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2014年9月8日月曜日

連帯について

私が大学に入学した頃には大学紛争は見る影もなく、その遺影さえ存在しない時代でした。そのような環境からかイデオロギーや政治的議論をするということはもはや時代遅れ、負の産物と考えていたのか分かりませんが、極端な理念、信条というものにはどうも胡散臭さを感じてしまうのです。

ところが近年、原発事故後の国民の反応はそうではなく、良くも悪くも黒白をはっきりつけるような、絶対感覚でモノを言う人を多く見るようになったのです。
首相官邸前で反原発を訴える人も自分たちは正しいことをやっていると信じきっているようで、彼らのデモのせいで迷惑を受けている人のことなど毛頭にないといった感じです。どうもこの手の政治的思想には私は嫌悪感を抱いてしまうのです。

断っておきますが原発が良いと言っている訳ではありません。ただ、どんな物事にも良い面と悪い面があるようにこの問題もそんなに簡単に割り切れるものでもないし、第一今までこうした政策で恩恵を受けていたのは私達の訳ですから、それを棚上げにして論ずるというのはあまりに虫のいい話だと思ってしまうのです。

養老孟司氏が近著の中で良いことを言っていました。人間なんて地図の上の矢印程度のもので、生きているのではなく生かされていると。原発推進にしても、反原発にしても口角泡を飛ばしながら持論を展開される多くの方々はこの地図上の矢印などではなくて自らが壮大な地図を作っていると考える人なのではないでしようか。

私が入社試験の面接をしていた頃、必要以上にオリジナル性を強調する若者が多かったのです。そういえば通りが良いと思ったのか、何かの就職本に書かれていたのか不明ですがとにかく多かったのです。私はへそ曲がりなのでそういう輩には多くの点数を付けませんでした。オリジナル、オリジナルといったところでそんなにオリジナルが大切な訳ではないし、組織というもの同じようなカラーでないと上手く機能しません。さらにそういう輩が如何に仕事が出来ないか分かっていたからです。仕事のできる人は声高にオリジナル性など強調しなくともさらっと出来てしまうのです。

戦後の民主主義は自由と平等を教えてきました。しかし本当に自由と平等な社会なんて存在するのでしょうか。現実には格差は拡大しています。教えられた自由と平等がもはや夢と分かったこととこうした極端な白黒をはっきりさせる風潮が生まれ始めたことは決して偶然ではないような気がするのです。