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2014年5月28日水曜日

私的カーグラフィック#27 コルベットクーペz51


先般、新しいコルベットに試乗した。アメリカで乗ってみて普通に使えるコルベットの意外性に驚いたこともあり、新型が登場したら是非一度乗ってみたいと思っていたからだ。しかしながらこの顛末には幾らかの説明が必要となる。今、シボレーは多くのディーラーが扱っている。最大手はYという会社だろう。私もまずそのディーラーに試乗できないか尋ねてみた。するとどうだろう、少しも臆すことなく、この車は大人気で多くの顧客が試乗せず購入していると言う。試乗車などありませんと。これには驚いた。どんなに高額な車でも買う前に試乗できる。そういえばこの会社、スリーポインテッドのメーカーから一般のデイーラーに格下げされたことを思い出した。営業マンにこれ以上何を訴えても無駄と思い電話を切った。そして別のディーラーに電話をすると用意するという。これが普通だろうと思ったが、謝意を伝え当日このディーラーに向かった。

用意された車は今回のために用意したようだ。まだ30キロしか走っていない。それも高性能バージョンのz51だ。

ここでコルベットについて説明をさせていただく。私がコルベットを初めて見たのは第三世代のコルベットで場所は赤坂見附の交差点だった。真紅のコルベットが私の前を通り過ぎ渋谷方面に左折していった。私は振り返りながらこの車を見続けた。この世代のコルベットは1968年から82年とかなり長い間モデルチェンジをしなかった。車の横にはステイングレのロゴがあしらわれていた。それから現在のモデルが第七世代と4回のモデルチェンジを経てきた。

コルベットの素晴らしいところはまずそのサイズ感である。どんなに素晴らしい車でも全幅2メートルを超すものでは、日本の道は走りづらい。その点コルベットは全幅1.88 メートル、全長に至っては4.51メートルしかない。
シートに滑りこむとまず内装の作りこみがしっかりしている。ただ、旅客機のビジネスシートのような助手席との衝立はやりすぎかと思う。
エンジン始動する。始動するときは8気筒全てが一気に添加されるため、獰猛な唸り声を上げるが、走行モードは細分化され雪道等のウェザーモード、エコモード、ツアーモード、スボーツモードそしてトラックモードまである。トラックモードとはサーキットでの走行を想定している。ただし、インパネはカラー液晶でモードごとに変化するが少しカラーが多く、安っぽく感じた。
ハンドリングは秀逸である。下からの突き上げも皆無で素晴らしい。日産が得意とするステアバイワイヤのようでもある。
ブレーキはどうだろう。大口径化したブレンボの効きは良い。ただし、frの域内でということ。ポルシェのようなrrのリニアな制動とは違う。大きくて重いエンジンの慣性力はついてくる。
後方視界は意外と取りやすい。しかしながら前方は左右に張り出したフェンダーの突起が視界に入ってくる。背の低い人や女性には厳しいかもしれない。もっともムルシエラゴやディアブロに比べれば何ということはないのだけど。
最後にディーラーのひとも言っていたが荷物が積みにくい。リアの荷室が高い位置なのだ。面積はあるのだけど薄い。海外旅行のトランクは厳しいかもしれない。もっともトランクは別に送ってしまえばいいわけだけど。

総合的にみて素晴らしい車だと思う。前のモデルとは全くの別物に仕上がっている。
つまりは前の車の普通さも薄れている。何となくアメ車のゆとりというか、ダルな部分が無くなっているのだ。真っ暗な中でシルエットだけ見たらフェラーリと間違えるかもしれない。技術を磨き上げてスタイルを変えないポルシェ(特に911)と全て作り直してしまうコルベットとの方向性の違いかもしれない。もちろんどちらが良いというわけではないのだが。











2014年5月20日火曜日

遊びは遊びつくせ

パスカルではないが人間知っていることしか知らないのである。知らないことは知らないのだから。
よく私たちはプロじゃないのだからそんな高いものや贅沢なものは必要ないという人がいる。そうだろうか、プロこそ現実的な要素でモノを選ぶのではないかと私は思う。幸せなことに私の周りの友人は遊びに関してそんなことは言わない。遊びだからこそ遊びつくせというのである。もちろん財力の範囲ではあるが。

家一軒建てられるほどオーディオに凝っている友人もいれば、山を登ることと走ることに人生をかけていると思える友人もいる。つまりは道楽とは道を極めようと暗中模索しながらジタバタ騒ぐことだと思うから。

車にしても歳は関係なく国産車が一番だという人もいる。それはその人の考え方だから何も文句はない。一度きりの人生なのだから乗ってから判断すればいいのにと他人ごとに首を突っ込みたくなるのは別として、車は宇沢弘文氏を持ち出すまでもなく非経済的なのだ。いくら省エネや環境性能を謳ったとしても非経済的なものなのだ。ポルシェに乗ったことがない人はポルシェを分からないと思う。私だって分からなかった。体験して初めて分かることが多い。頭でっかちの考えは退席いただく。

ロードバイクにしてもそうだ。モノコックのフレームしか乗ったことのない人はラグドのフレームの妙味は分かるまい。コンプレッションホイールに乗ったことのない人はコンプレッションホイールの事を知るまい。絹のケーシングのタイヤに乗ったことのない人は絹のケーシングのタイヤのことは知らない。だって知らないのだから。私だって知らないことはいっぱいある。しかし、手が届かないからといって知らないことに蓋をすることはしない。思い続ければいつかは叶うかもしれないから。

よくオンとオフを口にする人がいる。今はオフだから仕事の事は考えないと。そういう人はオーナーには向かない。経営者は四六時中仕事の事を考えている。じゃ遊びは考えないのかというとそうではない。遊びも四六時中考えているのだ。
美味しい物や楽しいことは周りの人たちと共有するからこそ楽しい。一人だけ美味しいものを独占しても所詮腹をこわすのが関の山だ。でもそういうタイプの人間が多いのも事実。私の友人にはそういう人は滅多にいないのだけどね。

あの世には何も持っていけない。持っていけるのは思い出だけ。人は生まれてくることは選べないけど、死ぬことは選べる。エミールウングワレーの絵のように死の直前にどんな景色が目の前に広がるのか、それはどんな思い出を持っているかによって決まるのだから。
















2014年5月15日木曜日

均質化するこの国

新聞社やテレビも週刊誌宜しく視聴者が喜びそうな話題ばかり取り上げ、劇場化していることがマスコミの凋落に繋がると嘆いていたのだが、今度はSNSでも同じようなことが起こった。
そもそも私がSNSを始めようと思ったのはそうしたマスコミの一義的、一方的報道姿勢に疑問を持ち、自分で情報を取捨選択するSNSを試して見たいと思ったことが発端だった。SNSには多くの情報が氾濫する。正しい情報も正しくない情報も。それらを選択するのは自分であり責任も自分にある。SNSも慣れてくると自分と価値観が近いという人を見付けられるし、逆もある。そうして自らが情報という玉を磨き上げていくのだ。

ところがとあるSNS運営サイトから情報の内容を訂正して欲しいと要請があった。理由はポリシーのひとつである「著しく営業に影響する恐れがあり、事実か確認できないこと」に抵触するらしい。
私はその店のピッッアを数回食べている。味は美味しいと評価している。そして掲載した事実は私がこの目で実際に見て、経験したことなのである。伝聞でも推測でもない。
店の前の公道でお揃いの店のtシャツを着て、店内からホースを引いて水だらけにしながら車を洗い、あたり一面が水だらけになっていた。私の布靴は汚れ、通行人はその様子を並行しながら足早に通り過ぎていったのだ。

店というのは味だけではない。オーナーや店主のポリシーが具現化される。それも評価してはいけないというならば斜陽になったグルメ雑誌と同じ、店からお金をもらって良い情報だけ掲載するのと同じである。

私の好きな真鶴の寿司店の口コミに店主の手が汚れていたと揶揄されていた。店主はすぐさま同じ書き込みにそのことをわび、手についていたものはある食材を扱うときにつくもので当日はその処理をしたばかりだったと説明を加えていた。私は尚更その店主の人間性、料理に対する真摯さを感じたのはいうまでもない。





2014年5月10日土曜日

演奏者と聴衆

演奏者と聴衆
昨晩、キース・ジャレットのソロコンサートに出掛けた。ご存知のかたも多いかと思うが、この最終公演の前の大阪でのコンサートでキースは演奏を中断してしまったようだ。その場に居合わせていないのでどのようなことが起こったのか定かではないが、耳障りな何かの雑音が聞こえたのかもしれない。
私も行く前までは、そんな小さなことで目くじらを立てるのは、敷居の高い寿司屋のようで客=聴衆をないがしろにしているのではないかと些か諦めていた。
ところが実際に自分が行ってみると、その浅はかな考え大いに反省した。何故ならここ数年のコンサートでこれだけ感動したものはないからだ。
最初の曲が始まった時に、あまりの硬質な音が私の体を突き抜けた。と同時に察かに自分がいつも聞いている音とは別の種類の音がそこで奏でられていた。彼のピアノはタッチとかそういう技巧的なものではなく、本質的な音源としてクリスタルのように透明で直線的だ。しかしそれだけではない。彼の演奏は絵画的でもあるのだ。私は朝靄のかかった湖に浮遊している錯覚におちいった。波も風もない、ただ静寂な湖面にビアノの音だけが流れてくる。別の曲になると今度は夏の草原が目に飛び込んできた。風にたなびく背の高い草が優しく足元をくすぐる。そしてまた別の曲になると夏の入道雲の湧き上がる空を大鷹になって飛んでいるようだった。
彼は芸術家という言葉を嫌う。その代わり音楽を信じるという。30代の頃の精力的だった彼のピアノと今の彼のものは異なっている。どちらが良いとか悪いとかという話ではない。まるで演奏すること生きることの怖さを知った思慮がそうさせているように思えてくる。
彼の発する音に対する拘りはさらに深くなっている。我々の方も彼の演奏を共感するためには努力が必要だと思う。いくらお金を出しているとしても聴衆がその努力をしないなら、どんなに良い演奏でも価値はない。共感できて初めて音楽の喜びがあるのだと知る。
日本人に限った事ではないが、我々は幼い頃より自由と権利を教えられてきた。それはこうしたときにもまず自分の権利を主張する矮小な思想がある。お金を出していれば何をしてもよいというのは思い上がりだ。それを言うなら演奏家はお金で呪縛された衆人でもないし、演奏しない自由だってあるのだ。
キースは神経質で気難しいと言う人がいる。そうだろうか、聴衆にコップ持ち上げ「ウォーター」とジョークを言ったり、「ハッピーバースデー キース」と言う人に今日じゃないと言ってみたり、さらにアンコールを4曲も演奏してくれた事を考えるときっと大阪では彼が共感できない何かがあったのだろうと考えを改めざる得ない。
会場から沸きあがった声援もきっと40年以上日本での彼の演奏をプロモートしてきた鯉沼さんだったのかもしれない。そういう音には彼はきっと愛情をもって答えるはずだ「みんな音楽が好きなんだね」と。