月24日月曜日

柴犬


 私は柴犬に好かれる。一般に和犬は飼い主しかなつかないというがそんな事はない。
昨日も柱に繋がれた若いメスの柴犬と会話した。安心したのか擦り寄ってきた。もちろん頭を撫ぜて親愛の情を示した。

ある時、広場で遊んでいるとオスの柴犬とオスの中型犬が喧嘩になった。喧嘩の原因は女の子である。私が仲裁に入ると周りが見えなくなるほど興奮していたオスの柴犬がわたしの腕を噛んだ。痛くはなかった少しだけ血が出た。

その後の柴犬が面白かった。何となくやってはいけない事をしたというバツの悪い顔で私に寄ってきておべっかを使う。体を擦り付けてきてお腹まで出してしまう。そしてその後合うといつも決まってその動作をするようになったのだ。

私の柴犬贔屓はしばらく続きそうである。







2014年3月20日木曜日

目黒のさんま

 妻の実家は茶屋坂の上にある。昔は富士山も見えたというが、今は清掃工場の煙突が正面に見えるだけだ。
ご存知のようにこの坂は江戸時代将軍家の鷹狩の帰りに、将軍が茶屋でサンマを所望し、あまりの美味しさにさんまは目黒に限ると言わせしめたという逸話が残っている。
秋はさんま祭りなる催し物も行われる。そのサンマは宮古産を使用していたが震災の影響で北海道産に変えられたというが今年はどうなのだろう。並んで食べたことはないが心配である。
実家の前には大きなボーリング場があったという。私は知らないが夏にはプールが開かれ有名芸能人がステージに上っていたという。妻は運動音痴なのに水泳が得意なのはその家の前のプールに毎日通っていたせいかもしれない。今は高層の薄っぺらのマンションになっている。
町名の三田は港区の慶応大学のある三田と同名である。理由は春日神社がともに氏神であって、おそらくその分社が出来た時に地名を拝領したのかもしれない。
妻の実家から防衛庁の施設局が見える。ここには巨大なプールがあって戦前にはこのプールで伊号なる日本の名潜水艦が開発されたと聞く。
義父もなくなりもう行くこともなくなってしまったが、妻にとっての故郷はこの茶屋坂なのである。



2014年3月17日月曜日

相対化と絶対化

 私も含めて歳を取ると物事をはっきりと白黒つけたがる傾向がある。私も注意しなければならないと自省する。
「下流社会」の著者は私と奇しくも同期である。彼は社にいた頃から都市と郊外について文化的側面も踏まえて考察してきた。だから彼の言う「ファスト風土化」という言葉も頷ける。

 私の住んでいる田園都市沿線は彼の言う典型的郊外である。多くの人が都心に働きに出掛け、夜遅く寝るためだけに戻ってくる。同じような小田急線も同様に典型的郊外を形成する。三浦しおんの小說「まほろ駅前多田便利軒」は同名のモデルとなった町田駅を中心とした小說であるが、現実の町田も犯罪が多く、夜は物騒で歩けない。
彼の言うとおり路上に直に座り、ファストフードを飲み食いする若者もこの沿線に多いのも事実だ。こうした若者は歴史や文化、地域のネットワークから外れ、マイホームレスチャイルドと彼は命名している。

 しかし私はあくまで自分の周りを見るとこうした若者が見当たらない。夜遅く寝るためだけに帰ってくるサラリーマンも多いかもしれないが、私の周りは少数派である。ある友人は親子鷹宜しく息子に野球を教え、甲子園で優秀を果たした。そしてその息子は大学を卒業し無事エリート企業に就職した。その友人はもちろん超多忙である。
また別の友人は大手メーカーの重職を定年で辞した後も、仕事を続けて欲しいとたっての要請を受けメイドインジャパンの先鋒として世界中を飛び回っている。もちろんその子供たちは立派に職を得、結婚し独立を果たしている。

 マーケティングしいては社会学の宿痾のものとして仕方のないものなのかもしれないが、相対的に評価しようとするとピントがズレる。マイホームレスチャイルドが出来るとすればそれはそもそも親自体がその素地を持ち、なるようにしてなったのではないだろうか。それに悪い行いのほうが目立つし、話題にもなりやすいだろう。玉石混交ということだと思う。

 地方の郊外化はいけないと食い止めることは出来るのだろうか。ファスト風土化することはいけないことなのか。私には何だか時代に棹さして昔はよかったと言っているようにうつる。ある討論番組で若者が私達くらいの大人に「あなた方が巻いた種で育ってきて、この時代が悪かったというのは無神経すぎる」と言っていた。
彼らは生きる時代を選べない、今あるのが彼らの時代なのだ。相対化しようとすると多様性が見えなくなる。また、絶対化しようとすると潮流が読めなくなる。どちらも注意したいものである。










2014年3月16日日曜日

回鍋肉

 言葉の中には何回も同じ間違いを繰返してしまうものがある。回鍋肉もそのひとつ。この漢字をメニューで見るとハイコーラーかカイホーローになってしまう。どうも頭のなかで配線がごちゃごちゃになっている感がある。先日も家人に笑わられた。
仙人掌と書いて何と読むか。これは間違えないサボテンである。無花果と書いてイチジクと読むこれも間違えない。では饂飩と書いて何と読む。私はワンタンと言ってしまう。何故だろう、雲呑はワンタンと読めるのに饂飩をワンタンといってしまう。いつも不思議で仕方ない。

しかし、これには2つの事が影響しているように思うのだ。私の生まれ育った北関東の街ではワンタンと見紛うほどのペラペラのうどんを食した。当地ではこの麺をひもかわとも呼ばれたが、とにかく腰がなくペラペラだった。祖母などワンタンの皮がないときにはこのうどんで代用したほどだった。

そしてもうひとつ吉田戦車の漫画に喫茶店で「うどんください」という題のものがある。普通ならナンセンスで笑うところだが。私の街では純喫茶にもスナックにもうどんはあったのだ。もっともそれは十分な汁に付けられた丼に入ったうどんではなく、紅生姜がちょこんとのった焼きうどんだったのであるが。

とにかくこういった摺り込みは中々頭から離れない。饂飩を咄嗟に効かれるとついワンタンと口をついて出てしまう。いかんいかん。

そうでなくても何歳と聞かれると信長の歳と同じくらいと5年位前から言っているのだから。



2014年3月14日金曜日

わたしの3.11 その2 大衆心理

 東日本大震災から3年がたつ。私はあのとき比較的に多くの物事を俯瞰してみることができていたような気がする。何故なら、腰痛をブロック注射までして無理をした結果、背筋が肉離れを起こして動くこともままならなかったからだ。

 多くのニュースで日一日亡くなる人の数が増えていった。それはまるで何かのカウンターによって計られた機械的なもので人の死とは無縁のような形で。そして流言飛語、会社のスタッフには友人からメールが届き、千葉にある精油所が爆発してガソリンが足らなくなると真顔な話が流されていた。東電の幹部という人から聴いた話というのも流れていた。もはや、日本中が放射能汚染になり、国民はほとんど死に至ると。劇場化したマスコミもそうした話はすぐ取り上げる。実際に東京を離れて関西に移り住んだ人も多くいた。

 コンビニからカップ麺がなくなり、トイレットペーパーも、携帯ガスボンベも無くなった。私はその体だったので車が無ければ移動できなかった。それでも車を使ったのは震災から5日が経った時だった。ガソリンスタンドでは長蛇の列。出来るだけ燃料を使わないように意識した。スタンドの人に聞くといつも滅多に来ないような人がガソリンの針が一メモリが減ったからといって2時間も長蛇の列に並んでいるとのことだった。

 困ったのは停電だった。私達の生活の多くが電力に頼っていることが分かった。
ところが昨年の夏場のピークでも計画停電はなかった。停止している発電所が再稼働したというニュースを聞いたわけでもないのにどうして大丈夫なのだろう。もしかしたら当時の停電もパニック心理だったのではあるまいか。そう疑ってしまう。

 先日、大雪で3日間軽井沢に閉じ込められた。鉄道、道路とも完全に閉鎖され陸の孤島となった。運転手の多くは何とか行けるだろうと無理をして碓氷バイパスに集中した。まるであのときの都内の道と同じに車が一箇所に集中した。道路が開通していない事は分かっていても車を出発させ戻れなくなりレスキューしてもらった人もいた。コンビニからカップ麺はなくなり、パンも姿を消した。私はあのときの経験からなるようにしかならないと居を移さずじっとしていた。予定していた期間を大幅に超えたので予備の犬のご飯も残り少なくなった。開いている店を探して雪の中歩いて買い物に行こうとすると、見ず知らずの女性が分けてくれた。とても安心した。私達は毎日同じ料理を食べながらも、食にありつけ、暖かい寝床があることに感謝した。

 大衆の心理というものは極端になりがちだ。リスクを過度に感じたり、逆に鈍感であったりする。どちらも良くない。津波の災害を避難するような過急な場合以外は出来るだけ動かずじっとしている。それがあの震災から学んだことだ。昨日もラジオから大震災の際には車の使用を控える旨の放送をしていた。控える旨ではなく、強制的にも禁止するべきだと思う。軽井沢でも救急車が動けなかったのだから。


あの日もやってきたヒヨドリは私たち人間を見てどう思っているのだろう、いつか尋ねてみたい・・・






2014年3月12日水曜日

家族考

 この一、二年本当に色々なことが重なった。娘が嫁ぎそして出産し母になった。今はその家族と暮らす新居を建てている真っ最中である。娘自体その変化に驚いているようだがとても楽しそうだから何も心配はしていない。

息子も昨日家を出た。家を出たと言っても家出をしたわけでも仲違いをしたわけではない。彼のスタートとしてのレジデントが必要で我が家からは通えないからである。26歳になっているのだから私が家を離れた18歳に比べれば遅すぎるくらいであるし、戦地に赴く訳ではないのでこちらも心配はしていない。彼にとっての新しい家族との出会いを待ち望むばかりである。

 娘も息子も私たち夫婦に神様が与えてくれた宝物であって。私たちはほんのいっときこの宝物を育てる使命と幸福を与えられたのだと思う。

 私の周りにも子供を手放さない親が多い。いや、子供が出て行かないというがそれは誤りだ。知らず知らずのうちに親に洗脳されている事が多い。本音を言えば親としてはそれでもいいとあえていう。子供を手放すのは寂しいし、手足を引きちぎられる思いだから。

 しかしあえて子供のことを考えれば独立させなければならない。動物がそうするように子供を社会に戻し還元させなければならないからだ。そして自分の新たな家族を作り私達と同じように子供を育てる喜びを味あわせてあげたい。私達が先に死し、子供に見守られなから死んでいく幸せを同じように味あわせてあげたいからだ。

 家族とはそんな一時の屋根の下で暮らした追憶なのかもしれない。









2014年3月11日火曜日

わたしの3.11

 あの日私はソファに寝ていた。一週間前に痛めた背中の肉離れが治らず自宅にいたからだ。妻は京都に大学の研究の打ち合わせで出掛けている息子を除いた娘と私と三人の夕餉の支度をするために隣町のスーパーに買い物に出掛けていた。

 窓の外にはまだ風は冷たいものの春光と呼ぶに相応しい太陽の光が注がれていた。

 揺れは突然起こった。私の家には六メートル近い高さの本棚が壁一面に備え付けられている。大きく揺れる中、咄嗟にこの本で押しつぶされると感じた。幸い老犬の一匹は大きな頑丈な丸テーブルの下で眠っていた。ところがもう一匹は何か不安を感じたらしく私のそばに来て顔を見ていた。もはやこれまでと思いその犬を抱き寄せたが、揺れは数回続いたものの、一番大きな揺れ以上にはならなかった。それでもキッチンのカウンター上に吊り下げられた照明がアメリカンクラッカーのように揺れ続けていた。

 揺れが落ち着いてからテレビを付けてみようとしたが停電のためつけることは出来ず、電話も不通だった。

 備え付けの本棚だったことが幸いして本は一冊も落ちてこなかった。私は家の周りの様子を見たくても動けず、妻の帰りを待った。妻は丁度レジで精算を済ませようとした時に地震が来たと言っていた。結局、パニックになった見ず知らずの若い女性を介抱して何も持たず帰ってきた。娘が帰ってきたのは暗くなってからの事だった。

 ラジオから地震の規模や津波のことが伝えられた。電気が回復してテレビからその様子を見た時には末恐ろしさのあまり言葉を失った。9.11のときまるで映画のワンシーンかと思ったのとは違う、自然の脅威のあまり言葉を失ったのだ。

 大叔母は死んでしまったが、その子供たちが石巻で旅館や結婚式場をやっていた。大叔母は祖母や母、叔父が満州から引き揚げてきた時にとても親切にしてくれたようだ。祖母と大叔母は仲が良かった。現役を退いてからは祖母と歌舞伎を見るためにちょくちょく上京していた。そんな折、渋谷に勤めていた私のところに顔を出した。大叔母と祖母と私でお昼に稲ぎくの天ぷら定食を食べた。それが大叔母との最後だった。
大叔母の子供たちの家や店は海沿いにあった。一度、母と叔父と私で大叔母の周回忌に行ったことがある。磯の匂いと海風の湿気を感じる風光明媚な場所だったことを覚えている。

 それがあの津波で観るも無残な姿になっていた。私は暫く誰にも石巻の事を聞く気にもならなかった。義父が宮古の出身で同じような気持ちだったという。

 原発の事が報じられたのも同時だった。ところがいざ問題が詮らかになっていくと色々な事を言う輩が現れる。私が当時も今も最も腹ただしいと思ったのは、この国はもうすぐ人が住めなくなる、だから自分の子供たちは海外に避難させたという専門家と称する人種たちである。この人達は今何をしているのだろう。逃げようにも逃げ出せない多くの国民はじっと我慢して生きてきた。その事を思うと必要以上に国民に不安を煽り、風説を流した罪は重い。

 災害から一年以上が過ぎようとしていた時、尊敬する法律家から3冊の本を推薦された。その中でも最も心に残ったのが「3.11後の建築と社会デザイン」という平凡新書だった。奇遇にもこの本は会社の同期である三浦氏が執筆しており、私も読了したばかりだった。

 その後の政府や自治体が何もしなかったとは言わない。ただ、その本が示す通りのことが起こっているので私にはやはりこの国の指導者があまりにお粗末だと言う他にない。高齢化や少子化という災害とは別の潮流が当時より流れていることを無視した復興計画。公共投資が先行し、被災者の住宅復興に手が回らない日本の建築業の有り様。復興予算だけ取り敢えず貰っておこうとするビジョンのない自治体、そして右側に舵を戻し原発の存続を前提にした国民を無視した政府、何もかもこの国の現状だ。

 それでも被災者も生きている。これが唯一この国が誇れるものなのではないか。あの日不幸にも亡くなった全ての尊い命に向かって黙祷するばかりだ。







2014年3月10日月曜日

犬の幸せ

 先代の犬は7歳で早逝した。あの時はあまりに突然の事だったので家族全員大いに慌てふためいて感傷の涙に暮れた。今の子達はそれに比べると14歳と11歳である。ふたりとも随分長生きをしてくれた。本当に感謝している。

男の子の方は目もあまり見えないようで、自分で排泄のコントロールが出来なくなって久しい。女の子もこのところ足腰の老化が著しい。ソファに乗るのも一苦労だ。この歳だから仕方がない。私たち夫婦にとっての最初の介護になってしまった。()

幸いなことに2匹とも食欲はある。女の子はもともと食べないので小さな頃から手で食べさせていたので癖になってしまったのだが。

この子たちが天国に行く日は出来るだけ遠くであって欲しいと思うが、もし突然訪れてもそれも運命と思うことにしている。この子たちと過ごした時間は戻らないが、いつもこの子たちと最大限の愛情を持って接してきた自負があるから後悔はしない。

そうきめて今日も頭を撫ぜてきた。その日が来るまで出来るだけ一緒にいようねと。






2014年3月8日土曜日

リテラシーの欠如

 私より上の世代にはリテラシーの欠如をしている人を多く見かける。大方は定年間近かそれ以上の年齢層なのだが、彼らは若い時さほどリテラシーが欠如しているとは見えなかった。ところが最近になってそれが目につく。テレビやラジオの情報でさえ当てにならぬと思っているのに、平気で2ちゃんねるや週刊誌の情報を鵜呑みにする。私には不思議で仕方ない。そんな事を友人に話したら、その友人曰く、彼らはリテラシーを欠如したいのだよ。リテラシーをなくして自分の都合の良い、蛸壺に入りたがっているようなものさ。だから、彼らにはその情報が正しいとか、正しくないとか関係ないのだと。
なるほど、その意見には膝をたたかずには居られなかった。情報を眺めて逡巡することなど必要ないのだ。バラバラになった情報の自分に都合のいいものだけを集めて仕舞いこむ。

 しかしながら、人生の末期、甚だ寂しい話ではないか。自らの思想信条など椅子の上のホコリ程度の価値の無いものとして見放し、物事を諦観するようにしたと自戒の念を込めて思うのである。



2014年3月7日金曜日

和食について


 和食がユネスコの世界文化遺産に登録されたと聞く。なんだかしっくりこないのは私だけだろうか。
そもそも和食と言われて多くの人は何を想像するのだろうか。京料理に代表される懐石料理のことなのか、それとももう少しカジュアルな割烹のようなものか、はたまた江戸前の握り寿司を思い浮かべるのか分からないが、蕎麦やうどん、ラーメンやカレーだって言い換えれば和食なのだからその裾野はかなり広いと思うのだ。
海外に行って和食を食べようとすると似ているが和食ではない店が多い。今や誰もが口にしたことはあるカリフォルニアロールだって和食といえば和食なのだ。
パリで1つ星を獲った和食のレストランに息子が出かけた。その店の主人はパリの魚事情があまりに酷く、自分が魚屋をするつもりで流通ルートから開拓すると意気込んでいたが結果は京都の和食店には遠く及ばぬものだったらしい。結局壁を乗り越えられなかったということか。またもや和食の星は当てにならぬ事を証明した。
そもそもその壁の考え方が間違っているのかもしれない。日本の和食をそのまま持ち込むことが本当に素晴らしいことなのだろうか。その土地にはその土地の気候がある。とれる食材も当然違う。だからカリフォルニアロールだって生まれたわけだ。日本と同じ和食を海外でつくろうとする行為こそ、間違っているのではないだろうか。
私たちの舌はそんな狭量ではない。その時時に応じて食べ分けることが出来るのだから。
因みに我が社のT君は日本に帰るとラーメンが一番食べたくなると言っていた。



2014年3月6日木曜日

通洞駅

少年は折角の夏休みを足尾で過ごさなければならない事が毎年苦痛だった。友達は家族で海水浴やキャンプに行き、学校が始まると口々に楽しかった夏の出来事を話し始める時に少年の夏はいつもきまって足尾だったからだ。

足尾といっても少年の住む場所は街ではなく、集落もない場所だった。駅は無人駅で1時間に一本通過する電車以外、人影も見当たらない。町役場に手当された住宅と窯は質素で雨風がしのげる程度のあばら屋だった。駅から住宅までおよそ6百メートル程だったが、人家は2軒だけだった。

そんな少年が母に買い物を頼まれたことがあった。今では考えられないが当時はいい意味で鷹揚だったのだろう。買い物と言っても近所に店はない。お醤油を買うために一駅電車に乗って買い物に出掛けなければならなかった。決められた時間に駅につき電車を待った。実家からこの無人駅までは何回も乗車したので駅名も諳んじていえる程だったが、この先には行ったことが無かった。
電車に揺られて見慣れぬ光景を進んだ先に駅はあった。通洞と書いて「ツウドウ」と読む。鉱山用語だと知ったのはずっと後になっての事だった。少年は駅に降り立ち、母から渡された地図の方向に向かって歩いた。扉を開けようとしたが閉まっていて開けられない。小さな拳でノックするが誰も応答しない。仕方なく、他に店がないのかその小さな街を歩きまわった。
大人になれば大したことのない距離だったが、少年には永遠に続く道の様に感じられた。ある場所を通りすぎようとすると酒に酔った男たちの怒声が聞こえた。生くさいホルモンの煙の向こうに一升瓶を片手に大声で騒いでいる男たちが見えた。
少年は咄嗟に目線を逸らしたが遅かった。下着姿に腹巻きを巻いた男が立ち上がって「オイ、坊主こっちこい」と叫んだ。少年は無我夢中で後ろを振り返らずに必死で走りだした。駅についた少年は汗でびっしょりになった額を手で拭いながら、あの男がやって来はしまいかとブルブル震えて物陰に身を寄せていた。電車がやって来たのはそれから15分後のことだった。
駅の裸電球にスズメガの気色の悪い目玉のような模様がはっきりと映しだされていた。
今でもこの駅の名前を聞くとあの時の男たちの声が蘇る。







2014年3月5日水曜日

イノベーションのディレンマⅡ

 日本はモノ作りの国だと言われ続けてきた。彼の国の首相も唱えるのだから間違ってはおるまい。日本の手作業や伝統的モノづくりにはもちろん敬意をはらうつもりだ。ところが工業製品にまでその賛美の裾野を広げた場合には一概にはそうとも言えない。

これまで日本を牽引してきた輸出産業である自動車、電気、機械という工業製品は戦後の日本と先進国との経済格差のギャップにより支えられてきた。相対的価値の低い国から相対的価値の高い国への輸出である。その製品が安くて長持ちするとなれば受け入れられるのは至極真っ当な事だと思う。一方、現在の日本はどうなのか。確かに中国は大国であり日本を抜いて世界第二の経済大国ではあるが先進国ではない。実際に中国における一部の国民と民衆の経済格差は増すばかりである。我々はこうした国にモノを売るのだ。1ドル360円のアメリカに売るのではないのだ。このことに留意する必要があろう。

 私の後輩に大手オーディオメーカーの重職を担っているものがいる。日本を代表するこの会社はレーザーディスクなどの新製品で一世を風靡したがこのところ好調だったカーナビも振るわなくなった。何故だろう。
ロサンゼルスでテスラモーターの実車をみた。ハリウッドの日本食レストランの前でタクシーを待っているとドアボーイが後ろのバレーパーキングから運転してきた。黒いその車体は固体というより液体のようで滑々していた。そしてコックピットにはアイパッドが貼り付けられていた。日本に帰りそのテスラを試乗する機会を得た。私がアイパッドと思っていた画面は同じようにダッシュボードの真ん中に配置され、アイパッド同様に操作することが可能だった。

 私は今乗っているメルセデスのカーナビをほとんど使わない。何故なら、あまりに使いにくいからだ。BMWも同様である。カーメーカーが純正として作らせるカーナビは全時代的である。何もなくて国産のカーナビを自由に取り付けられる方がまだ良いと思っていたが、ここに来て自動車メーカー各社がアップルの車載システムカープレイを搭載すると言い出してきた。テスラを見た時からこうなるだろうと未来予想図に織り込み済みであったが以外と早くなりそうだ。

 その企業にとって他の追随を許さない圧倒的技術力をコア・コンピタンスという。アップルやグーグルのそれはもはや既存の企業では追いつけない。テスラもその一つだ。今度2000億円規模でパナソニックとその他数社で自動車用高性能バッテリーを生産する。彼らの考えていることは世界中の自動車の心臓部をテスラ製にすることなのではないか。航続距離500キロ、1時間あたり充電で85キロ、8年または20万キロの保証の出来る電池を作る事はどの他の企業にも真似できないうちにシェアを拡大する。フラット化した世界ならではの戦略ではあるまいか。



2014年3月4日火曜日

隠された印


  東京や京都に限った事ではないが、歴史のある街には多くの特別な場所があった。
例えばその橋の先へは行ってはならないとか、この谷に下りてはならないなどいくつもの結界が存在する。

 そうした場所は呪術的であるばかりか、例えば公共衛生という観点から見ても頷ける。今のような疫学に関しての知識もない時代に官位もなく裕福でない庶民は必然的にその場所に集められた。言うならば隔離政策である。この考え方はつい最近まで現存していたのだから大昔の話として看過することは出来ない。
もっとも明治以降のそれは街の内部でなく、外周部に置くことでさらに距離的な閉鎖性を加えられた。

 永井荷風の日和下駄という東京散策記がある。荷風は小石川(現在の春日)で生まれた。その後、麹町、余丁町、麻布などに転居し、市川にて臨終するのだが、彼は専ら東京の東側を主材にしていた。その事は晩年の「墨東綺譚」を読んでも理解できるが、実際に小石川や余丁町(現 河田町、住吉町、若葉町界隈)を歩いてみてもその面影は高層ビルとコンクリートの塊によって鮫河町あたりも当時の足跡は上塗りされ痕跡を見つけることが出来ない。

 しかしながら、大地の地形というものは巨大なコンクリートの塊でも中々隠すことは出来ない。先日も本郷台地の東端である湯島から東側を眺めた。目の前にスカイツリーが聳え、眼下に上野公園の池に鴨が遊んでいる姿が見える。私の立つ位置は建物の三階くらいで上野駅周辺の10階建てのビルの高さと同じくらいなのだから台地の高低差も理解できる。

 はるか遠くには今では地名さえ無くなった玉ノ井が霞んでいる。ますます印は封印され無味乾燥な町名に統合されマトリックスの中に記号が消えていく。そして記号の街へと・・